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【父方ルーツ その6】 明治時代に秋田から北海道へ移住した家族の物語 前編


ルーツ探しの経緯と簡単な自己紹介はこちら。


戸籍取得は可能な限りで完了したので、これからは手元の戸籍と睨めっこしながら、さらに情報の精査を進めます。


戸籍には名前、生年月日、続柄、入籍した日、除籍した日、受理された場所などが記載されているのですが、入籍したり除籍したり復籍したりと、人の出入りが多いことに驚かされます。

”入籍”イコール”結婚”と、捉えがちですが様々な理由からその戸籍に入ってくることを示し、特に【家】を単位としていた時代は顕著に出入りがみられるようです。

今回は父方曽祖父母金治・リノ夫婦を軸にして北海道移住までの家族の物語を私の考察と想像(愛ある妄想)で綴っていきたいと思います。


養嗣子??

それでは今回の主役である金治とリノについて改めて簡単にご紹介しましょう。

曽祖父金治は明治3年工藤喜助・ソヨの二男として、曽祖母リノは明治10年後藤長之助・サキの第一子の長女として、青森県との県境に近い秋田県山本郡にある農村に生まれました。

明治24年、金治21歳リノ14歳の時に後藤家の養嗣子(婿養子)という形で結婚、戸主後藤長之助戸籍に入籍しています。

養嗣子…また聞きなれない言葉。

よう‐しし ‥【養嗣子】

〘名〙 民法旧規定のもとで家督相続人となる養子のこと。家督相続制度の廃止によって廃止された。

出典 精選版 日本国語大辞典

養嗣子は家督を継ぐ前提での入籍。家督制度があった時代ならではの“家”というものの重圧を感じます。

まして婿をとったリノは14歳。若くして婿を取るだなんて、彼女もまた”家”を背負っている様子がうかがえます。

とはいえ明治12年の時点で長之助家にはすでに「養嗣子」が存在し、金治入籍を機にその人は離縁実家へ復籍。養嗣子バトンタッチ、でしょうか??

一方で実子男児3人のうち2人は明治24年に長男5歳、次男3歳で同村内の同姓家(後藤長右衛門家)に養子に出され、さらにはその長右衛門家の長男こそが先に述べた長之助家のもう一人の養嗣子であったという、なんとも不思議な関係が形成されているのです。


この関係は一体どんな意図があってなされたことなのでしょうか?

交換留学的な?!(いやいやいやいや・・・)

ちなみに3歳で養子に出されているのは、私のひいおじいちゃん、兵蔵です。

こんがらがってきたので、頭を整理するため長女が家督を相続するケースについても調べてみました。

東北農村部ならではの姉家督

調べてみるとこのような家督相続の仕方を「姉家督」というのだそうです。

これまた初めて知りました・・・

姉家督について以下のような説明がありました。

初生子が女子である場合、下に弟である長男がいてもそれに優先して家督の相続を行うもので、日本にみられる相続方式のうち非選定(決定)相続、すなわち長子相続の一つの型に属するものである。初生女子相続とよぶことも可能である。実際には姉自身が相続者となるわけではなく、その夫である婿養子がなる。姉家督の存在理由としては、早く婿をとって相続させたほうが労働力のプラスになり経済的であるからなどと考えられている。また明治時代の徴兵制施行に際し、それを逃れるために進んで養子にいくといったことも副次的な理由として存在したという。姉家督は、末子相続とともに、長男相続による家父長制的家族制度が普遍的な状況において、そのイデオロギーに固執しないところに特徴があると考えられる。この慣行は主として東北地方の農漁村に多く、商家の間にもみられるが、士族の家にはみられない。士族の間ではもっぱら長男相続が優先した。山形県あたりには「三代婿養子は長者のもと」という諺(ことわざ)があるが、これなどは婿養子を選ぶ場合、慎重に検討してまじめな働き手を選ぶということと関連するとみられる。
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

なるほど、まさにリノの結婚形態は姉家督に当てはまりそうです。

弟長男がいるにもかかわらず、ムコ殿が家督を継承することが非常に特徴的です。

しかも三代続けて婿養子を迎えることは家の繁栄につながるという趣旨の諺があるくらいだから、積極的に婿殿を迎えることとなるでしょう。

ということは金治は真面目な働き手として見染められたということかしら。

ただ、やっぱり若くして婿を取ること、そして婿殿として期待されることはちょっと息苦しいのではないかと現代に生きる私は老婆心ながら心配してしまうのでした。(どっちが老婆やら・・・)


秋田で生まれた4人の子どもたち

それでは金治・リノ家族に話を戻しましょう。

夫婦の第一子は明治26年長女「ヲト」が誕生。しかし明治30年に4歳で夭逝しておりました。

悲しいエピソードではありますが、実はここでも一つ謎が解けたのです。

実家の仏壇に置かれた過去帳の中に、俗名ヲトワと書かれた戒名の記載があるのですが、それまではどのような繋がりのある人なのか父も母もはっきりわかっていませんでした。

今回戸籍を取得したことで金治とリノが一番最初に授かった長女こそがオトワであるということが明らかになりました。

ヲトワ、ヲトの記載違いはありますが、間違いなく同一人物です。

ずっとそこにいたのに、気づくことができなかった存在。なんだか申し訳ないような切ないような気持ちになります。

けれどこうして名前と続柄が明らかになったことで、輪郭がはっきりし色彩が添えられ、彼女の存在感が確かなものになりました。

可愛らしい女の子が微笑みかけてくれたような気がしました。

続いて明治29年長男長松、明治32年二女リヨ、明治35年二男長二郎が生まれています。

生まれた当初は後藤家の家督を相続する可能性があった子供たちの名前は、家長である之助もしくは先代の兵衛から「」の字を引き継ぎ松、二郎とありました。「」はこの家の通字とも言える大切な一文字だったのでしょう。

こうして家族も増え幸せに暮らしていたであろう金治とリノ。

けれども戸籍にはこんな記載が。

『金治、明治39年7月婿養子離縁ならびにリノと協議離婚実家復籍』

えっ!?一体何があったんだ???

結婚から15年後のことでした。


続く・・・
















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