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今の自分を認めないと、はじまらない

「自分のことを語る記事を読みたくないんだよね」

ちょっと前まで、エッセイが嫌いだと思っていた。誰かが書いたエッセイを読むたびに、背中がどこかむずむずした。「上手なわけでもないし、人に話して聞かせるほどの経験でもないのに、よく書けるよね」と心の中で毒づくこともあった。我ながら性格が悪すぎる。

「エッセイ、書いてみたら?」と言われることもあった。でも、そのたびに、自分のことはあまり書きたくないんだと言い続けてきた。「だってなんかかっこわるいんだもの、自分語りするって」

最近やっとわかってきたことがある。私という人間は、どうやら自分の欲しいものがわかっていないようだ。ちがうな。本当はわかっている。わかっているんだけど、その欲に正直に目を向けて「ほしい」と声をあげることができない。挙句の果てに「あんなものいらない」とまで言ったりする。本当は欲しくてたまらないのに。

幼い頃に読んでもらったイソップ物語のキツネとぶどうの話を思い出す。木にたわわに実るぶどうを食べたかったけれど、高くて手が届かないキツネは「ふん。どうせあのブドウはすっぱいからいらない」とつぶやいてほかの場所へ行く。人は欲しかったけれど手に入らないものがあるときに、その価値を貶めて、自己正当化をしようとするらしい。

「素直にほしいと言えないキツネになっちゃいけないね」と母と話したのに、「エッセイを書きたくない」と言う私は、いつの間にかあのイソップ物語のキツネそのものだ。

たぶん、キツネも私も「くそつまんないプライド」が高いのだ。うまく書けない自分を目の当たりにするのも、へたくそな文章を人に見せることも嫌なのだ。でも、それじゃほしいものは永遠に手に入らず、空腹はずっと癒えない。満たされなさはいつか他者への呪詛になる。「あの人はあんまり上手じゃないのに、なんで書いているの?」と。

もう半分呪詛のかたまりおばけみたいになっている私は、今日から恥を忍んで書き始めることにした。

上手に書けない現在の自分を認めること。そこから始めるしかない。一歩一歩小さな努力を重ねてゆくのだ。いつか美味しいぶどうが食べたいと思うのなら。

エッセイを書けるようになりたいです。日々砂のように通り過ぎていく自分の実感を掌ですくうように、言葉にしてみたい。そんなことを目指して、これから1か月間毎日noteを書いてみようと思います。

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