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「約束」を知ることで、世界をひもといてゆく


人生で一番最初にした「約束」はいつだろうか?

たくさんの約束を交わして私達は生きている。
「週末の金曜19時に新宿駅東南口の改札出た所で待ち合わせね」というデートの約束から、「このお金でこの仕事を期日までにやりますよ」と書面を交わす契約まで、日々たくさんの約束をする。美容室や居酒屋をネットで予約することもある。発売日に確実にコミックを手に入れるために、書店で事前予約することもあるかもしれない。目標を立てることも自分との約束の一つともいえる。

様々な約束がある。人とする約束、自分とする約束。守れない約束もある。
けれど、どの約束にも共通している事、必須の要素がある。
それは「未来を認識する」ということだ。



ムスコとのはじめての約束

2歳になったばかりのムスコは最近「約束」ができるようになった。

「悪魔の2歳」なんて世間では言われる、「いやいや期」が2歳の子供にはある。思い通りにならないと、駄々をこね、大声で泣きながら、ひっくり返り、転げまわる。座って、立ち止まって、てこでも動かない。自分の食べたいもの、行きたい方向、やりたい事、それができないと全身で怒る。
「いやいや」になると、何を言っても聞かない。しばらく時間を置いて、怒りが静まるのを待ってから、声をかけないと事態が悪化する。

先日、ご飯を食べてさあお風呂に入ろうとしたときも、そんな「いやいや」が発動した。着替えも拒否して、顔を真っ赤にして、「ままま!」「ままま!」と騒いでいる。

「お風呂はいろうよ」「ままま!!」
「お風呂はいってねんねしようよ」「まーまーま!!!」

解説すると、「ままま」は舌足らずのムスコの言う「バナナ」で、つまりお風呂に入って寝るより、今はバナナを食べたい気分だから、食後のデザートのバナナをいまよこせということ。ここでもしバナナがうちにあれば、弱い母はバナナを与えてしまう。けれど、あいにくうちには今、バナナはない。

脱衣所でズボンを中途半端に下ろして「まーまーま!!」と泣きさわぎ、じたばたする息子に、半ばあきらめ気味で私は言った。

「バナナ、明日買ってあげるからさ。もうお風呂入ろうよ」
「…うん」

息子は急に泣き止み、こちらを見上げて大きくうなずき、風呂に入るためにいそいそとズボンを脱ぎ始めた。



約束ができるのは「未来」を認識しているから

ちょっと前まで、「いまあげられないけど、あとであげるから」という提案は通じなかった。朝三暮四を地で行く、今すぐに食べないと気がすまないタイプだった。

理解できる単語の量が日々めきめきと増えて、「明日買ってあげる」という言葉の意味が理解できたこともあるだろう。だけど、何より私が感動したのは、これまで「今」の世界に生きていた彼が「明日」という概念を得た事だ。

「明日」の概念がわからないと、明日バナナを食べる自分を想像できない。
「今」の自分はバナナを食べられないけれど、明日買ってもらえるからまあいいかと思うこと、それって彼が「未来」の概念を知って、その分だけ世界がひろがったからだと思うのだ。



「ぢっと手を見る」こと

そういえば、生後3か月ごろ、まだ寝返りもできないムスコが、左手を顔の上にあげて、じっと見つめていることがあった。
まるで腕時計を見るような動作で、「また腕時計見てるよー」なんてオットと笑っていた。ふざけて、「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」(石川啄木『一握の砂』)の詩を、手を見つめるムスコにアテレコして遊んだりした。
これはどうやら、「ハンドリガード」というれっきとした名前の付いた、成長過程らしい。

赤ちゃんは、自分の身体がまだ自由に動かせない状態から、生後3か月ぐらいすると少しずつ自分の思うように体を動かせるようになる。
そして、胴だけと思っていた自分のからだに手があることを知る。
寝っ転がっている赤ちゃんがはじめて自分の身体を自分の目で見る瞬間らしい。

じっと自分の手をみる。なめてみる。手をなめた味がする。でも、手がなめられた感じもする。そうやって、自分と世界を知覚しはじめる。
その時私は、「一人の人間が、世界を獲得するのを目の当たりにしている!!」と胸が熱くなった。



知ることによって、世界を獲得する

おそらく私達は、「知る」ことによって、世界を獲得していく。

子育ての素敵な所は、一人の人間が世界と出会い、それを確かめ、獲得してゆくすべを近くで見ていられることだ。
赤ちゃんは、自分の目の前に広がる世界という膨大な情報の前で、遊びながら変化しながら、ちょっとずつ、でも確かに世界を紐解いて理解していく。
そんな彼の小さな、でも大きな挑戦を一番そばで見ていられること。それって、きっと、子育ての醍醐味だ。

もうひとつ、ムスコと一緒に毎日を過ごしていると、自分の子供の頃の思い出が沢山よみがえってくる。

息子とデパートの屋上の遊園地に行って観覧車に乗って景色を見ると、祖母が同じ場所に昔連れてきてくれたことを思い出す。息子は黄色い掛布団がお気に入りだけれど、私にも大好きなぬいぐるみがあった。
自分がどうやってここまで30年生きてきたか、何を大切にしていたか、ムスコと一緒にいると記憶がいっぱいよみがえってくる。



子育てを通して、私を生きなおしているのかもしれない

つまりは、おかしな話だけれど、私はムスコと一緒に過ごすことによって、もう一度私を生きなおしている気がするのだ。
幼いころの記憶を想起しながら、あの時大人が言っていた事の意味がわかるようになったり、知らなかったことを知ってしまったりする。
それは、とても不思議な体験で、ああ生きていてよかったな、と思えることでもある。でも、知りたくなかった、と思うことも結構ある。

一緒にいる日々の中で、そういう甘さと苦さを噛みしめながら、いわゆる「大人」ってヤツに少しずつなっていくような、まあそうでもないような、そんな日々である。

知ることで世界を紐解いているのは、ムスコも私も同じ。どうやら私も、まだ世界を獲得している途中なのだ。

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