見出し画像

人はきっと自分を好きになってくれる人を嫌いにはなれない。

3月の『新博愛主義論(?)苦手?嫌い?やっぱり好き?』というタイトルの記事で「人を嫌いにならない」ということについて書きました。
自分の中で思う苦手な人、その全てを愛すことが出来たらそれは素晴らしいことだけど、それが出来ないとしても間違いではないということ。
だって苦手や嫌いというものをきちんと認めることは「好きな人」を明確にするということでもあるから。
でも苦手と思う人を安易に嫌いと決めつけてしまうことは大切な縁を切り落としてしまうことにもなる。
だから苦手と思う人のことも大切にしていきたい。

だいたいこんな内容。



今回はそれとは逆に「人に好きになってもらう」ということについて書くんですが…あれ、それだとこの記事のタイトルとちょっと違うんじゃない?
もしかしてタイトル間違った?バ●じゃない?またミスった?という声が一瞬聞こえてきたような気がしますが(被害妄想)。
これは後で繋がっていきます。笑



僕は保育園生というとても小さい頃からいじめを経験してきました。
幼い時分から人と接することに明確な恐怖心を持っていて、同い年くらいの子に話しかける時に一瞬言葉が出なくなるという、診断を受けていないので確かではないですが吃音のような症状(実は今でもあります)が出ることもあって、よくおかしいなと思いながら過ごしていました。
それでも小学生低学年くらいまではまだ大丈夫で、初対面の子に話しかけるということも少なからず出来ていたと思うんですけど、大人になっていくにつれてその傾向は強くなって最終的には立派に完全体の人見知りへと進化を遂げます。
人見知りのリザードンです。


ピークの頃が多分ライブハウスに出はじめた頃で、今考えれはよく頑張ったなとも思うし、きっとそんな自分を変えたかったのかなとも思います。
人に話しかけるなんて怖くて怖くて、ある日のイベントで最初に挨拶をする以外は誰ともなんとも直接話さないまま帰宅するなんて日もありました。
失礼なことをしました、当時の出演者の方には。(本当にごめんなさい)

”相手が自分に好意を持っているなんてわからない”
”もしかしたら初対面の印象で嫌われてるかもしれない”
…そんなこと初対面なら誰だって同じ条件だということはわかってても、僕はそんななんの保証もない相手に好意を向けることはできませんでした。


当時の気持ちを簡単に言えば
「好きって言えないけど好きって言ってほしい」っていう感じですかね。


でもやっぱりその時だって気づいていたんですよ、きっと。
自分が好きにならないから好きになってもらえないということくらい。
でも好きになったからって好きになってもらえる保証なんてないんだからと「自分から」ということを危険だし無駄なことだと否定し続けて生きてきました。
実際、高校生までの人生では「いじめ」という形で裏切られてきていたんだし、ある意味「好きになったら負け」とかの方が当時の僕には説得力があったんじゃないかなとも思います。

そんな先日とある日、僕はそれを超える説得力を持った言葉と出会いました。
前田裕二さんの『人生の勝算』という本の一節です。


好きになられたら誰だって、悪い気はしません。(中略)人は好意を受けたら好意を返そうとする生き物です。
        前田裕二 著『人生の勝算』より


途轍もない衝撃でした。
多分今の僕だからそう捉えたんだと思います。
いじめ真っ盛りの時に読んだとしたらきっと響かなかった。

今僕は人に恵まれています。
音楽や絵、文章で得た友達や、それぞれ制作に関わるエンジニアやアーティスト。
毎度と飲みに行けるお店。
1年以上ぶり空いてしまったのに帰郷を喜んでくれる幼馴染。
その他何者でもない僕と付き合ってくれる友達。

それだけの環境が今あるのに、僕の人見知りはまだまだ健在です。
いまだに初対面の人には警戒してとっつきにくい人になっている気がします。
人を好きになるのがとても怖い。
好きになってもらってからそれを返すことの方が1000倍楽です。
でもきっとこれじゃいけない。
そう背後でジト目の僕が囁きます。


僕はまだ変わりたい。
だからこれから、もっと人を好きになろうと思います。
好きになってもらいたいから。
好きになろうと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?