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アートと生きた、女性の戦士たち。ミラノ編 n.6。 レオナルドとミケランジェロ
。

スカーラ劇場

明るく灯された劇場に吸い寄せられるように、家族連れ、カップル、友達同士、仕事帰りのビジネスマン、作業を終えた職人など、さまざまな人が広場に集まってくる。

スカーラ劇場の外観

劇場では、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮で、明るく軽く華やかなロッシーニの「どろぼうかささぎ」の序曲が劇場に鳴り響く。

スカーラ劇場

1943年の爆撃からわずか3年後の1946年5月11日に、異例の速さでスカーラ劇場が柿落としをする。まだ倒壊している建物がそこら中にある環境にあり、ミラノ人は一筋の光を感じたことだろう。

レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐

倒壊している建物のなかには、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会も含まれていた。この教会にはレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたフレスコ画「最後の晩餐」が残されている。

板絵なら持ち運べるが、当時すでに損傷の激しかったこのフレスコ画を壁から剥がして避難させることは不可能だ。1938年にジュゼッペ・ボッタイ文化政策大臣が出した保管方法の指示に従い、砂袋を天井まで高く積み上げて保護する。

参照:Museo del Cenacolo Vinciano

1943年8月にミラノが連合軍による集中爆撃を受けたとき、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会も被害に遭い、中庭は見るも無惨な瓦礫と化してしまった。

参照:Museo del Cenacolo Vinciano

この姿を見たら、最後の晩餐も崩れてしまっただろうと思わずにはいられない。

奥に足を踏み入れてみると、砂袋で覆っていた壁は、かろうじて倒れずに残っていた。奇跡としか言いようがない。

参照:Arutonauti
参照:Museo del Cenacolo Vinciano

最後の晩餐を守ってくれた砂袋を、戦後、慎重に取り除いていく。埃と塵にまみれた壁が少しづつ見えてきた。色はほとんど消え失せ、輪郭もままならない。

作業を見守っていた修復家や美術史家からは、落胆し、失望した声が漏れる。

美術史家で美術評論家、さらには修復の専門家である、チェーザレ・ブランディ。政府から修復研究所の指揮に任命されている修復の第一人者が、口を切る。

修復不可能な損傷だ。
レオナルドの作品はこの世から永遠に消えてしまった。

彼の意見は絶大である。ほんのわずか壁に色は残っていたが、修復作業は中止。という方向に話しは向かっていた。

ちょっとお待ちください。

発言したのはヴィットゲンス館長。

ブレラ美術館に簡単な作業員として入ったとき、モディリアーニ館長から指示され、ミラノとその周辺の教会や礼拝堂で、修復が必要なフレスコ画があるか調査し、調査後は、館長とともにフレスコ画の修復を行った経験がある。

あのときの経験が蘇る。

本当に修復ができないのかは、やってみなければ分かりません。
やらずに諦めるのなら、やってから諦めても遅くはありません。
わたしは、修復することを主張します。

チェーザレ・ブランディは、ブレラの館長に真っ向から反対する。

ヴィットゲンス館長はテコでも動かない。

みなさんもご存知の通り、1700年代の修復では、最後の晩餐のオリジナルの上から重ね塗りされています。いまの技術では、その部分だけを取り去ることが可能です。レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた本当の色が蘇るでしょう。

もし失敗したらどうするんだ。

できる保証はどのくらいあるのか。

失敗に終わったら、我々が世界の至宝でもある最後の晩餐を傷つけたと後世まで非難されるぞ。

1700年代の修復に関しては、文献も残っているから、美術史家も修復家も知っている。本来なら、オリジナルの色を取り戻すために、取り除かなければならないのも分かっている。それなのに、いままで手をつけずにいたのは、ひとえに怖いからである。もし失敗したら、責任問題にも繋がる。

ヴィットゲンス館長は、もちろん承知の上だ。その上で、修復を試みようと言っているのだ。本当のレオナルドの絵を解放するために。怖気付く美術史家を尻目に、修復作業に入っていく。

修復中も、やんややんやと言われ非難されるも、馬耳東風をきめこむブレラの館長。

1954年5月30日。4年間の修復を終え「最後の晩餐」が公開される。

6月2日には、イタリア共和国の大統領から、1等の金メダルを授与されたヴィットゲンス館長であった。

ミケランジェロのロンダニーニのピエタ

はじめまして。フェルナンダ・ヴィットゲンスです。

1945年。戦後初のミラノ市長アントニオ・グレッピは、自分に近づいてくる、この女性を前にして、まるで学芸や戦いをつかさどる女神アテネに出会ったかのような錯覚を覚えていた。

はじめまして。フェルナンダ・ヴィットゲンスです。

もう一度彼女は自分の名を言い、握手を求めてきた。

ミラノの美術品を守り、ユダヤ人を救済し、果てに刑務所に服役していたが、1945年4月のイタリア解放を機に、館長として復帰したばかりだった。

1950年ブレラ美術館の開館セレモニーで
握手をするグレッピ市長とヴィットゲンス館長

ミラノ再建に向けて走り出した頃から、ヴェットゲンス館長は、グレッピ市長のところへ赴いては、ブレラ美術館をはじめとする、ミラノのモニュメントや美術館の再建の必要性を訴える。

この日も、ヴィットゲンス館長は市長のもとへ訪れていた。

ミケランジェロの最後の作品「ロンダニーニのピエタ」が、いま売りに出されているのをご存知でしょうか。

ローマ、フィレンツェ、アメリカ合衆国などが、獲得しようと競売に参戦している。

絶対にミラノが買うべきです。

グレッピ市長は、長年の付き合いから、ヴィットゲンス館長の突拍子もない申し出にもそんなに驚かなかったかもしれない。

ミラノも競売に参加するゆえ、市民の皆さまからのご協力をお願いします。と新聞を通じて募金活動を行った。

ミラノ市と市民が一丸となり、二百万ユーロ(現在のレートで約3億3500万円)を捻出し、1952年11月1日に、ミケランジェロの「ロンダニーニのピエタ」はミラノ市の所有となる。

参照:civico archivio fotografico
参照:civico archivio fotografico

現在も、ミラノのスフォルツェスコ城に展示されている。

レオナルド・ダ・ヴィンチ作「最後の晩餐」。
ミケランジェロ作「ロンダニーニのピエタ」。

ルネッサンス時代を代表する天才芸術家二人の作品は、ミラノ観光の主要なモニュメントと言っても過言ではない。どちらも、フェルナンダ・ヴィットゲンスの功績である。

ブレラ美術館が一般公開するようになり、ヴィットゲンス館長は次々と革新的なプロモーションを実施する。ピカソのゲルニカがミラノで展示されるのも、その頃である。

次回へつづく。


前回まで連載していた「解放されたアートと勇士たち。」の続編「女性の戦士たち」をお届けしています。

もとは、こちらの展示会に足を運んだのがきっかけです。まさか、自分でもこんなに長く書き続けるとは思ってもみませんでした。

参照:『ARTE LIBERATA 1937-1947』 
ローマのクイリナーレ宮殿の美術館で開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」。

ミラノでも残念ながら知っている人が少ない彼女の存在ですが、2023年1月にイタリアのテレビ局Raiでフェルナンダ・ヴィットゲンスの物語が放映され、ようやく、彼女の一端が知られることになりました。イタリア在住の方でご覧になられた方もいるでしょう。

創作大賞にも応募しています。ぜひ応援をお願いします。

最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

参考資料:
"Sono Fernanda Wittgens" una vita per Brera di Giovanna GinexBiblioteca d'Arte Skia出版
https://pinacotecabrera.org/
https://riviste.unimi.it/index.php/concorso/article/view/5108/5167
https://www.elle.com/it/magazine/storie-di-donne/a22513576/fernanda-wittgens-biografia/

音声&映像の参考資料
https://www.youtube.com/watch?v=A5Tjq8XgiMM
https://it.gariwo.net/storie-di-giusti-24456.html#wittgens
https://www.raiplaysound.it/audio/2023/03/Il-pescatore-di-perle-del-25032023-a7a6618f-a6fb-4404-9825-81f31b25264c.html
https://www.youtube.com/@UnioneFemminileNazionale/search?query=fernanda
https://www.youtube.com/watch?v=u9DwfvCvGHQ

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