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【見えない目で見る 】


近眼と老眼の入り混ざった自身の「目」について考えてみた。
人間の五感のうち「視力」「聴力」の衰えが老化と共に顕著になる感覚なのではないかと感じている。
小・中学生の頃は視力検査で2.0〜1.5を行き来していたのに、忘れもしない高校一年の時、お行儀悪く横になって肩肘に頭を乗せてテレビを見ていた。左が下で時々左目が塞がれてもTVはちゃんと見えていた。後方の母に呼ばれ半身起き上がって振り返るとちょうど右目と左目の真ん中に柱がある状況で母の方を見る体制になった。
ん?
なんか違和感。
右の母と左の母が違うのだ。
真ん中の柱がなければ一人の「母」として認識できたであろうが、柱を介して見ると「右の母」は怒り顔で、「左の母」は優しい雰囲気の母なのだ。
おもわず右に左に頭を傾けて「母」を注視すると、そこに居たのは「怒り顔の母」。「寝転んでTVばかり見ていないで勉強しなさい!」という母の気持ちが、言葉には発せられなかったけれど表明されていた。
そこではたと考えた。今、左目で見た「優しい雰囲気の母」はなんだったのだろう?まぼろし?
手で右目・左目を順に隠してテレビを見る。右目のTVはクリアで左目のTVはボーッとして役者さんの顔も皆一緒に見える。
もうおわかりだろうが、私の左目の視力がずいぶんと低下しているのを発見した瞬間である。
ものの見え方は相対的なものらしい。普段両目でモノを見ているので一つのモノとして認識されている。大抵は良い方の視力が補うのでそこまで片方の視力の低下に思いも及ばないのだが、あまりに左右差があり過ぎると良い方の目の視力も負荷がかかりすぎて低下して行くそうだ。
その後、高校時代はメガネ、大学時代はコンタクトでクリアな世界を追い求め続けて来た。
最近は主にメガネである。コンタクトは何かステージに立つなどのイベントがある時だけ使い捨てを利用していたが、それも面倒になり常にメガネをかけた状態の「私」がプロフィール写真に出てきても「これが私」と納得して過ごして来た。
モノがクリアに見えるのが果たしていい事なのか?とメガネを外してしばらく生活してみる。最初は靄がかかってもっとはっきり見たいと目を細めたりもしていたが、慣れてくるとこの状況も捨てたもんじゃないと思えてきた。
網戸越しに見る外の世界と網戸無しで外と内がつながった世界。
あまり変わらないようにも思えるし、霞がかかっている方がなんだか素敵。全てを正しく綺麗に見る事の限界から新たな「美」の世界が「見える」かもしれない。


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