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エッセイ・ノンフィクションマガジン

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作家、アーティスト、大島ケンスケによる実体験に基づいたエッセイやノンフィクションをまとめたマガジンです。
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17歳の少年。

今回は、自伝的ノンフィクション小説です。少し長いです。自分自身の懺悔のような気持ちもあります。 * 高校生の頃。日曜日の日中は大抵、俺は母の入院する病院にいた。その病院は地元から車で1時間ほどかかる、札幌市の外れにある総合病院だった。母の病気が難病なので、地元の病院ではなく、その札幌の病院に入院するようになった。 日曜日はいつも憂鬱だった。遊びたい盛りの高校生が、毎週、陰気臭い病院で、半日過ごさねばならいのだ。 残念ながら、当時の俺は“母親想いの息子”、なんていう少年

父と息子

「オレがお前に教えられることなんて、麻雀くらいかもな…」 父はふっと鼻で笑いながらそう言ったけど、それは決して自虐的でもなく、なんだか楽しそうな雰囲気だったのを覚えている。 高校生の頃、僕は仲間とよく麻雀をした。 我が家には雀卓も牌も揃っていて、駅から近かったし何かと溜まり場で、暇があると麻雀をしていた。 仲間には中学生からやってる連中もいたけど、僕は高校生になってから覚えた。自分で本を読んで“役”(決め手の組み合わせのこと)を覚えたりしたけど、基本ルール、そして応用

父と2人でジブリの「紅の豚」を映画館で観たんだ。

この世の中には2種類の人間がいる。 それは「映画が好きな人」と「映画にさほど興味のない人」だ。 もちろん、それは“小説”でも“音楽”でも“美術”でもなんでもそうかもしれないけど、今回は映画の話だ。 いや、そうじゃない。訂正する。「なんでもそうかもしれない」なんて曖昧なことを書いたけど、例えば“マクドナルド”とか“スマートフォン”とか“パイナップル”とか、そういうものになると、そこにはもちろん「好きな人」と「そうでもない人」がいるけど、そこにはほぼ確実に「それを嫌いな人」

温泉宿のアルバイト その1 「シコシコしてるか?」

先に言っておくが、このタイトルだけでこの話を何か「卑猥」だったり「エロ」な要素がないことをお断りしておこう。ただ他にうまいタイトルが思いつかなくて、今回の物語のひとつの核心である「シコシコしてるか?」を題した。 ☆ 僕は色んなアルバイトをしたことがある。 おそらく多くの人がパッと「アルバイト」聞いて思いつくような業種、例えば「コンビニ」とか「ガソリンスタンド」とか「飲食店」とか「引越し」とか、その辺のテッパンのものはもちろん、「テレアポ」「データ入力」のような事務系、や

故郷

僕には故郷がある。 それはつまり「生まれ故郷」を出て、離れた場所に暮らすからこそ生まれる概念。 僕は生まれた土地を離れて生活することを選択し、おかげで故郷ができたというわけだ。 北海道の小樽市が僕の生まれ故郷。20歳の頃に単身東京へ行った。進学でも就職でもない。夢を追って、自分の人生を切り拓こうと、前のめりで飛び出した。 里帰りをするようになったのは、結婚して子供が産まれてから。(それまでは多分2回しか戻ってない) 以来、北海道へ行かない年はない。 両親は2019

麒麟が来た 5

麒麟が来た 1  麒麟が来た 2 麒麟が来た 3  麒麟が来た 4 の続きです。 麒麟が来た #5(何者でもない。大いにけっこう) そう思った。 そして、そこに「わたし」がいた。 それは全体に溶けていくような私であり、同時に、確固たる、唯一無二の『わたし』だった。その『わたし』は、この世界と、この五感、この体、この感情、この思考から、完全に超越した『わたし』だった。 何者でもない。私は、わたしに成れた。 いつか瞑想の深みで気づいた「わたしはいない」という、非二元

麒麟が来た 4

麒麟が来た 1  麒麟が来た 2 麒麟が来た 3  の続きです。 麒麟が来た #4何者でもなく、何もできない自分。まだ、それを受け入れられず、立っているのもやっとなくらい、打ちのめされて、重力が増したかのように体は重く、気圧が変化したのかというくらい、空気が重く、呼吸も苦しく感じられた。 そんな時にまた、麒麟が現れたのだ。 ☆ 鳥取砂丘には、長い時間滞在していた。 初の鳥取県訪問。予定としては色々と行きたいところに目星をつけていて、なんとなくのタイムスケジュールは

麒麟が来た 3

続きです。 麒麟が来た #3 人は一度「本物」を知り、それに触れてしまうと、もうそれ以外は受け付けなくなるのでは? 例えば、ルイ・ヴィトンの“パチモン”を、ずっと本物だと思ってた人が、ある時から本物との質感や仕立て具合、触り心地、色合い、丈夫さなど、それらの違いを明確に理解するようにあり、その価値や良さを味わってしまったら、その人はその後レプリカを使い続けるだろうか? 一見そっくりだけど、細部が雑なパチモンを好きになれるだろうか? 本物を知るとは、この世界である意味残

麒麟が来た #2

続きです。 ☆ 麒麟が来た 2 (……あれは、なんだったんだ?) 考えれば考えるほど、昨夜目にしたものが、現実離れてしていた事実に首を傾げる。 しかしはっきりと姿を思い出せる。目に焼き付いている。あれは「現実」だった。 「幻覚なんじゃないの?」 と言われても、僕はそれに対して「現実です」と、真っ向から反論できる。それほど、疑いようのない現実の動物だった。 燃えるような色の毛。長い尻尾。鹿でも犬でも山羊でも猿でもない。 (麒麟…) 漠然と、そう思った。 20

麒麟が来た

龍、という動物を、見たことがある。 動物、と表現していいのかわからないけど、人間ではないし、鳥や虫でもないので、“動物”と表現してみる。 と言っても龍は普通の動物とは随分と違った。 現れたかと思うと、その姿をすぐに空間に溶け込ませるように、まるで映画プレデターの光学迷彩のような状態になり、螺旋を描きながら空へ消えていった。 他にも、これは「動物」という表現には当てはまらないけど、ある時目を閉じていたら、はっきりと瞼の裏にやって来て、七色に鱗を輝かせる、その美しい姿を見

物足りないくらいでちょうどいい

物足りないくらいでちょうどいい、というタイトルをつけたけど、このnoteに副題を付けるとするのならば、「1粒の肝油ドロップと幼稚園の思い出」となる。いや、むしろそちらが主題の方がいいかもしれない。 でもあえて、個人的な感情として「物足りないくらいでちょうどいいのかもなぁ」という気持ちを綴らせて頂こうと思う。 その前にお知らせ。新刊出版。 物足りないくらいでちょうどいい これを読んでいる人で、一体どれくらいの人が「肝油」を知っているのかわからないが、多分、子供時代に昭和時

中央線

中央線。THE BOOMの歌であったなと、このタイトルを書いてから思い出した。 「走りだせぇ〜え〜♩ ちゅうおおうせぇ〜ん♬」 と、そんなことは関係ないんだ。 先日、朝の中央線で東京駅へ向かってる時の話なんだけど、なんというか、人としての、 「品」 ってものを考えさせられる出来事があった。 なに、大したことじゃないんです。ちょっと気になっただけのこと。 だけど妙に引っかかったってことは、多分僕自身に何かを教えてくれた出来事だったのだろう。 「目に映るぅ〜♩すべ

僕と“いえす”様

「いえすさま…」 僕は幼い頃、キリスト教系の幼稚園に通っていた。 そこには教会があり、毎朝「礼拝」の時間があり、月曜日は牧師さんと共に、いつもより長い時間の礼拝をした。 僕はその時間が好きだったということをよく覚えてるし、聖書の話とかを絵本で読んだり、絵を見るのも好きだった。 ちなみに僕は2歳くらいから割と記憶があるので、幼稚園児の頃は、かなり鮮明な記憶が残っている。 お祈りの時間。それは素敵な時間だった。 お祈りをする、ということに対して何も抵抗なかった。そして

夏の花火 2編

夏のエッセイシリーズ。 盆踊りとアイスキャンディー 水泳教室とタコチュー 前回の線香花火。 と同じく、テーマは「花火」です。2編。 ぜひ花火の思い出を感じてみてください。コメントなどでシェアしてくれると嬉しいです。 夏の花火 二篇 1  光の輪 大人になると、『花火』という言葉が話題に上るのはいわゆる「花火大会」の花火になり、手持ち花火をやる機会はぐんと減る。 僕も実際のところ、19歳の頃に海で仲間と花火をして以来、自分に子供ができるまでの間は、手持ち花火で