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探求文庫#153 マスター(主人)

割引あり

「生きる」とはどういうことだろう?

人が生きることを「人生」と言います。あなたの人生は、あなたは「私の人生」と呼ぶでしょう。

あなたの人生、それは「あなたの体験」です。人生とはあらゆる体験ではないでしょうか?

僕が体験したことは、あなたの人生には含まれませんよね?だから、あなたの体験こそが、あなたの人生です。

でも、体験する「わたし」という存在は、とてもぼんやりしたものだと思いません?

じゃあその「私(わたし)」というのは、一体なんなのでしょう?

あなたは一人称を持って生きていますよね?

私、俺、僕、オラ、あたい、うち、拙者(?)、なんでもいいんですが、とにかくここでは「私」に統一するとして、「自分」というものがいます。

それって「感覚」の一つですが、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)もあなたの「わたし」に含まれていて、私を認識するための装置の一つですが、多分五感を超えた「自分」という感覚があると思います。

では、どこからが「わたし」で、どこからが「わたし以外」になるのか?

その境界線って、多分、いや、絶対に「皮膚」です。まずは皮膚感覚という境界で、圧倒的な判断をしているはずです。

つまり、皮膚の中は私、皮膚の外は私以外

こうやって書くと、僕らは人間の「皮袋」に入った存在とも言えますね。

私以外に対して、僕らは生物として当然ですが、抵抗が生じます。私以外のもの、こと、人、それを「受け入れたいor拒絶したい」という選択が生まれると思います。実際に人体の中では、異物が入るとすぐに白血球が攻撃し、撃退します。

え?よくわからない?実感がない?

では試しに、ちょっとばっちい話ですが、唾(つば)をペッとグラスに吐いてみてください。

そして、今度はそれを飲んでみてください。

……

……

いやいやいやいやいや、無理でしょ?(笑)

まさか本気で飲んだ方はいなかったと思いますが、自己責任でお願いします。

自分の出したツバを飲む。もちろん、どうしてもやらなければならないってんなら、その気になればできるけど、やっぱり「やだ!」って感覚になると思います。拒絶反応があると思います。

これは「養老孟司」さんが話していたネタですけど、面白いこと言うなぁと思いました。

つば。唾液ですね。口の中にある時は平気なわけです。でも、一歩(?)外に出ると、それは“私以外”の「異物」になるんです。

うんこやおしっこもそうですね。出す前は「腹の中」にあるわけです。どんな美人で麗しい女性でも、腹の中にはうんこがあるわけです。

腹の中にある限り、誰もその人のうんこなんて意識しませんし、本人も意識ありませんが、一歩(?)尻の穴から出ると、「汚い」ものという認識になり、まさかそれが「自分」なんて思えないし、体内に戻したくない。さっきまで「自分」だったのに。

「細菌感染を避けるために、そういう意識が発達した」という、生物学や進化論的な説もありますが、そういう理屈云々はもちろんだけど、とにかく我々は、自分の皮膚の外は、「わたし以外」と感じるのは間違いないですね。

「わたし」という存在の中に、異物を入れたくない。それは自分を脅かすものかもしれないというリスク。だから性的行為というのはその極地ですね。相手の体液を受け入れるし、女性にとっては男性の性器を自分の内部へ入れることですから、そりゃぁ男がいくら「やりたいやりたい!」と思って、「減るもんじゃないだろ?」と言ったところで、女性にしたら自分の中へ侵入を許すって、慎重になるし、ハードル高いに決まってます。

性犯罪などが深刻な被害をもたらすのも、外部の傷というより、もっと内的な部分だからですね。拒絶という選択が無視され、無理やり侵入される。犯されたのは体じゃなくてその心です。

さて、前置きが長くなりましたが、僕たちは「わたし」という存在を持ち、それを大切に思い、異物を侵入させまいとしているわけです。

これは「人間」として真っ当な感覚であり、「動物」としての防衛本能です。

では、少し人間とか動物とか、そういう部分から離れて、僕らの「本質」や「真理」で視る「私」ってなんでしょう?

まずは「皮膚」の内外という境界線ですが、そこに本当に「私」があるのでしょうか?「私」はその「皮袋」の中にいるのでしょうか?

皮袋に詰まっているのは「肉体」です。じゃあ、肉体が私なのでしょうか?

もしくは心と呼ばれる、悲しんだり、怒ったり、喜んだり安心したりするこの感情が私なのか?

それか、あなたの記憶を含む、あらゆる思考。考えるその頭の中が私なのでしょうか?

正解は、どれも私の一部分です。

なぜなら、我々は3つの自己を持っているからです。

ただし、普段は思考が優勢です。考え、言葉を使って、記憶をベースに、この社会を生きているので、思考が一番「わたし」に近いと思います。

ただ、言葉にならない感情は外部の刺激から湧き上がり、それに振り回されますし、肉体は反射的に自分の思考を無視して勝手に動いたり、逆に、疲労や病気などで、動きたいのに動かせない時もあります。

思考だって、いつも自分の考えたい時に考えたいことを効率よく考えているわけではなく、注意力散漫になったり、集中力が続かなかったり、興味ないことは覚えにくかったりします。

つまり、この3つのセルフ(自己)ですら、我々はまともに扱えないし、コントロールできていないのが現状です。

コントロールは、できる部分と、できない部分があります。できない部分は誰がやってるのかというと「生命」であり、生命ってなに?と尋ねられると、もうそれは宇宙とか神という領域になりますが、実際そうでしょう。

でも、できる範囲はしっかり使うべきで、それと神からやってくる動きのコラボレーションで、思考、感情、肉体を使って、この世界を生きること。

ただし、僕らはすぐに「偏り」ます。多いのは、男性は思考に偏るし、女性は感情に偏ります。たまに、肉体に偏る人もいます。

キリスト教の三位一体(父と子と精霊)とか、仏教の三尊仏、ヒンドゥー教のブラフマン(創造)、ビジュヌ(維持)、シヴァ(破壊)、日本の神道の神話も「アメノミナカヌシ、カミムスビ、タカミムスビ」の3神から始まり、天津神の最高神も「アマテラス、ツクヨミ、スサノオ」も3神です。

つまり、3つでひとつ、ですから、偏りがあってはいけないのです。

この3つで一つ、の状態のあなたが「主人(マスター)」なのです。ある種のハイヤーセルフ、とも言えます。

visionでは、この3つを統合している時に、マスターのvisionと生きることができるとお伝えしておりますが、偏っている限り、人は思考だったり、感情だったり、肉体だったりして、この社会とか、人間世界のシナリオに流され、そこでシーソーゲームを繰り返す不自由な存在です。

マスター(主人)は、創造主であり、本当のわたしです。だから、真の人生を生きて、充実させたいのなら、記憶や習慣、社会の風習に作り上げられた「思考」で作る人生はなく、マスターの視点が必要です。

visionでは、その基本的なことをお伝えしています。

では、後半では、文章でそのためにできることをお伝えします。

マスターのvisionを知り、構築するための、一振りで達成できる「魔法」はありません。地道な作業となります。

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