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探求文庫 #140  大河の一滴

大河の一滴  その1


我々の人生を「川」に例えてみましょう。それは、とてもとても大きな川です。

その大きな川の中には、「日本」だったり「世界」だったり「宇宙」という解釈もあれば、生活全般や、出会う人、住んでる町、仕事の内容、食べるもの、飲んだもの、排泄したもの、吐き出したもの…。

思想的なもの(資本主義、共産主義、宗教)や、あらゆる考え、感情なんかも川には含まれます。

とにかく「我々の生きる宇宙のすべて」です。目に見えるもの、見えないもの、すべてが流れる大きな川です。

当然あなたも私も、その川の中にいます。しかし人間の存在なんて、大きな大河の「一滴」のようなものです。だから、川にとって、我々一人一人の意志とか願望は、残念ながら重要事項ではないどころか、聞こえてもいません。

ちょうど、あなたを構成する60兆個の細胞のようなものです。細胞にも意思がある、という説がありますが、その細胞の意思を我々の知能では認識ができません。仮に認識できたとしても、例えばあなたの太ももの脂肪の中の細胞の一つが何かを要求していたとしても、その要求よりも、自分の目の前の仕事とか、今差し迫ったことが優先されるでしょう。

川の流れを見ているとわかりますが、蛇行し、時に右へ、時に左へ、時に沈み込み、時に上昇し、時に渦を巻きと、さまざまな流れを持っていて、川を構成する水、つまり水滴たちは流れが右に行く時は自分も右に流されるし、渦を巻く時は自分は渦に巻き込まれます。

この流れは水滴には変えられません。水滴に、大河の流れを変えることは不可能で、水滴はただ流れに沿って流されるしかありません。もし、水滴が自身の意思で、多少なりとも動けたとしても、大きな流れに逆らえるはずもなく、結果流されるので、その労力だけ無駄でしょう。

だけどポイントは、水滴には川は見えないということです。水滴に見えるのは、周りの水滴だけです。時々、石とか砂利とか、水草の一部や、プランクトンが見えるかも知れません。まして、自分が「川」というものの中にいるって気づきません。

流れは感じるでしょう。早くなったり、遅かったり、粗々しかったり、ゆるやかだったり、沈んで、冷たく重たく感じたり、上昇して、軽やかで陽の光で温かくなったり…。

でも、自分が「川」の一部だとは気づけません。水滴な自分が川の中の一滴だと知らずに、自分の力で生きて、隣の水滴とぶつかり合ったり、なだめあったり、仲良くしたりしつつ、水滴なりの生を全うするのでしょう。

これは、私たちの人生も同じようなものかもしれません。自分で自分の行動を決めているようで、ほとんどがこの流れの中です。隣の水滴や、周辺の水滴たちにせいぜい働きかけることくらいでしょう。我々の細胞が、隣の細胞とイオン交換しているようなものですね。

小さな水滴は考え方も小さいので、それで人生を「自分でコントロールした」とそこそこ満足します。

たまたま上昇したら「俺の才能と努力のおかげ!」と誇り、沈んだり、渦に巻き込まれたら「時代のせい」と周りのせいにする。

しかし、どちらも不正解で、ただ「川が流れただけ」で、「たまたまそこを流れてただけ」です。

水滴は、大きな流れに贖えないです。水滴がいくら「自分の力」を主張したところで、しょせんは水滴が見る夢かファンタジーで、水滴はあくまでも水滴です。川というものに対して、非力であり、流れに対して、こちらから働きかけることはできません。完全に、川の方に主導権があります。

我々の人生を川に例えたとするなら、こんな絶望的な話はないかもしれません。なんのために生きているのかわかったもんじゃありません。だから認めたくないでしょう。

「人生は自分でコントロールできる!」

と、お伝えした方が、あなたは元気になるし、やる気が起きると思います。

どちらが正解か? なんてあなたが決めるしかないです。ただ、僕は僕の知る事実をここに記しています。

あなたは大河に対してなんら力を持っていません。川に逆らえず、それなのに、大河にこちらから影響を与えていると錯覚しています。まるで幼児が自分のおもちゃ箱の中で、王様になって、世界を支配しているように。

では、我々は何のために生きているのか?

一つは、その大河を体験するためです。川の流れの中で、色々と味わい、学ぶのです。

しかし、それでは完全に「受動」しかないのか?と疑問が湧きます。そんなことはありません。その中でも、隣にいる水滴とコミュニケーションが取れます。こちらから、隣の水滴、つまり「今目の前の人、もの、こと」にはアプローチが可能です。アプローチしなければ、何も起こりません。もちろん、向こうから来る時もありますが、こちらからも行かねばなりません。

また、さまざまな流れがある中で、自分が「どう在るか」を選択できます。

激流もあれば、冷たい水底もあるでしょう。渦に巻き込まれて前に進めない時期もあるでしょう。その横を、誰かがすいすいと流れていくのを見て、悔しくなったりするかもしれません。

しかし、そんな時に「どう在るか」です。

怒りに身を任せる。悲しみに心を沈める。嫉妬と憎しみに悶え苦しむのか? それとも、その激流や冷たさに身を委ね、それも経験とし、抵抗せずにじっと過ぎ去るのを待つのか?

川なので、常に流れています。つまり変化します。水滴には全体が見えないのでそれがわかりません。賢い水滴は、「状況は必ず変化する」と、自分の経験則や、鋭い観察により、そのことを知っています。そして、水滴なりに、その時々の意識を放つことで、ほんの少しですが、流れに「乗る」ことができます。

「流れに乗る」のと「流される」は、似ているけど違います。流れは、さまざまな可能性があり、上に行く流れや、下に向かう流れ、右に向かったり、左へ行く流れなど、水滴には、水滴のやり方があるのです。

だからどんな時もvisionを持つことです。水滴の「在り方」で、自分が流される大まかな方向や、渦を抜ける時間などが変わって来ます。

例えば、軽やかになった水滴は、軽やかな水滴同士が集まります。そうなると全体的に上昇する流れに入り、結果として見晴らしの良いところを流れるでしょう。

右に回転すると、右に回転する水滴同士で、自然に右に流れるもの同士が、右へ流されることが、必ずではないですが、可能です。必ずではない、というのは、そこが急流だったり、明らかに左に大きく曲がっている時には、何をやっても無駄だからです。でも、比較的緩やかな時なら、可能性があります。

水滴には水滴にできることがあることを、おわかりいただけたでしょうか? だから絶望することはありません。

例えば、世界中におかしなウイルスが流行ったことは誰にも変えられなかったように、変えられない流れはありつつも、自身の在り方により、そこで受ける影響はまるで違ってくる、ということです。

しかしもう一つ、我々にできる大きな可能性があります。こちらに関しては、記事の後半に探求クラブ限定記事にて公開します。

先日、熊野に行っておりました。

熊野本宮大社
熊野川上流の十津川

熊野は「熊野川」という大きな河川があり、奈良県天川村大峰山系を源流とし、天川で「天の川」十津川村では「十津川」と呼ばれます。

川って偉大だなぁと、大きな川を眺めてて思いました。

日本は水が豊かな国ですが、その水資源は、水が豊かでないけど、力を持った国々や、力を持った人々はその資源を狙っています。

水は貴重です。

水に祈りを捧げましょう。まずは毎朝飲む朝の一杯のお水。感謝してから、じっくりと味わいましょう。水の美味しさを染み渡るほどに、水が当たり前ではないことを知ると思います。

最近お伝えしている「vision」は、そんな僕が唯一「夢」を与えるキャッチコピーをつけられます。「なりたい自分になるためのメソッド」です。もちろん「簡単、すぐに」ってことはないです。でも、確信を持って伝えています。

☆ vision

☆ 五感を磨き、自然と通ずる。

高尾山歩き

阿弥陀寺と奥の院を巡り、野外でのワークショップと、箱根でランチ。

京都。伝統と神秘の山を歩く。

☆「地水火風 - 祈りの唄 - 」 エレメントを浄化し、平和の世界を祈る音。

10月29日(日) 大阪 募集はまもなく

11月5日(日) 東京 募集はまもなく

Youtube

大河の一滴  その2

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