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「瞑想」とはなんなのか? そして「瞑想の極意」とは?

瞑想。
mei-sou。
メディテーション(meditation)

ある種のブーム的なものとして、瞑想は「マインドフルネス」を中心に、ここ数年、実践されている方は増えたし、スピリチュアル界隈でも、瞑想はテッパンなので、大抵のワークに取り入れられています。

「感受」に特化した受動的な瞑想もあれば、イメージングを駆使した能動的な瞑想もあり、東洋的なものや、宗教的なもの、そういったものを排除した、脳の機能のための行う瞑想。とにかく色んな瞑想があります。

僕は、24歳くらいから独学で「坐禅」を始め、瞑想歴としては20年以上になりますが、そんな僕にとって瞑想は「なんにもしないを、する」ことでもあります。矛盾した言い回しですけど、そうなんです。

しかし「する」以上、瞑想という行為にアプローチをしてるわけです。

人はなんらかの行動(アプローチ)をする際、そこには「目的」があります。意識的にしろ、無意識的にしろ。

では、瞑想の目的は何か?

ビジネス系の人がマインドフルネスなんてやるのは、

「集中力、記憶力強化」
「メンタルヘルス」
「うつ病改善、予防」
「リラックス」
「血圧を下げる」
「血行を良くする」
「睡眠状態の改善」

など、そういう目的でされる方が多いし、これらの効果効能は、数多く報告されています。

でも、上記の「状態」を求めるのは、それが最終目的ではなく、やはり「仕事」への成果や、「健康」への効果などが実際の目的です。

スピリチュアル系の人では、上記のような現実的な具体性よりも、もう少し違う目的かもしれません。

「悟り」とか
「覚醒」とか
「アセンション」とか。

この辺になるととにかく「曖昧」であり、「悟り」と一口にいっても、それがなんなのか説明はできないし、悟っていない人に“悟り”はわかるはずもないから、解釈次第でどうにでもなります。

しかし、なんでそんな曖昧な精神状態(覚醒、アセンション)を求めるのかというと、大半の方が
「悟りをひらけば今の悩みがなくなる」
とか
「アセンションすれば幸せになれる」
「特別な能力を得れば楽になれる」
「宇宙の叡智を得ればなんでも悩みが解決できる」
とか、そんな目的で、スピリチュアル活動をしているようにも見受けいられます。

そのために、スピリチュアルなグル(師)について、何かを伝授してもらったり、ワークをしたり、修練したりするわけですね。

前者の「仕事」「健康」も、その目的は「幸せな人生」とか「充実した人生」という奥の心理があります。

では、瞑想で悩みが解決したり、仕事がうまく捗ったり、健康になったりして、人生が良くなるのか?

知りたいですか?

知りたいですよね?(笑)

だってここまで読んだってことは、瞑想とかに興味ある方だろうからね。

タイトルに「瞑想の極意」とか書いちゃったからね(釣りタイトル笑)

では、私が20年以上探求した僕の、「瞑想の極意」としてお伝えします。

瞑想をしたら、あなたは健康になったり、仕事が今よりできるようになったり、人間関係が円滑になったり、元気はつらつオロナミンCになれるのか?

それは…

あ、ついでもう一つ、

スピリチュアルを求める瞑想をすることで、あなたは今の自分を超越した意識状態になって、この世の悩みから解放されて、過去のカルマとやらが浄化されて、次元上昇して、豊かな人生を送れるのか? ってことも、一緒にお答えしましょう。

で、それは…

あ、そうそう、その前にさ、(まだ引っ張る!)

先に言っておきたいことがあった。

僕は瞑想歴20年以上と言っても、ほぼ独学です。

数名の瞑想指導の方から瞑想を習ったり、マントラの伝授というものを受けたり(正直それの意味するところがよくわかりませんが)、10日間、口を開かず瞑想しまくるという合宿に参加したこもありますが、

「実績や資格」みたいなものはないです

有名な瞑想指導者たちはいて、スクール形式になり、そこでは講師認定が受けれるシステムがけっこうあるのですが、そういうものは持ってないです。

インドで瞑想指導者の元で何ヶ月も修行したとか、世界を放浪して命からがらスピリチュアルな神秘体験をしたとか、交通事故にあって臨死体験して宇宙の仕組みに開眼したとか、そういう激しい体験談もないです。

または密教の阿闍梨の祖父を持つとか、古神道の家柄だったとか、子供の頃から極度の霊能体質だったとか、そういうの、ないです。

つまり、僕って「凡人」なんです。

ちょっとくらい、子供の頃とか若い頃に病気とか親の問題とかで苦労はあった方ですが、凡人なので、特段すごい体験はないですし、凡人なので死ぬほどの努力とか、命をかけて何かに望む、とかないです。

スピ業界では「神の声が聞こえる」とか「〇〇が見える」とか、なんでも願いを叶えられる、とか、そういうすごい能力を持ってる(らしい)人たちがうじゃうじゃいますが、僕はまったくないです。まぐれ当たりで不思議体験をやや多めにしたくらいです。(この本に書いた通り

もう何年も、作家やスピリチュアル業をやってきてとことんわかりました。人様のお役に立てるような霊能力もないし、ご神託も得られません。

人が思わず連いて行きたくなるような“カリスマ性”もないし、見るだけで楽しませる“華”もないです。

強いて言えば“文章を書く才能”と“音楽の才能”はありましたが、人よりちょっと秀でてるくらいの、よくて“秀才止まり”で、あまり世間様のお役に立てたり、必要とされるものでもないので、いばれるようなものはありません。

だからもしあなたが「特別な力を持った特別な人から教えを受けて、自分も特別な人になろう」ってんなら、ここでnoteを閉じてもらっていいし、またはその「特別な人の力で、自分を引っ張って導いてもらいたい」のなら、このnoteはなんの参考にもならないかもしれません。

でも、あなたが凡人で、凡人なりに、だけど自分らしく、自立しながら生きていく覚悟があるのなら、凡人の僕が培い、(ゆるく)研鑽し、探究し、凡人なりに見つけた真理は、お役に立てるかもしれない。

とにかく僕は淡々と。ただ淡々と、座ってきました。

それは「日常」です。それもひとつの地味な(とても地味な!)才能かもしれませんが、日常に落とし込み、日常の中で淡々と座り、感じて、五感を開いてきました。

そんな凡人の僕だからこそ、瞑想の極意なんて大袈裟ですが、掴んだものはあります。

で、ようやく本題(笑)

ひっぱってごめんね。

瞑想によって、健康になったり、仕事が今よりできるようになったり、人間関係が円滑になったり、悟りとやらを開き、この世の悩みから解放されて、楽に生きられるようになるのか?

まず、

その発想からして、瞑想じゃない!


ってことです。

意味わかる?

瞑想ってね、ようやく僕もわかってきたんですが、「この世ごと」ではないのです

宇宙とつながる」とか、スピの人がよく言うじゃないですか?

宇宙って、なんですか? 
空にある星のある空間ですか? 
この地球とか太陽とか銀河系ですか?

多分、その辺も『漠然』としてて、解釈はそれぞれなんだけど、宇宙とつながるって、それは「神とつながる」という表現の別の言い回しだと思います。

では、神とつながるってことですが、瞑想は「神とつながる」として、神とつながったら、悩みが解決して、思い通りの人生になるのか?

だから、それはカンケーないってことです。

なぜなら、それは「社会」でしょ? 悩みとか、思い通りの人生とかって? ずっと述べてきた「健康」だの「仕事」だのはもちろん、「悟り」とか「覚醒」とか、それって人間社会での自分のことでしょう?

そこじゃないんです。瞑想って、突き詰めると、対社会に対しての働きかけじゃないんです。

つまり、瞑想の極意って「自分と宇宙(神・天)」との関係であり、「自分と社会」との関係性のことではないってことです。それを知ることです。

しかし、みんなは「対社会」に対して、自分をうまく当て嵌めたり、生活を悩みなくスムーズにしようとして、その「ツール(道具)」として瞑想を利用しているんでしょ?

それが良い、悪い、じゃなくて、瞑想って“そこ”じゃないってことです。

じゃあ、数々の健康効果とか、集中力強化とかは嘘なのか?

それは本当です。それは、

「副産物」


です。

副産物がたっ……くさんあるんです!

瞑想には。その副産物が、対社会に対して、とても役立つものだったりします。

「じゃあ悟りは? 神秘体験や一瞥体験は? ノンデュアリティは?」

と、スピ探求者は言うかもしれませんが、それも同じ。

副産物です。

宇宙とつながるって、そういうことじゃないです。

僕もありがたいことに、運がよく、そういう神秘的な体験があります。身を突き抜ける至福感とか、自我がなくなり、宇宙と溶け合ったような体験があります。それで「宇宙とつながった」のだと思いました。

だからそれが一つのゴールだと思ってた時期もありました。それが「悟り」だと思ってましたし、それが「真実」であり、自分は「空(くう)」という境地を知ったのだと。

そして、それをベースに瞑想指導者になりつつ、僕の中で「瞑想」というものが習慣を超えたライフワークになり、ただ淡々と日々の中に落とし込む過程で、気づいたのです。

僕にとってそれは「入口」のようなものでした。

僕にとって、です。人のことはわかりません。僕は凡人なんで、他の人の話す「神様が〜」とか「宇宙はこうなってる〜」みたいのは、実はほとんどわかりません(笑)。

共感できたり、手応えがあり、共有できることはたまにあるけど、その時は僕も「そうだよね!」となるけど、わからないものはわからないです。分かろうと努力はするけど、何も響かず、何も感じられないのなら、実感のないものは僕は重宝してないのです。

瞑想は実感があるのか? 対社会とか、この世ごとではない実感は?と尋ねられたら、「ある」とお答えします。はっきりと。

ただし「それってどんな実感なの?」と尋ねられても「宇宙です」とか答えられないし、「それはどうやればいいの?」と尋ねられたら「自分で見つけてください」となります。

「〇〇をやったら〜になる」という思考そのものが、思い切り「地球ごと」であり「社会」の発想です。そこを超えるためには、その頭でどうこうしようとしたり、解答を求めようする考え方ではないのです。それは瞑想ではなく、三次元の世界の算数です。

もしくは、自分より「上の存在」がやってくれる、「秘密のアイテム」がやってくれる、というような依存的な考え方すべても、超えるためには邪魔になります。

それが落ちた時に、あなたは気づきます。あなたがあなたに目覚めます。その時に、宇宙とつながるって意味がわかりますし、自分を知ることになるでしょう。

さて、これを読んで、どう思いましたか?

「じゃあ、その瞑想方法を教えてください!」

と思いましたか? 

としたら、もう一度最初から読み直さないとね。だってその思考が違うんだよって話だから…(笑)

「じゃあ瞑想の極意もクソも、何もできないじゃないか!」

と言うなかれ。そうとは言ってません。

昔から言うじゃないですか?只管打坐しかんたざ 「ただ座れ」って。

そもそも、頭でやるもんじゃないんです。

なのに頭でやろうとして、それで瞑想という「宇宙」を相手にするのではなく、あくまでも社会を相手にしようとしている。

そこじゃないんです。

頭を使うな、ってことじゃないです。

「心」や「感性」もしっかりと扱います。感情に振り回されるのではなく、感情を受け取る繊細さ。

そして「体」です。五感を駆使し、肉体をつながること。

自分という存在をフル動員させてつながるために、瞑想があるのです。

というわけで、瞑想の極意は、そういうこと、です。

え?納得できない?わからない?

それはあなたの思考でしょ?(笑) 頭でわかるわけないっしょ? だったらまた最初からnoteを読み直してな。

それで、体や感性を駆使して、自分を使い倒しな。頭でっかちにならないでさ。

☆ ワークショップのお知らせ

山を歩いて五感を磨く。

「つながるからだ、つながるこころ」5月24日京都

6月8日東京



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