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生きる上での誓い

この週末。
春真っ盛りの行楽シーズン。二日にわたり、公の場で、狂ったように子供を叱りつける親を見た。一つはトイレ、一つは駅構内で。親は我を忘れている。子供は痙攣を起こし泣いている。僕は激しい感情に襲われる。そして、その場の意味することを、自分自身の生活に置き換えて考える。

その日曜日。タイのお正月で、八王子でお祭りがあった。そこでタイの僧侶がサンスクリットで説法をし、祝福の水かけ祭りが始まった。タイの参列者は踊り、歌い、たくさん食べて笑っていた。僧侶もこの時ばかりは厳格な修行の日々から離れ、笑顔で水を振る舞っていた。

3人いるうちの1人の僧侶の背中をみて、僕は心を打たれた。はだけた僧衣を直すときに、背中全面に寺院のタトゥーが見えたのだ。象形文字のような図の寺院だった。タイ人のママ友に聞くと、
お坊さんのタトゥーはサクヤン ガオヨードと言う。最も神聖なものです。と答えた。

仏教において、特にタイのようなブッダの時代から変わらない仏法僧の厳格な戒律を守り続ける国では、僧侶の誓いはとても厳しい。
1.2.3.4.5において、現代では当たり前かもしれないが、インド哲学のヤマニヤマにも通じるこれらの戒律の趣旨は、例えば「盗んではいけない」と言う事例は、物を盗むだけでなく、相手の気持ち、創造性、言葉、にいたる「盗まない」と言う意図も込められている。
その戒律を絶対守るという誓いのタトゥーは、庶民にとって、祈りの対象であり、自身が日常で徳を積むきっかけを与えてくれる存在なのである。

お祭りにて。説法が終わりお布施の儀に至る際、たくさんの方々が、日常品の僧衣を壇上に挙げる時のこと。
このサクヤンの僧侶が、僕の顔をみて、ハッキリと微笑んだのだ。周りを見渡せど、僕を見ている。頭上を挙げてるのが僕だけだったからなのかもしれないが笑。
そこで僕はこう言われたような気がした。
「あなたの誓いのサクヤンも、見えてますよ」。と。

僕はタトゥーを掘ることはなかったが、絵画においては、中学生の頃から自画像を何千枚と描き続けた。自分の身体と魂に、祈り、怨念、執着、苦しみ、葛藤の絵筆によるタトゥーを掘り続けてきたかもしれない。手元にあるのがカッターではなくて絵筆でよかった。これは亡き父親に感謝するべきことだ。

話は戻り、親子の話である。
僕の背中に刻まれるサクヤンは、この子を守り、育て、愛を学ぶということだ。学ぶということは、喜びも苦しみも一緒くたに経験すること。特に怒り。人間だから感情は乱れる。一番家族に悪影響を及ぼす暴風雨こそ、僕自身の激しい感情だ。だからこそ、日々祈り、誓いをたてる。どうか、弱き心を導いてくださいと。

今朝も無事、みんな出かけた。今日も1日が始まる。

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