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小説ブッダ、読了。

小説ブッダ。いにしえの道、白い雲。読了。上下段で450ページもある本だった。
小説といっても、ブッダの歩んで傘だ道、解いてきた教えを正確かつ、わかりやすく読み聞かせてくれる内容で、著者ティクナットハン禅師の詩人としての文面の美しさが、2500年前のインドの情景がありありとみて取れる。
著者は、経典に出てくる装飾的なブッダの「奇跡」の多くを省いたという。それゆえに、より現代の私たちにブッダの存在が肉薄してきた。まさに、私自身の歩きの1歩1歩に、静かに微笑むブッダの笑顔と教えが存在しているかのように。

最初はあまりの分量に食指が伸びなかったこの本も、読み始めれば夢中になっていた。最後の方で、新たに「イエスとブッダ」というティクナットハン禅師の名著にも出会い、心がどんどん開いていくようだった。その境地を、7月の展覧会の作品群にも活かせているような気がする。

ブッダの入滅には、まるで大切な家族が旅立つような悲しさを感じ、人混みの中のカフェで1人、涙した。ブッダは言う。「生死を超えよ。全てのものは無常です」。

最後の81章は、この本全体の語り部となった、元・水牛の牧童である弟子、スヴァスティ僧侶の想いで締め括られる。彼は故郷に帰り、自分と同じような牧童の少年たちに、自身を見て、教えを伝えようとする。
ブッダは亡くなったが、これまで以上に強く感じる。心と身体の中に存在する。ブッダの歩いた道、見た空、雲、木々、それらの美しさの全てにブッダを見る。それがまさに、生と死を超えた境地なのだと思います。

さまざまな人間の欲求や本能や無意識に向き合い、理解し、克服していかねば、本当の意味での心の平和は訪れないのかもしれません。苦しいからこそ、訪れるものがある。
私は僧侶にはなれないし、現代の仏教もずいぶん様変わりして、人間の心や精神を見つめる手段として、メジャーなところではヨガやマインドフルネス、瞑想、坐禅、それがマニアックとしても、書店にはさまざまな心理学、セラピー、習慣、メンタルケア、信仰、人生哲学、ビジネス哲学、いろんなものがあるでしょう。私たちは、私たちに合った学びが得られる時代です。

その中で、なぜ自分が仏教、それも原始仏教、ブッダの教えに惹かれ続けるのか。改めて考えてきました。禅の教えにしてもそうです。
きっと、とても苦しかったのでしょう。子育てや人生の挫折からくる苦しさなんて、後からついてきた言い訳みたいなものです。
生まれた時から苦しかった。世界は、自他共に、苦悩と悲劇と怒りと悲しみに満ちていました。
大切な人たちは亡くなっていき、なぜだろう、なぜだろうと考えてきました。
この怒りは、この悲しみは、誰のせいだ?誰のせいでもない、自分が生み出したものだ・・。だから、絵を描くしかありませんでした。せめてカタチにして、理解しようと、愛そうと思いました。

震災以降、いろんな寺院で禅に触れました。血筋である神道の道は万物、大自然の力を知るものでした。そして仏教やブッダの教えは、自身の心を知る上で手掛かりになりました。母を失い、救いを求めて必死に学び、資格を得てきたセラピストやカウンセラーとしての「実」が、ここに身を結んだような気がします。そして、ようやっと本業の画家にも。

ブッダの道は、ここにあり。
一呼吸、一歩から。
そうすれば、勇気と慈愛を持って、生きていけると信じています。

おしまい

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