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「はてしない物語」は大切な一冊。

「はてしない物語」を読み終えた。
子供たちが寝静まった夜、600ページもある分厚い本を、寝室の灯りを消して、隠れるように二日で読み終えた。

僕の小学校の図書館では、この本に出会える機会はなかなか巡って来なかった。なぜなら、あまりにも難解で分厚いために、借りた児童がなかなか返却しないのだ。(そしてまさに僕のように、途中で挫折して返却期限をすぎてから返すのだろう)。
読書家の児童でもこの本を読み終えた子はいるのだろうか。読み終えることだけでも快挙とも言えるだろうが、その哲学的な内容は、映画「ネバーエンディングストーリー」のような浅い表面だけのものでしかないだろうな。(それでいい。そうじゃなきゃいけない笑)。

子供の僕が挫折した理由は、「異様な不気味さ」からだった。不気味、怖いという本能が、それから先を読むことを躊躇わせた。そして、バスチアンとは正反対のリア充児童だった学級委員長の僕は、昼休みの計画や、運動会や、それらのことに気を取られすぎていた。つまり、到底ファンタージェンの世界の住人にはなれなかったのだ。

しかし、この本を手に取るきっかけは、やはり映画「ネバーエンディングストーリー」を母と何回も観たことによる。母は、主人公バスチアンの親友アトレーユが大好きだった。アトレーユは美青年だ。僕はファルコンに乗りたかった。

原作者ミヒャエルエンデが、この映画の仕上がりに心底怒り、裁判まで起こすほど、原作と映画のテーマは真逆になるのだが、僕のような読書に暗い児童が、田舎町の学校図書館で、この「あかがね色」の美しい装丁に憧れて、借りては挫折し借りては挫折し、ようやっと大人になって読破して、その哲学的なテーマに打ちのめされ・・。また40代になって、「父と子」の物語としてこの本の深さを堪能できたわけだから。それは確実に映画ネバーエンディングストーリーのおかげと言わざるを得ない。
ごめんなさい、神様エンデ様。

たまたまこのnoteをタグ付けから見てくださる方は、読破済みだと思うが、ほとんどの方は、大昔に読んだか、映画だけ見た、という人が大半だろう。星の数ほどある名作の中でも、僕のように、この「はてしない物語」が人生の大切な一冊になってる方がどれほどいるだろうか。
僕にとっては「星の王子様」よりも大切な本だ。詩集と推理小説ほどの違いがある。(良い悪いではなく好みの問題で)。

原作・はてしない物語は、ざっくり言えば、母を亡くして、気弱でいじめられっ子の男の子バスチアンが、古本屋で不思議な本に出会い、その本の物語に入り込んでいくという前半ストーリー。これは映画と同じだが、後半から怒涛の展開になる。
まるで映画「風の谷のナウシカ」と、原作漫画との違いのように。もはや、陰と陽のように真逆なのだ。

ファンタージェンの世界を蘇られさたバスチアンは、外の世界(人間世界)から来た救い主として、夢を叶えていく。しかしその代償に、人間の記憶をどんどん失っていく。

物語に入り込んだ後半の最初に、ライオンの大切なシーンがある。「汝の、欲する、ことを、なせ」という宝のメダルの意味についてだ。

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ライオン
「あなた様が真に欲することをするべきだということです。あなたさまの真(まこと)の意志を持てということです。これ以上に難しいことはありません」

バスチアン 
「それはいったい何だ?」

ライオン
「それは、あなたさまがご存知ない、あなたさまご自身の深い秘密です」

ライオン
「いくつもの望みの道を辿っていかれることです。一つ一つ最後まで。それがあなたさまのご自身の真に欲すること、まことの意志へと導いてくれるでしょう」

バスチアン
「それなら、そんなに難しいともおもえないんだけど」

ライオン
「いや、これはあらゆる道の中で、一番危険な道なのです」

バスチアン
「ぼくは怖れないぞ」

ライオン
「怖れるとか怖れないとかではない」「この道をゆくには、この上ない誠実さと細心の注意がなければならないのです。この道ほど決定的に迷ってしまいやすい道はほかにないのですから」

バスチアン
「それは、僕たちの望みがいつもよい望みのはかぎらないからかい?」

ライオン
「望みとは何か、よいとはどういうことか、わかっておられるのですかっ!」
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このシーンが深く胸に刺さった。5.6年前に読んだ時には、あまり気にしてなかっただろう。
望み、とは。
それは、その後のバスチアンの遍歴を追うことで理解してきた望みではあったが、自分自身の「望み」、それが自分自身の深い秘密であり、その望みの現れによっては、世界は破滅へと繋がるくらいの、危険な選択だということが、今の時点でしかすぎないが、(痛いほど)わかる。きっと10年後はもっと理解できるだろう。そして、振り返るはずだ。

「僕は、誠実に細心の注意を払って、望みを持ち、叶えてきたのだろうか。そして、その先にある今、僕は(何かと引き換えに)何を望んでいるのだろうか」。

バスチアンは、望みを叶え続けた結果、すべての記憶を失い、自分の世界に帰る道すら見失なう。本当に大切な願いを思い出すまでには、すでに時が遅すぎた。そのクライマックスのシーンは、想像を絶する異様な世界へと繋がる。これは、児童には見せてはいけない世界だ!(と言っても21世紀には、もっと残酷で無責任なアニメーションもたくさんある)。
いや、この恐怖を予知するには、バスチアンには無理なのだろう。心理学の師匠の先生は言った。
「私たちは守られてるんですよ。闇を闇と感じられない無知の鈍さによって。それはとても幸運なことなのです」。
村上春樹の世界にも通じることだろう。ミヒャエルエンデや、数々の名作は、常に人間の無意識の世界の危険性を、冒険物語として語ってきたのだ。

バスチアンは、幸運にも親友アトレーユと幸運の竜の協力もあって、最後の場所「生命の泉」へとたどり着く。そして、最後に「真の望み、まことの意志」を願う・・・。
それはなんだったのかは、ここでは語るまい。我々にとってもっとも深遠なる真の望み、まことの意志は、それぞれに見つけていくべきだから。。

最後に、人間世界に戻ったバスチアンは、父と再会する。妻を亡くし、家族や社会から心を閉ざしていた父とバスチアンは、生まれ変わったように、心を通じ合わせる。
このラストシーンは、僕自身、父親になって初めて理解できたことがある。僕と5歳の息子がお互いに語り合ってる場面とリンクしたのだ。(僕らの場合は、息子がトイレでウン⚪︎を踏ん張っているときの20分間の真剣でふざけたやりとりなのだが汗)。

はてしない物語が僕の物語になった瞬間だった。学校図書館で、この本を借りてきた子供のころの僕が、いつのまにか父になり、もう少し幼い息子と、僕らだけのファンタージェンの世界の話をしている。いつだって真剣に。彼の中では本当に実在する世界。そして、僕の中にも。

望み。
真の望み。まことの意志。
自分自身の、深い秘密。
夜の雨音の中で、静かに聞こえてくるその歌声に耳を傾けながら、ひとまず(記憶の断片)を探しに、寝ることにしよう。

おしまい。


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