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子供との時間

ここ数日、実験的に、夜の子育てを妻のワンオペで行って、僕は外で仕事をすることにした。
僕がいると興奮して手がつかなくなる息子も、妻の言うことは従順に行なっている。娘の寝かしつけも、秋の涼しさと風邪が良くなってきたからかスムーズである。
だいたい20時前には2人ともすんなり寝てくれる。風呂もご飯もスムーズなものだ。今まで2人で頑張ってきた育児も、実は僕がいないほうが良かったのか、いや、バランスというものがあるのだろう。
僕は、夕方から21時過ぎまでずっと外で絵を描いていた。内観と瞑想というベクトルの絵だ。そうして、徐々に言葉や思考を超えた、何か広々とした世界の鱗片を感じられるようになってきた。
息苦しさからも少し解放されてきた。

今日は、できたらアトリエで仕事がしたいと思い、子供たちの帰りを自宅でまった。が、案の定、ギャングのような息子に捕まり、拉致され、泣かれ、喚かれ、笑顔や涙の喜怒哀楽を経て、ご飯と、絵本と、デザートと、歯磨きと、電車ごっこと、ウルトラマンの飛行を手伝うといったスペクタクルな夜になった、、笑。

それでも20時には、すーっと落ち着いてきて、妻と一緒に寝室に入り、先に寝てる娘も起こすことなく寝落ちした。僕はその間の30分ほどで、友人に勧められた「維摩経」の勉強をすることができた。

不思議な夜だ。

維摩経のエピソードで、印象的な点があった。
悟りと悩みや生と死といった二者を超えた境地に至ること。そして、その境地の先に、維摩は、雷のような沈黙を守ったということ。

円覚寺の横田老師の話が深い。この維摩経の話もそうだし、死にまつわる話もそうだ。

仏教から学ぶことは多い。

維摩経では、先日もヒントがあった「真実は自分の思っている以上に、無限に広い」ということを伝える。そして悟りの道は、自分のこだわりの道だけではなく、生きている生活の全てにある。一挙手一投足に、悟りはあるのだと。
維摩は2500年前の在家信者であり、僧侶の世界よりも、欲でまみれた世俗に生きるからこそ、そこから学び、道を歩く強さがあるのだろう。そして、悟りも迷いも、清浄も汚濁も、すべて含んだ上での美しさがあると説く。

1つの視点だけが答えではないのだ。

話が戻そう。
息子や娘、家族との関わりにおいて、彼らに交わす言葉や仕草の一つ一つに仏性は宿っている。むしろ、救いや祈りの表現として、絵画を突き詰めることよりも、より確かな作務のいえるかもしれない。
それでもやはり40代後半、20時まで付き合っていると、頭が朦朧とし、眠くて倒れ込みながら、叩き起こされるという繰り返し。無論、数ヶ月伸ばしている宿題に取り掛かる力もなく、それならやはり外で絵を描いてた方がよっぽど効率的とも言えたのかもしれない・・汗。

しかし、改めて何度も感じることは、子育てから学ぶことはとても大きいし、「自分の視点」以外の素晴らしき(無限の)世界に感嘆することが多い。今朝も、9か月の娘の成長とらかわいらしさに、宇宙の神秘をみた。尋常じゃないものだ。

横田老師の話で、ローマ法王が流した涙、という実話も心に残った。「ただ寄り添うことが何よりの救いになる」という事実は、仏典や聖書の文言では計り知れないものだ。
それこそ維摩の「沈黙」のように、法王の静かな涙の温かさに、少女はどれだけ救われただろう。震災で多くの仲間や家族を失った悲しみを、将来、少女はきっと、光に変えて何かを生み出していくはずだ。その土壌に雨を降らせ、種子を育てなのが、あの涙なのだろう。

そんな大きなことではなく、日常の些細なことなのだけれど、一つ一つを大切に、全てが悟りにつながると思って。
そして、その悟りも手放して。また新しい世界へと。

静かな、穏やかさがある。

子供たちはどんな夢を見てるのか。明後日は運動会だ。息子にとってはそれが世界の全て。そう、「今ここ」には、生きとし生けるすべての答えがある。それまで父親は、しっかりと寝て、怪我だけはしないように注意するだけだ。

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