見出し画像

橋のたもとで出会う美 -ホイッスラーと小林清親【エッセイ#54】

私が好きな芸術作品とは、何かが溶け合って、現実にはないような、輝かしい光景を創りあげる作品です。特に、全くの異文化が溶け合った時、その光は、妖しく、まばゆく、作品から溢れ出す。
 
そうした例として、二人の画家を挙げたいと思います。ホイッスラーと、小林清親。この二人は、自分にとっての異文化を取り入れて、不思議な共鳴を見せています。


ジェイムズ・マクニール=ホイッスラーは、1834年アメリカ生まれ。しかし、小説家のヘンリー=ジェイムズや、詩人のT・S=エリオット、映画監督のジョゼフ=ロージー等と同様に、アメリカ生まれだけど、イギリスに移住して長いこと活躍した人です。彼らと同じく、どこか貴族趣味で高踏的なところがある画家でもあります。

ホイッスラー『自画像』
デトロイト美術館蔵

彼は、浮世絵等の日本美術に大きな影響を受け、それまでの絵画のような、意味を伝える作品を嫌いました。絵画はそれ自体で美しく、調和を持っていればいい。余計な意図などいらない。絵画の美しさとは、色彩と構図といったものからのみ、表れるものだという意識。
 
この考えは唯美主義とも言われています。彼は、絵画のタイトルに、しばしば「シンフォニー」「ノクターン」といった音楽用語を使っています。描かれた対象ではなく、全体から醸すムードこそが全て、という考えが伝わってきます。


 彼の代表作の一つ。『青と金のノクターン、オールド・バタシー橋』(1872~1875年頃)を見てみましょう。
 

ホイッスラー
『青と金のノクターン、オールド・バタシー橋』
テート美術館蔵

 藍色に染まった夜。大きな橋のたもとを船頭が漕ぐ小さな船が通り過ぎようとしています。遠くには花火が金色に煌めいて、ほんの少し、深い夜を彩っています。ノクターンと名付けるにふさわしい、静謐さと美しさが溢れ出す作品です。
 
この作品の構図を見て思い出すのは、浮世絵に描かれている橋でしょう。橋を上からでなく、たもとから描くことで、その褶曲を強調するような描き方。これは、なかなか西洋絵画では見られない光景です。


 
例えば、歌川広重の『名所江戸百景 京橋竹がし』は、橋の曲線と、それを支える柱、橋をくぐる船頭と船といったところで、まさに、ホイッスラーの元ネタではないか、という絵です。

歌川広重
『名所江戸百景 京橋竹がし』

ホイッスラーは実際この絵を見ていたかもしれません。しかし、同時に、色彩感覚や描線の感覚は、浮世絵とかなり異なります。薄暗い夜の気配は、まさに19世紀末のロンドンという雰囲気。それゆえに、ホイッスラーの絵画は、オリエンタルな感じはせず、寧ろ新鮮な西洋絵画という感じになっているのが、面白いところです。


 
そして、ここに更に、小林清親の、『開化之東京 両国橋之図』(1877~1882年頃)を並べるとどうでしょう。驚くことに、橋の曲線を下から眺めて、船頭が橋のたもとで小舟を漕ぐ構図は、ホイッスラーそっくりです。それどころか、この薄闇の光景の質感自体が、ホイッスラーに非常に似ています。そして、これは浮世絵でもあるのです。

小林清親
『開化之東京 両国橋之図』


小林清親は、1847年生まれ。幕末の育ちであり、1868年の鳥羽・伏見の戦いでは、幕府軍の兵として戦ってもいます。明治維新後は、浮世絵師として活躍します。

小林清親


しかし、彼は単純な浮世絵師ではありませんでした。文明開化によって、新しい西洋文化が入ってきた時代の人間です。そんな中で、浮世絵という伝統を受け継ぎつつも、時代と無関係に今までと同じ絵を創ることはできない立場にいました。それが『開化之東京』シリーズにもよく表れています。
 
何といっても、線と光の感触が全く江戸期の浮世絵とは異なります。夜闇を直接描かない浮世絵と違い、この夜の感触は西洋的です。もしかすると、ホイッスラーの絵を見ていたかもしれないと妄想してしまいます。
 
いや、あるいは小林はホイッスラーの絵を見ておらず、単に歌川広重の『名所江戸百景』だけを参照したのかもしれません。こちらについては、その「名所を描く」題材も含めて、強く意識したのは間違いないでしょう。
 
しかし、やはり、彼の感覚は浮世絵の先を行っていたように思えます。


 
それは、この黄昏時の夕闇と、人々のシルエットにも表れています。人々の顔も衣服も影となり、夕闇の中に溶け込んでいく。こうした感覚は、決して浮世絵だけを見ている人間には出てこない発想のように見えます。

ホイッスラーの絵というような具体的な話ではなく、写真も含めた、総体としての「西洋的なもの」が、従来と違う光景の捉え方に導いている感覚があるのです。

 そして興味深いのは、ここには、どこか、浮世絵以前の、水墨画を思わせるような、幽玄な感触もあることです。厚塗りのホイッスラーの油絵とは、また異なる質感です。

と同時に、どこか意味付けを失っており、ホイッスラーの絵が風景画を越えて、抽象画のようにも見えてくるのと、ある種の相似関係があるようにも思えます。


 
ホイッスラーと小林清親。この二人の共通点は、自分のバックグラウンドの伝統に、全く別の世界の「最新」を、積極的に取り入れたことです。それも、表面的に何かを真似するのではなく、あくまで自分の技法の中に融かしこむことで、独自の芸術としました。
 
それらは、西洋の油絵と、日本の浮世絵という違いがあります。しかし、ほんのりとしたエキゾチズムが隠し味としてありながら、全体として幽玄かつ、削ぎ落された静謐な作品という、不思議な共通点があります。

自分の芸術を信じつつ、伝統と外部を恐れずにとりこんでいった姿勢が、ある種、現実を超えた世界を創り出したと言えるかもしれません。
 
そして、そういった芸術が、この世界に新しい美しさを与えてくれる。それがこの二作を私が好きな理由でもあります。こうした部分も観ながら鑑賞していただくと、新たな発見があることでしょう。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、各マガジンからご覧いただけます。

楽しんでいただけましたら、スキ及びフォローをしていただけますと幸いです。大変励みになります。

 

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?