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【エッセイ#23】モーツァルトの口笛

人には資質というものがあります。短距離走の世界王者がマラソンを走れるわけではないし、サッカー選手が野球をできるわけでもない。スポーツは肉体的、物理的に分かりやすいけど、こと芸術の分野だと、案外分かりづらい。物理的な制約があまりないので、例えば、長編小説をたくさん書く人でも面白い短編小説を書いたりします。
 
それは、音楽の分野でも同じです。ですが、音楽の場合、「音色」という物理的な要素も含んでいるため、その人の向き不向きによって、作品によって面白い差異が生まれたりします。



モーツァルトの作品の中で、どれが一番好きかというのは、多分愛好家にとって果てしない議論の的でしょう。私も日によって変わってきますが、外せない作品はいくつかあります。その中でも、フルート四重奏曲(K285)は、休日の昼間にゆっくりしたいときに聞く愛聴曲です。

 
第1楽章は、飛翔するようなフルートにゆったりと絡む弦楽器が美しい、朝の光のような楽章。第2楽章は、弦楽器のピチカートの上でフルートの旋律がゆったり舞うような、そこはかとない哀しみの緩徐楽章。そして、第3楽章は、曇っていた空から、日差しがこぼれて晴れ間がのぞくような、微笑のような楽章。
 
何度聞いても元気をもらえるし、希望という言葉を体現する作品があるとしたら、それにふさわしい作品の一つだと思っています。
 
特に古楽器のフラウト・トラヴェルソで聞くと、少し低いピッチと素朴な音色が、儚い夢のような感触をもたらしてくれます。私は有田正広とボッケリーニ・カルテットによるDENON盤を愛聴していますが、バルトルド=クイケンのAccent盤もよいです。

逆に、往年の名手による、現代楽器のフルートはちょっと、華美すぎるかなという気がして、あまり手が伸びないのが正直なところ。ジャン・ピエール=ランバル(ソニー盤)は、きらきらになりすぎない、あっさり感が個人的には、悪くなかったです。

(現代楽器による演奏)



ところで、このような畢生の名曲を残していますが、モーツァルト自身は、フルートが嫌いだったのは、興味深いところです。父親に宛てた手紙で、「フルートという耐え難い楽器のための仕事はうんざりさせられます」と書いています。
 
このフルート四重奏曲は、1778年、モーツァルト22歳の時に、マンハイムの医者でアマチュアのフルート奏者のドジャンという男から、3曲の易しいフルート四重奏曲を依頼されて作曲されたものです。作曲はなかなか進まなかったらしく、その時の愚痴が上記の父親への手紙です。最終的に3曲納品され、K285もその一作品だというのは、間違いないようです。
 
この名曲に対するこの言葉は、一体どういうことなのか、昔から議論になってきました。マンハイム滞在中に若いオペラ歌手のアロイジア=ウェーバーに恋をしており、仕事が進まない言い訳として、父親にフルートが嫌いと言ったという説もあります。

(名手ニコレによるK285.aの演奏。これも、ドジャン依頼作品の一つ)



しかし、私は、「フルートが嫌い」という言葉は、彼の本音に近いと思います。

まず、モーツァルトは父親とこの頃は大変仲が良く、わざわざ本音を隠すことはなかったはずです(モーツァルトの結婚後、その仲も崩れてくるのですが)。
 
そして、モーツァルトが好きな管楽器はというと、クラリネットです。これも度々本人が語っています。クラリネットのように深みのある、肉声のような低音域の音色が好きだとすれば、コロコロと高音を転がすフルートの音色を好まないというのも頷けます。



では、なぜ、この作品は名曲になったのか。それは、モーツァルト本人の好みと別に、彼の音楽的な資質に、作品自体がぴったりと合っていたからだと思います。
 
モーツァルトのメロディそのものが、可憐で軽やかなものが多い。深みのある声で朗々と歌われるには、ちょっと線が細く、息が短すぎるように思えます(それに適しているのはブラームスでしょう)。
 
彼の印象的なメロディも、『魔笛』のパパゲーノの歌のように、どこか人外の感触というか、美しい鳥の啼き声のようなところがあります。まるで、口笛でサラッと吹いたメロディのような。口笛の音色は、人の声を外れていて、息も長くはもたないから、すぐに消えていかないといけない。
 
そうした彼の資質に、フルートという楽器は合っているように思えます。まさに人外の音域であり、同時にこの世を超越した天使の歌声のようなところのあるフルートによって、鳥の啼き声のような軽やかなメロディが歌われるのです。
 
おまけに、これは、アマチュアの愛好家が、自分や、仲間の愛好家でも演奏できるように、という依頼で創られたものです。口笛のようなメロディが、単純かつ優美に飾り立てる弦楽器との組み合わせによって、最高に効果的になったと言えるでしょう。様々な偶然によって、この曲は名曲になったと言えます。

(『魔笛』のパパゲーノのアリア。歌の合間の可憐なメロディ)



モーツァルトは、クラリネットでも晩年に『クラリネット協奏曲(K622)』という名曲を残しています。私も大好きな作品ですが、クラリネットの転がる様を聴いていると、実はちょっと、彼の最も得意な部分とずれを起こしているのではないかと思うこともあります。


それが、悪いということではありません。曲ごとによる特性と考えるべきでしょう。大事なのは、彼ほどの天才でも、様々な媒体によって得意不得意があるということ、そして、どれほど自分の好みに合わないとしても、しっかりと作品を創ることで、それが自分の中の本当の資質と共鳴して、作品に輝きをもたらすこともある、ということなのだと思います。それは、創作のみならず、人生にも言えることなのでしょう。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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