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【エッセイ#13】カラヴァッジョと罪びとの見た光

古今東西、様々な芸術家がいますが、人を殺した芸術家というと、かなり数は限られてくるはずです。

戦争に行った人を考慮すれば、少しは増えるのかもしれません。しかし、殺人をした上に「デッド・オア・アライブ」、つまり「見つけ次第殺してよい」という発令まで出されて追われ、しかも作品自体は人類の至宝という芸術家は、イタリア16世紀末の画家、カラヴァッジョ以外にはいないでしょう。
 
カラヴァッジョは絵画史上重要な芸術家で、彼の作品は私も好きです。今回は、彼の罪の側面について主に取り上げます。彼の罪の生活と作品の関連について。



カラヴァッジョは1571年、イタリアのミラノに生まれます。本名ミケランジェロ=メリージ。生まれてすぐ、ミラノではペストが大流行し、父や親類を失い、近くのカラヴァッジョ町へ移ります。

13歳でミラノの画家ペテルツァーノの弟子になって修行。21歳の時にローマに移り、当初は苦労するも、静物画で卓越した技法を発揮し、24歳の時、デル・モンテ枢機卿に気に入られ、パトロンの庇護の下、多くの作品を手掛けます。
 
そして、1600年、29歳の時に、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂、コンタレッリ礼拝堂の壁画として、『聖マタイの殉教』、『聖マタイの召命』の大作を完成させます。そのあまりの斬新さに、大評判となって、一目見るため人々が殺到したと言われています。

特に『聖マタイの召命』。驚くほど暗い収税所に、斜めから光が差し込み、人々が闇の中から浮かび上がってくるような効果が素晴らしい。

マタイ(左端で俯いて机の金を見ている男と言われています)が、キリスト(右手をかざす右端の男)に呼び掛けられる劇的な聖書のシーンを、居酒屋のような場所に設定したこのリアリズムと、光のドラマティックな演出を引き立たせる見事な構図。まさに最初の大傑作と言って良いでしょう。

『聖マタイの召命』1600年
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂所蔵
全ての「カラヴァッジョ伝説」の始まり

 
この作品で一気に名を挙げ、注文も飛躍的に増加。重要な作品を次々に手掛けていきます。しかし、この頃から、彼の暗い面が顕れるようになります。
 
彼はデッサンもせず直接キャンバスに描くため、速筆で、2週間ほどで一気に作品を仕上げます。その後1,2か月は取り巻きを引き連れて街をうろつき、酒場、賭博場、売春宿等で、つまらない諍いや因縁をつけていざこざとなり、警察を侮辱しては、逮捕されるということを繰り返していました。
 
その罪状も、他の画家の悪口を流布して名誉棄損で訴えられる、などはまだかわいい方。警官に石を投げる、棍棒や剣で画学生や城の護衛を襲う。ある女性を巡って、公証人を背後から襲撃。家賃滞納したあげく、大家の家に石を投げこむ。友人の家で、刀傷の大けがをしているのを見られるも、本人は転んだとしらばっくれる。
 
放蕩と呼ぶにはあまりにも幼稚で、三流のチンピラでもしないような、ひどい行状です。私が特にひどいと思ったのは、食堂で給仕にアーティチョークの味付けについて聞いて、そっけなく返事されたところ、顔に皿を投げつけて、剣で脅したため、訴えられたというもの。

なぜここまで詳細に分かるかと言うと、裁判の記録が残っており、展覧会でその文書が絵の横に飾ってありました。前代未聞、全く擁護の余地はありません。
 
こんなことをしていれば、破局は時間の問題です。1606年、35歳の時にいざこざから乱闘になり、相手を刺殺。その相手は、バックに有力者がついていたため、前述の通り、「デッド・オア・アライブ」の宣告が下され、ローマを去り、ナポリ、マルタ、シチリアと逃亡生活を続けることになります。



それでも猛烈な勢いで絵を描き、ローマを含めたこれらの地域の画壇に大きな影響を与え、後世、「カラヴァッジョ様式」と言われる画家たちの作品が出てきます。
 
が、本人はと言えば、傑作『洗礼者ヨハネの斬首』を描いて、憧れだったマルタ騎士団の入団を許可されたものの、またも高位の騎士を襲撃して、地下牢に収監される始末。何とか逃げ出すも、追っ手に襲撃され、顔が誰だか分からなくなるくらいの、瀕死の重傷を負います。
 
ようやく傷も癒えて、ローマ教皇に恩赦を求めてローマを目指すも、途中山賊と間違われて誤認逮捕。その間に、恐らくは教皇に見せるための自作の絵が入った荷物は、船に乗ったまま出港。それを徒歩で追いかけているうちに、熱病にかかり、トスカーナの港町で38歳の生涯を終えました。
 
まさに、悲惨極まりない最期なわけですが、それでも、彼の遺した作品は、斬新な構図、豊かな感情表現、光と闇の対比等によるドラマチックで迫真的な演出により、絵画の革命を起こすことになりました。同時代は勿論、後のレンブラントやルーベンスまで影響を与えています。

『キリストの埋葬』1602~1604年頃
バチカン絵画館所蔵
多くの模写や借用を生んだ傑作

 
それにしても、なぜ、こんな愚行をし続けた人間が、あれほどの作品を残せたのでしょうか。勿論、実人生と作品とは分けて考えるべきでしょう。しかし、本当に彼の数々の罪は、作品と無関係と言えるのでしょうか。
 
彼は、絵画の革命家ではあったけど、決して突然変異の画家ではありません。若い頃から古典や同世代の画家のチェックも怠りませんでした。興味深いことに、上記の画家との名誉棄損裁判での証言で、彼が優れた画家に挙げているのは、いずれも古典的な同時代の画家でした。

また、優れた画家の条件を「自然を正確に再現できる人」とも説明しています。彼の初期作品での精緻な静物描写を見れば、その言葉も頷けます。では、それがどうしてあれほど劇的な光と闇に変わっていったのか。

『果物籠』1597年頃
アンブロジアーナ絵画館所蔵
細密描写と明るい背景。
この初期のみずみずしさは、徐々に失われていく


私は、それはある種、罪を犯していることを自覚している人の見た光景のように見えます。夜彷徨って、暴れまわっても、何の陶酔もできずに、自分の罪の重さだけが心の奥に溜まっていく人間。そんな彼の頭に纏わりつく売春宿や賭場の蠟燭の光。

何も心から楽しめず、ただ、思い出すと、そこには暖かみのある光でなく、はっきりと白く輝く女や男、そして彼らの背後の闇しか覚えていない。頭だけが冷めている、何もかも凍り付いた世界。
 
あるいは、背後から襲おうとする男たちを見定めようとした時に、ふと差し込んだ月光。襲い掛かった相手の悲鳴と共に、乱闘でもみくちゃになって、一瞬だけ、相手の鬼の形相や、捻じ曲がった肢体が月光に照らされる。

こうした光や像が、昼も夜も、彼の眼底に鈍く焼き付いてずっと離れない。こんな情景を思い浮かべてしまいます。
 
そして、そういった全てが、彼が、均一な光に照らされた現実から、光と闇の交錯するドラマチックな演出へと向かった理由な気がしています。勿論、これは私の妄想であって、美術学的な根拠があるものではありません。

しかし、私が言えるのは、罪の意識を持った人間だからというだけで、闇を描けるという訳でもないということ。おそらく、彼が見た光は他の同時代の人間が見た光とは、質が違っていたこと。そしてそれは、彼の愚行と罪に満ちた夜の生活の中に、意外と密接に関わっているのではないかということです。

『聖パウロの回心』1600~1601年頃
サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂所蔵
キリスト教美術史上最も革新的な絵画とも。
同時に、実際に夜、地面にたたきつけられた
人間を見なければ描けない構図とも言える

  
そして、そんなカラヴァッジョが創り出した様式は、その後、数多く模倣され、彼ほどの罪を犯さなくても、光と闇の交錯するドラマは描かれるようになりました。

彼の絵が人口に膾炙した後では、彼が見ていた光景は、人類皆の視点、ものの見方に変わりました。彼個人の生活や感情は漂白され、芸術という巨大なものの新たな糧となって、昇華されていきました。これもまた、芸術の一側面なのです。



それにしても、一体何が彼をここまで駆り立てたのか。それは永遠に分かりません。幼い頃、ペストで近親者を無くしたことが一因と言われることもありますが、ペストは大流行していたのであり、親を亡くした人間が皆、このような幼稚な悪行に走るわけではありません。
 
19世紀のイギリスの詩人、バイロンは桁外れの放蕩生活で有名でしたが、その最中、自分の生活を省みるかのように、「彷徨うのをやめよう」という詩を残しています。

もう彷徨うのはやめよう
夜も更けた遅くに
心はまだ愛し合い
月はまだ明るくとも
 
剣が鞘をすり減らすように
魂は胸をすり減らす
だから心に息をつく安らぎを
愛そのものにも憩いを

カラヴァッジョは、とうとう、愛も憩いも得ることはできませんでした。そして、彼の剣は鞘を見つけることもできなかった。彼の作品を称賛し、彼のような人間とは関わりたくないと思うと同時に、何か痛ましいものを覚えるのも、また事実です。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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