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【レビュー・批評#4】古びたものを再発見するということ ―『もうひとつの19世紀』展について


現在、上野の国立西洋美術館で開催中の『もうひとつの19世紀 ブーグロー、ミレイとアカデミーの画家たち』展(2月12日まで)に、先日行ってきました。企画展の『キュビズム展』と違い、こちらは、常設展の中の、普段は版画素描展示室を使った、20点ほどの小さな展示でした。『キュビズム展』の半券で、鑑賞当日無料で、常設展と一緒に鑑賞することができます。

 
いわゆる、19世紀の絵画アカデミー、古典的な絵画を理想とする、王や国家の権威に認められた画家たちの展覧会です。ただ、この展示が面白いのは、絵画アカデミーの最盛期の画家たちではなく、絵画アカデミー自体がかなり危機に陥っていた時代の画家たちだということです。
 
この中で一番有名なのは、ジョン・エヴァレット=ミレイでしょう。彼は若い頃は「ラファエル前派」として、ロセッティやハント、バーン=ジョーンズといった画家たちと同盟を組んで、アカデミーが取り上げないような、中世を題材に、細密描写とロマンチックな画風で描いていました。しかし、アカデミーで認められてからは、初期の『オフィーリア』等で見せた偏執的な細密描写はなくなって、やや簡略化した表現になります。

ミレイ『あひるの子』

 
展示されていたミレイ、ブーグロー、ラファエル=コラン、レイトン、ボナ等の画家は皆、卓越した技術を持っており、それがアカデミーに認められたのでしょう。しかし、1820年代~30年代生まれの彼らは、あまりにも遅く生まれ過ぎました。活躍し始めた時は、アングルが最盛期の活躍を見せていましたが、それは寧ろ、後から歴史を振り返れば、絵画アカデミーの栄光の最後の頂点でした。
 
ブーグローは、マネやホイッスラーら新しい絵画を認めず、サロン展という当時のフランスで最高の権威を持っていた展覧会で落とし続け、それがかえって、新しい絵画の潮流を生み、印象派に繋がっていった(マネは印象派の兄貴分でした)という経緯があります。


 
では、そのブーグローの絵画はというと、よく言われるように、滑らかな人物の肌と、神話的な題材を取り上げる、アカデミックな作品と言いきってよいのでしょうか。
 
彼の作品は、子供と子羊を抱く若い女性の肖像『無垢』や、やはり若い女性と赤ん坊の『姉弟』、少女の肖像画が展示されていました。実際に絵を見てみると、その細密さに、自分でも意外なことに、非常に新鮮なものを感じました。

ブーグロー『小川のほとり』

 
特に、その「つるつる」「滑らか」と言われる白い肌。確かに画像や複製では傷一つない肌なのですが、近づいてよく見てみると、青い静脈が微かに浮き上がってくるのがはっきり見えます。アカデミーの先輩アングルやダヴィッドの絵画には、決してあり得ない細密さです。
 
これは印象派時代の古臭いアカデミーのガラクタなどではなく、寧ろ昨今SNS等で人気な、「写真のよう」と言われるハイパーリアリズムの美少女画の元祖ではないか、という考えも頭に浮かびました。明らかに彼は、旧式のアカデミーとは違う方向を模索していたように思えます。
 
また、『小川のほとり』という、赤い花冠を着けた少女を描いた絵画は、解説によると、商会に売却されたのち、同社から複製写真が出て、人気を博したといいます。これも、昨今のX(旧Twitter)やPixivで、商業誌とは別に、よりラフでも見た人の心をつかむ漫画やイラストを発表して自分のファンを作る、漫画家や絵師の先駆けとも言えるかもしれません。色々な意味で、今の時代に観ると新鮮なのです。
 
また、コランは日本では画家黒田清輝の師匠としても有名ですが、かなり直接的に印象派の作風を取り入れています。『詩』や、『楽』といった大作の、ぼんやりとした霞の中に佇む女性は、やはり従来のアカデミー絵画ではありえない作品でしょう。

ラファエル=コラン『詩』

 
では、そんな彼らはなぜ、新しい潮流を創ることがなかったのか。勿論、彼らが権威側に立っていたから、というのはあるでしょう。しかし、最も大きな問題は、彼らの技法ではなく、題材ではないでしょうか。
 
彼らはアカデミーとはいえ、蒸気機関車が出てきた時代の人間です。流石に、ルーベンスやレンブラントのような神話大作を創るのは恥ずかしい(ベルギーにはそれを創っていた御仁もいましたが)。
 
では、その時に彼らが選んだものは何かといえば、神話っぽい衣装を着て佇む人々でした。言ってみれば、コスプレ。しかも特定の時代ではなく、「何となく古代っぽくて、現実の生活とは違うよね」という少し安直な姿。そして、題材も何となく古代の雰囲気はあるけど、小難しい神話なんて知らなくても、誰にも日常とは違うと分かるような雰囲気を持った姿の、美しい人物を描く。
 
そして、それが新しい絵画との分かれ目だった気がします。印象派は、自分たちの現実と生活をそのまま描こうとしました。実のところ、肖像画においては、ルノワールと、この展覧会にあったブーグロー、エンネル、ミレイらとの題材の処理は大きな違いはないと見て思いました。寧ろ、アカデミーの画家の方が遥かに上手い。
 
しかし、風俗画や風景画においては、印象派は圧倒的に新しい風でした。そこに今生きている現代があることを、徐々に人々は理解していく。そうした時に、この、「最後のアカデミー」の画家たちの絵を見ると、夢想的で、どこか現実に閉じている雰囲気があります。
 
しかし、その夢想度合いが、今の時点で見ると、とても興味深く、また個人的には心地よく感じたのも事実です。つまるところ、印象派がすでに歴史として一般に浸透して、かつてのアカデミー絵画のように、人々にとっての権威となってしまったという意味もあるのでしょう。


 
それはまた同時に、SNS等で「修正された現実」を常に見ている2023年現在だからこそ、神話の世界ではなく、現実を当時の民衆の前に見せた印象派よりも、こうしたアカデミーの「現実的なのにどこか逃避的」な絵画がある種アクチュアルに見えるのかもしれません。

あと、一番の驚きだったのは、ブーグローが亡くなったのが1905年ということ。彼は20世紀も生きた人なのです。もう既に、新しいメディア「映画」が出てきた時代に、古い18世紀・19世紀風の絵画を描いた巨匠。それを、往年の映画の巨匠監督もほぼ亡くなった、この2023年に観ることの不思議さ。これは、ある種歴史が一回りしたと言っていいことなのだろうか。そんな色々なことを考えさせられました。
 
とはいえ、時には細密に、時にはふわっと美的に描かれたこれらの絵画が、すばらしい眼の御馳走であるのは間違いないと言えます。機会がありましたら、是非、ご覧になって確かめていただければ、と思います。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のレビューでまたお会いしましょう。


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