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クリフォード・スティルと抽象表現主義

クリフォード・スティルと抽象表現主義


クリフォード・スティル(Clyfford Still)

クリフォード・スティル(Clyfford Still,1904-1980/アメリカの抽象表現主義の画家)

第二次世界大戦直後の数年間に新しい強力な絵画アプローチを開発した抽象表現主義者の第一人者の1人であり、そのベースを作ったアーティストだ。
1938年から1942年にかけて、アメリカのジャクソン・ポロックマーク・ロスコは、それまで、欧州(Paris)中心のアート世界で、シュルレアリスム様式での画家たちから、早期の時点で、それまでの表象から抽象絵画への移行を行った、そのトリガーとなり、ニューヨークが中心の抽象表現主義の運動の基礎を築いたアーティストが、クリフォード・スティルだ。
その作風は、抽象表現主義だが、彼は、その抽象表現主義と密接なカラーフィールドペインティングの第一人者とも言われる。非具象的な絵画は主観的であり、その形状は、様々な色や表面を並置する構成をとっている。そして、Stillの配置は、規則的ではなく、パレットナイフでの大規模なカラーフィールドだった。
(註)Mark RothkoBarnett Newmanは、単純化した色彩を扱っている。その違いは、それぞれの表象のロジックだろう。

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by Clyfford Still
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by Clyfford Still

略歴とアートワーク-Clyfford Still

1904年、グランディン(ノースダコタ州)に生まれる。
1925年、アートスチューデントリーグ(Art Students League of New York)で学んだ。その後、スポケーン大学(Spokane University,1913-1933)で、クリフォード・スティル、1933年(卒)まで美術クラスで学んでいる、それは、スポケーン大学が、ユージーンバイブルカレッジと統合される前の最後のクラスだ。時は、大恐慌の最中だった。(現、ブシュネル大学)
1935年、ワシントン州立大学でMFA(芸術修士)を取得。 そして、1941年まで教鞭を取っている。
1937年、ワース・グリフィン(Worth D. Griffin,1893-1981/アメリカの画家)と共に、ネスペレム・アートコロニーを共同設立し、それら4年間、夏の間、コルビル・インディアン居留地の ネイティブアメリカンの生活を描いている風俗や風景などだ。
1941年、サンフランシスコベイエリアに移り、時は大戦時であり、絵画を追求しながらさまざまな戦争産業で働いた。
1943年、サンフランシスコ近代美術館で最初の個展を開催。
1943年、そのカリフォルニアでマーク・ロスコは、クリフォード・スティルをペギー・グッゲンハイム(Peggy Guggenheim,1898-1979/アートコレクター/ソロモンR.グッゲンハイムの姪)紹介し、1946年初頭に彼女のギャラリー「アート・オブ・ディス・センチュリー・ギャラリー」で個展を開催。
翌年(1944)、ペギー・グッゲンハイムはギャラリーを閉鎖し、クリフォード・スティルもロスコや他の抽象表現主義者と共に、ベティパーソンズ・ギャラリーに参加する事となる。
1943-1945年、現・バージニアコモンウェルス大学(Richmond Professional Institute/RPI)で教鞭をとる。
1946-1950年、現・サンフランシスコ・アート・インスティテュート(San Francisco Art Institute)にて、教鞭をとる。
1950年、ニューヨーク市に移り、そこで抽象表現主義を展開するが、クリフォード・スティルは、芸術の世界に、より批判的になる。その1950年代には、商業ギャラリーとの関係は断ち切られてしまう。
1957年、ワシントン州立大学時代の後輩に当たる学生の1人であったパトリシア・アリス・ガルスケ(Patricia Alice Garsuke/当時、16歳だった)と結婚(再婚)した。
1961年、ウェストミンスター(メリーランド州)の22エーカーの農場に移る。そこで、アートから距離を置いた、ただ、暖かい季節には、敷地内の納屋をスタジオとしていた。
1966年、その農場の近く(約8マイル)の住まいに妻と共に移る。そこで、最期を迎える事となる。
1972年にアメリカ芸術文学アカデミー(American Academy of Arts and Letters)から絵画賞を受賞、1978年にその会員になり、1975年にスカウヒーガン(Skowhegan)絵画メダルを受賞。
1979年、メトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art)は、過去、最大のスティルの芸術のリサーチと、この機関が生きている芸術家の作品に対して提供した最大のプレゼンテーションを行っている。それは、亡くなる前年のことだった。

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Clyfford Still

Clyfford Still Museum

クリフォード・スティル美術館

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Clyfford Still Museum

1978年に遺言で

クリフォード・スティルの作品の一部を彼のアーカイブと共に妻のパトリシアに残した。
そして、これらの芸術作品専用の恒久的な区画を建設、または割り当てて維持し、これらの芸術作品のいずれも販売、譲渡、交換されない、独占的に割り当てられた場所に保持される。と言う明示的な要件は、物理的な生存を保証する展示と、これからの美術研究の糧にと、言う事だろう。
1980年にスティルが亡くなった後、約2,400点のスティルコレクションは、20年以上にわたって公的および学術的アクセスから完全に封鎖されたと言うことだ。そして、日本国内では、比較的、紹介されていないアーティストだった。

最後に

誰しも、はじめから、最後までスムーズには行かないものだ。ただ、常に、晩年まで、クリフォード・スティルは、自分の世界を描き続けていた。

参考:Clyfford Still Museum

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