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東京アダージョ:こどもの日は菖蒲湯で

ノンフィクションシリーズ・東京アダージョ:こどもの日は菖蒲湯で

それは、子供たちが、まだ、幼稚園児の時の「こどもの日」の事だった。
こどもの日は、子どもたちには、菖蒲の入ったお風呂に入れる日がやってきた、それも、無料で。
うちの子供たちは、それをずっと楽しみにしていた。
当日、家内は、シャワーにするという事で、自分が幼稚園児の2人の子供連れて、年に1回も行かない銭湯に行く事になった。
番台のおばさんに私の分のみの代金を払って、男性の風呂の着替えの広間に、2人の娘の手を引いて入った。そう、まだ、番台のあった時代だ。
そこでは、娘たちが、大はしゃぎだった。
菖蒲で、鉢巻をするが、嬉しいらしい・・
下の娘の服を脱がせて、カゴに入れて、自分も湯船に入る準備をしていた。
ちょうど、その時だった・・

娘たちが、大声で、「あっ、せんせい〜」「せんせい〜せんせい~」と叫んだ。
えっ・・・
それは、この四月から、幼稚園に赴任された若い先生が、番台に座ったのだ。

そう、お風呂屋さんの娘さんが、学校を卒業されて、幼稚園に就職されたという事だ。
その若い先生は、とても、品位のある、やさしい先生だ。
バスタオルを持って、二人の娘は、番台の先生ときゃっきゃっと、盛りあがっている。
ただ、今の私は、衣類はなにもない状態な訳だ。
これは、かなり、やばいシチュエーションだ。

「ねぇ、パパ〜、先生、きれいでしょう」
バスタオルもタオルも娘が持っているし・・・
「ねぇ、パパ〜、ごあいさつしてよ、パパ〜、パパ~、ごあいさつは?」

ああ、困惑の瞬間だ。
今から、服を着る場合ではないだろうし、下着だけ着るというのもあれだ・・バスタオルも、タオルも子供たちが持っていってしまった。
人生に何回かは、どこにも悪意がないにしてもだ、こういう困惑するシーンがあるものなのだろう。

カゴの中を整理するふりをして、困っていると・・
「パパ〜、ごあいさつは?いつも、そう言うじゃないの」上の娘が言った。

今日は、こどもの日なのに、今の時間、私の周囲は、お年寄りが多いようだ、し〜ん、としている。
いや、それはどうでもいい・・

そして、二人の娘が私の手と引いて先生の前に・・・
私は・・・

私は、ぬいだ衣類で前を隠して、
「あっ、先生、子供たちが、いつもお世話になっております」
「お二人のお子さんも、園でも、とても良い子なんですよ、ご家庭でのしつけは、大切だって、先輩の先生方に伺っておりました」
「ああ、いやぁ〜、どうも、あっ、それ、家内が・・」
「お父さん、今日はありがとうございます。」
「いえ、こちらこそ・・」
「ご家族で、おくつろぎの時にありがとうございます。どうぞ、どうぞ、ゆっくりなさって下さい。」
・・・
確かに、きれいで品位のあるステキな先生だった、その先生のやさしい思いやりに、少し救われた気持ちがした・・・

「先生のお家がお風呂屋さんなの、知っていたんだったら、先にお父さんに教えてよね。」
「だって、ここの風呂屋さんって知らなかったもん」

浴室で、掛け湯をして、まずは、ざっと洗い流して、湯船で、菖蒲の鉢巻をして・・
子供たちは、大喜びだった。

その菖蒲の湯船に入る前の方が、私の体温は、はるかに高かったし、そして、その時は菖蒲の香りも覚えていない。

(註)ノンフィクションシリーズ・東京アダージョは「あやうい家庭教師」にどこかでつづきます。お時間の許す折にでも・・

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