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東京アダージョ-幼稚園の砂場の親子

世の中には、どう考えても、どうあぐねても、どうしょうもない事がある。真直ぐな子供の心は、ただ、なおも、真白くなれど、どうしょうもない。それでも、幸、不幸を背負った時間の動きは止まらない。

私が幼稚園の時、近所の教会の幼稚園に通っていた。
教会の塔の下に、小さな砂場があり、その上には、葡萄棚があった。
そこでは、小学校に入る前の練習やら、社会生活のノウハウを学ぶ訳だ。そこには、ミッション系の思想もあるだろう。

ある夏も近い日の休み時間に、みんなで、砂場で、お城を作った。
その途中で休み時間は、終わり、つづきは、お昼休みにすることになった。

そして、昼食前に、みんなで、その砂場へ、行ってみると、見事なまでに、その砂のお城は崩されていた。
そして、そこには、同じくらいの年齢のきれい服装とは言えない子供と、少し離れた所に、その子供の母親がいた。
幼児の心にも、その母親は、日に焼け、やつれているのがよくわかった。
「何やったんだよぉ」
「壊しちゃってさぁ~」
「バカぁ~」
みんなが怒り出した。
「先生を呼んでこよっと・・」

その子供は、
「かあちゃん」と泣いて母親の胸に飛び込んだ。
すると、その、かあちゃんは会釈しているが、その目は涙ぐんでいた・・・
どうやら、その母と子供は、近くで公共工事をしている方で、その合間に、「ご自由にお入り下さい」とある教会の、その砂場へ、そっと入って、自分の子供を遊ばせていたようなのだ、それを読み解くには、幼児の自分にもわずか時間だった。

そこへ、担当の女性の先生が現れた。
そして、眉間を釣り上げて、
「あなた方、何なさっているの、、えっ、これ、、なあに・・」
「あなた、失礼じゃ、ありませんっ・・」

その時だった、頭を下げながら、かあちゃんの目から、大粒の涙がこぼれ落ちのだ・・・

その先生は、「さぁ、みなさん、お部屋に入りましょう、お昼食に致しますよ~」
・・・
幼い私の心は、そこで、かなり傷ついた、私の気持ちは、その時点で、その親子の側にあったからだ。
・・・
その後、小学生になった頃の自分は、だったら、教会の入り口に「ご自由にお入り下さい」なんて書かなくてもいいじゃないか、と思っていた。
しかしだ、この場合、悪いのは?どちらだ?社会正義とは何か?と言う問題以前だろう。

園長先生の娘さんであり海外で学び、帰国したばかりの「ベルサイユにでも、居そうな洋装をまとった女性の先生」にとっても、相手とどう、コミュニケーションを取るべきか、という以前に、社会経験上、言葉が見つからなかったのかも知れない、後から、きっと、後悔しただろう。いつも言葉はきついが、やさしい心の持ち主だったからだ。
また、かあちゃんの方も、当然ながら、そのシチュエーションであれば、形の上でも謝罪(または、状況説明)の声も出ないだろう。
そして、園児たちは、いいとこ坊ちゃんやお嬢ちゃんの世界だったからだ。(間違いなく言えるが自分は除く)
後から、しばらくは、幼稚園と言うと、その事の記憶が大半をしめていた。

(追記)自分が、大人になって、知ったのだが、「三輪明宏さんのヨイトマケの唄」のシーンに近似していると感じたが、、今は違う。
ただ、幼稚園のその先生も、かあちゃんとその子供も、突き詰めてみれば、仕方のない事象だっただろうし、どの部分も、その人の常識のエリアや、文字情報の行き違えから生じた出来事だったかも知れない。その時点で最善は? どうしたら、良かったのか?
今なら、その時の、園児を預かる先生も、適切な言葉も見つかるだろう、ただ、誰しもがだ、そこへたどり着くまでの年月は短くはないのだ。それは、失敗の繰り返しからしか、学べないのかも知れない・・・


三輪明宏さんのヨイトマケの唄をお聞きになったことがあるだろうか。
ヨイトマケの唄 - 美輪 明宏 (日本民間放送連盟の規定による差別用語から、現在では放送されることもないが・・)


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