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写真家ハインリッヒ・キューン、そのソフトフォーカスは印象派絵画だ

ハインリッヒ・キューン(Heinrich Kuehn/Heinrich Kühn,1866-1944):写真家。そして、純粋なアート写真であり、ピクトリアリスムの本来の方向性でもあった。それは、*ピクトリアリスムの典型とも言える、ソフト・フォーカスやアウト・フォーカスを多用した作品だ。
フォト・セセッション(リンクト・リング)のメンバーだ、そして、その当時の、写真の創成期は写真家は学際的(科学者であり、その技術から芸術も追う)だった。
その創成期の写真作家たちのフォト・セセッションから先のスキルチェンジを追うと、現在のそれと近似していると共に、先駆者としての苦境の生き方も多様だ。
そして、スタンダードな道から外れてしまった人もいるという事だ。ただ、それは、いつも時代もそうだろう・・

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(c)Heinrich Kuehn

略歴-Heinrich Kuehn
1866年、ドイツ(ドレスデン)生まれのオーストリア人のピクトリアリスムの写真家だ。
当初は、自然科学・医学博士としてのキャリアだった。その後、写真家を目指した、そこには、理論と実践をもとに撮影がなされている。技術的には、写真化学からのラバープリンティング(20世紀初頭のアート写真の方法の1つ、写真感光乳剤とゴムのメディアムの開発)や、レンズの開発・研究(機械工学・光学)も行っている。学際(がくさい:知の共有)エリアだ。
*ウィーン分離派(Wiener Kamera Klub/ウィーン・カメラ・クラブ)」に参加したり、「ウィーン・トリフォリウム/Vienna Trifolium/Das Kleeblatt」などのグループを結成した。その時の仲間は、フーゴ・ヘンネベルク(Hugo Henneberg、1863年-1918年)とハンス・ヴァツェク(Hans Watzek、1848年-1903年)との3人だった。
その後に、ピクトリアリスムの欧州の写真家たちの「*リンクト・リング」(Linked Ring-London)として、フォト・セセッションにも参加した。

フランクユージーン、アルフレッドスティーグリッツ、ハインリヒキューン、エドワードシュタイヘン(左から右)
フォト・セセッションのメンバー

Fig.フランク・ユージンアルフレッド・スティーグリッツ、ハインリヒキューン、エドワード・スタイケン(左から右へ、フォト・セセッションのメンバーだ)
1900年代の初めから、フォト・セセッションの関係から、スティーグリッツとの交流が始まり、その関係は、ストレートフォトグラフィへと長期間のスパンで繋がる。スティーグリッツの主導する「カメラ・ワーク誌」にも多くの作品が掲載された。
1888年、インスブルック市に移住し、オーストリアでの活動を開始した。
1907年、オートクローム(リュミエール兄弟のカラー写真プロセス/この当初は、モザイクでの加法混色)も使用していく。
1911年、キューンはヘリオグラビア印刷とゴム印刷(プリント)を組み合わせた方法を開発している。また、感度の異なる2層を組み合わせた2層フィルムも開発している-その効果は独特な複製世界(高い階調値スケールを実現)が表現できた。そして、もう少し、書き足すと光の強度と画質の観点からのカメラレンズの改善(AnachromatKühn)もこの時期にもおこなっている。科学者である一面を感じる。まさに、学際と言うキーワードに合致した人物だ。

1914-1915年、写真学校(インスブルック)を開校した。
ハインリッヒ・キューンの作品は、ピクトリアリスムの典型とも言える、ソフト・フォーカスやアウト・フォーカスを多用したまさに、純粋であり、印象派的な作品だったが、後期には、ストレートフォトグラフィに転向していくのだ、それは、スティーグリッツと同じ流れだ。
ただ、彼の後期の仕事はほとんど注目されていない。
1938年、NSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党:拒絶-民主主義と反マルクス主義だ)のメンバーになったと、当時の記述にはある。
先端なアートをなすもの、誰でもが、革新的リべラル(自由主義)の方向性と思いきや、右の方向性を持つ作家がいても不思議はないのだろう。
1944年9月14日、最期はビルギッツ(オーストリア)で亡くなっている。ドイツ降伏の前年だ。
ビルギッツという場所は何とも静かな場所だ。NSDAPの要因もあるのかも知れないが、晩年の記述(文責のある)は少ない・・・

ハインリッヒ・キューン 自画像 オートクローム
Heinrich Kuehn

Fig.ハインリッヒ・キューン(Heinrich Kuehn/Heinrich Kühn,1866-1944)

(註)*ピクトリアリスム(pictorialism):写真技術の科学者と写真技師は、同様のテリトリーだったが、芸術としての写真を目指す方向性を目指した。この視点は、学際だが、ただ、本来、ダゲレオタイプの時代からも、写真家は画家であった。(肖像画家のカメラ・オブ・スクラの視点)また、その「リンクト・リング」(Linked Ring-London)グループも、共に著名だ。

*ウィーン分離派(Wiener Secession, Sezession):ウィーンで画家クリムト等を中心に結成された新進芸術のグループ(1897-)だ。そこでは、総合芸術を目指していた。端的には、それまでのウィーンの美術界は印象派の影響もなく、ある意味、保守的であった。正式な名称は、オーストリア造形芸術家協会(Vereinigung bildender Künstler Österreichs)

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