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ファッション写真家セシル・ビートンの業績

今回、特筆すべき事は、ファッション写真家であるセシル・ビートン(Cecil Beaton)の業績として、1枚の写真が政局を動かすこともあると言うことだ。

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(c)Eileen Dunne - Cecil Beaton
戦時下における、ジャーマンブリッツ(ドイツのイギリスへの爆撃作戦)による被害の写真は著名だ。それは、わずか3歳のブリッツ(The Blitz-ロンドン大空襲/1940年9月7日から1941年5月10日)での犠牲者、3歳のアイリーンダン(Eileen Dunne)が病院で回復し、彼女の最愛のテディベアを握っている写真だ。それが公開された時、アメリカはまだ正式に参戦していなかったが、セシル・ビートンのこの記録写真が、アメリカ人とアメリカ政府に、その働きかけをした事は確かだ。
(アメリカの参戦や戦争を賛美している訳ではない-事象についての覚書)

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(c)Cecil Beaton

略歴-Cecil Beaton
セシル・ビートン(Sir Cecil Walter Hardy Beaton, CBE、1904-1980 UK)
イギリスの写真家・画家・デザイナーと多才だ。
第二次世界大戦の前後にかけて、写真家として、ファッションやポートレートで活躍した作家だ。
その作品は、それ以前のファッション写真とは、確かに、一線を画しており、ホルスト・P・ホルストと共に、20世紀前半のファッション写真界に大きな奇跡を残したと言われる。

1904年、ロンドン・ハムステッドに生まれる。幼い頃から、雑誌の写真に魅せられた。11歳の時、祖母が彼にコダックのカメラをプレゼントされ、写真を撮り始めるた。
ケンブリッジ大学(セントジョンズ・カレッジ)で学ぶ。Vanity Fair誌(ファッション・大衆的文化・時事)や、VOGUEなどの主にファッション雑誌の写真家として活動した。その後、戦時中は、母国、英国の情報省の戦争カメラマンとして、一流と言える記録を残している。
上記に挙げたが、戦時下における、ジャーマンブリッツ(ドイツのイギリスへの爆撃作戦)による被害の写真は著名だ。それらの表象は、セシル・ビートンのキャリアを押し上げたと言われている。その流れもあって、王室の公式発表写真も手掛けるた。
同時期に、アンガス・マクビーン(1904-1990、肖像写真家)とデヴィッド・ベイリー(1938- 、写真家-ファッションとポートレート)との関係性では、彼らに影響を与えいる。例えば、デビッド・ベイリーの正方形フォーマット(6x6)画像は、それはセシル・ビートンの作業パターンからの影響下にあるだろう。

また、舞台や映画のデザインでも著名だ、1958年に映画「恋の手ほどき」(Gigi)でアカデミー衣裳デザイン賞、1964年の「マイ・フェア・レディ」(My Fair Lady)でアカデミー美術賞、アカデミー衣裳デザイン賞、多才だ。
ただ、セシル・ビートンのLGBTは、当時は理解されることが、難しい時代だったが、1972年、CBE(大英帝国勲章)を得ている事は救いなのかも知れない。
1974年以降-、脳卒中を患い、身体の右側に麻痺が残ったが、左手で書く(描く)ことを学び、カメラを改造した。誰しも、そうだが、病後の晩年は生活のための経済的安定を懸念した。そして、1976年に写真の専門家であるフィリップガーナーに依頼し、ロイヤルファミリーのすべての肖像画をサザビーズでの競売と、ヴォーグがロンドン、パリ、ニューヨークで開催した50年間のビートンのアーカイブを購入している。それで、晩年の収入を確保したが、身体は衰え、1980年、ウィルトシャー州ブロードチョークの家(Reddish House)で亡くなった、76歳だった。

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Fig.Cecil Beaton

(追記)
いつの時代でも、表象するもの(作家)の最期は、辛く、痛いものを感じるのだが、それは誰しものことなのだろう。
次回以降も、前回のムンカーチ・マールトンもそうですが、フォト・セセッション(芸術としての写真の位置づけを目指す方向性を持つ)から、次のパラダイムへ、写真のあり方の時代への移行をランダムになりますが、記したいと存じております。その写真芸術に於ける、ファッション・デザインと写真の周辺と、その作者の人間像的な覚書を後、数篇のコラム、覚書にする予定でおります。
日本の写真家で言えば、土門拳や木村伊兵衛の流れにある時代のアイデンティティーでしょうね。

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