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(その2)「イメージと文化」その「物質と記憶」を考える。

7)アンリ・ベルクソン「物質と記憶」を簡潔に考える
アンリ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson,1859-1941/仏-哲学者)1929年、ノーベル文学賞。
従来型の認識論の限界を超えた、実証主義の手法を取り入れた。
そこが、ベルクソンは生の哲学と言われる由縁かも知れない。それは、持続の相(外見)のもとで、直感により、生きた現実が把握される事になる。
先に、ポイントを述べると、物質と記憶の一考として、次のように考えられる。
「身体とは、動いて止まない実存であり不可分だ、時間性と空間性を切り開く平面上(現在のすべてのイマージュ)の点から、自分の記憶の中に蓄積された。想起(思い出す)の全体。」
また、ピックアップして、考えてみると・・
・記憶と精神:現実的運動は、1つの事物の移送というより、1つの状態の移送である。
・正常な自我は、現在の行動に有効に展開するイマージュと観念

imagesのコピー

(註)円錐SABによって、自分の記憶の中に蓄積された。想起の全体。
 点S:身体のイマージュの凝縮
 平面P:すべてのイマージュ

fig5のコピー


・そして、無数の心的性の反復の余地を考えた時、
また、この円錐形は先には、スパイラルを描く形状となるのかも知れない。

(追記-アウトサイダーアートを考える)このような流れで、物質と記憶、それは、アウトサイダーアーティストにとって、その生存時間内に、自身の内面を描いていく、「唯一の自己の生きている」と言う不条理の肯定かも知れない。また、どうしても行わずにいられないコミュニケーションスキルなのだ、だから、その作品は、惹かれる、そして、観る者の感性を揺すぶられるのだろう。

いずれ、アウトサイダーアート(アールブリュット)の背景とその周辺にあるもの。そして、それは、芸術の本質を追うものなのか?
「それが、芸術といえば芸術なのだ。-Joseph Kosuth」と言われてもだ、
見る側の極が、揺すぶられてこそ、アートなのだ。どんな生き方であろうと、その人の本来的な重心をどこに置くか、それは、アートにとって、重要な要素だろう。
作者の極と、観る側の極があって、その芸術は成立する。-デュシャン
アウトサイダーアートの発生時の流れと背景、その周辺、そして、そのアーティストの具体例(当然だが、その資料は少ないが)の流れを追って参りたいと存じております。

(註)ヘッダー画像は、Photoshop v1.0Eで、当時のMacintoshIIで制作したものです。

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