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書評:明るい部屋-写真についての覚書-ロラン バルト

明るい部屋―写真についての覚書 単行本 – 1997/6/7
ロラン バルト  (著), Roland Barthes (原著), 花輪 光 (翻訳)

「写真:それは、かつて、あった。」
このエッセイ的な覚書は、前言を否定するところは、パーツの記号論的な視点であり、哲学的な展開だろう。

以下、抜粋の概要と評

1)写真の特殊性:写真の存在論、写真、それ自体が何であるか?
そこから、この覚書は始まる。

2)分類し難い写真:分類を考えても、「写真」と言う対象に対して外在的である本質と反れる・・

写真、それは、刹那の偶然→目の前の何かを指さす(パーツの記号論で言えば、インデックスだろう)

そして、もう少し、踏み込むと、写真の現象論は、困難を伴う試みのようであり、本文中、繰り返し、その現象の意味論が出没する。
それは、写真の主観からの意味付与と別なところで、既に意味構成が行われているところにもあるだろう。
写真に証拠能力(過去の瞬間に存在した)はあるが、絵画というイメージには、それはない。

4)「撮影者」「被写体」「観客」

(p16)バルトにとって、写真を考えるとき、「撮影者(フォトグラファー)」「被写体≒幻像」「観客≒写真を見る人」と言う視点で展開されている。
(トリックを作り出す、暗室はない≒今では、adobe softかも知れないが)
(註)≒ 近似値
明るい部屋に、暗室はあっては困惑するとも考えられる。
心理の対象と主張、そして、作為の対象。この2つは両立しないかも知れない。
幻像は、ポラロイドの時代までだ、撮像素子(CMOS、CCD..)によるデジタル時代の写真はどうだろう。
ただ、この2つ極を持つ写真は、ある意味、暴力的であり狂気を感じる・・・

6)「観客」-その無秩序な好み(p26)

どう見るか、何を見るか・・

9)二重性

その写真の二重性とは
3:グラビア解説 木からグアの反乱を撮った写真において、廃墟の街路、兵士より、2人の修道女に目が行く、それは存在を示す。
この2つの要素(兵士、修道女)は同じ世界に属していない・・

ニカラグア-兵士と修道女


4:白いシーツで覆われた子供の死体が横たわっている。両親と友人たちが、それを取り巻き、悲嘆に暮れている。
・・
いったいなぜ、こんなシーツをかかえているのか?

ニカラグア-我が子の遺骸を見つける両親


14)不意にとらえること(p46)


「駅馬車の終点」ニューヨーク-1893年 A・スティーグリッツ

「駅馬車の終点」ニューヨーク-1893年 A・スティーグリッツ

17)単一な「写真」(p54)

ポルノの写真はつねに素朴であり、計算がない。そにある、ショーウィンドーの宝石は、sexだけだろう。

18)「ストゥディウム」「プンクトゥム」(p56)

ストゥディウム:一般的科学的文化的なコード化された写真受容形態。
プンクトゥム:一般的な概念の体系(ストゥディウム)を揺さぶり、かつ、それを破壊(分断)する、その写真から来るもの。
それらの共存・・

19)「プンクトゥム」-部分的特徴(p58)

写真論において、一般的な概念の体系(ストゥディウム)を揺さぶり、かつ、それを破壊(分断)するものであり、コード化不可能な細部を見つけてしまうような経験とも言える。
その細部を見つけて、ゲシュタルトように曖昧にまとめられない・・

(註) ゲシュタルト(ドイツ- Gestalt)心理学の基本概念。全体を、部分の寄せ集めとしてではなく、ひとまとまりとしてとらえた、対象の姿、また、形態。
ただ、曖昧性が残存する・・(それは、かつての20thのデザイン学とも共通項目があるように感じるが)

28)「温室の写真」(p81)

「写真:それは、かつて、あった。」
バルトにとって、唯一「存在している」写真は、母の死後、アパルトマンで見る、バルトの母の幼い頃の写真であり、その無垢な姿に、バルトの母の生涯貫いた姿勢を見出している。
また、「一般関心」「文化コード」に左右されず存在した写真だろうし、その価値観は、バルト以外は、価値のない写真であり、だから、それを公開していない。
その流れから、その写真論は、哲学であるとも受け取れるだろう。前述の記号論的な視点(極)もそうだろう。

32)『それはかつてあった』(p92)

写真のノエマ:事物はかって、そこにあった。
日常的な氾濫は、分かりきった特徴として無関心に生きるおそれがある。しかし、温室の写真は、バルトの目を覚ます・・

34)光線・色彩(p100)

写真の「生彩=生命」それこそが、イデオロギー的な観念だろう。

35)「驚き」(p102)

消滅したものを復元することではなく、今、見ているものが、存在だ。
形而上学:写真・映像を通じて、同時代の諸事件に参加している、と言う事だろう。

36)確実性の証明(p106)

写真は、真実を写しとる、と共に、作為の対象だろう。
そして、暗室の作業は、写真のトリック(嘘)の成立かも知れない。

(トリックを作り出す、暗室はない≒今では、adobe Photoshopかも知れないが)
明るい部屋に、暗室があっては困惑するとも考えられる。
そして、写真は後ろ向きの予言だろう。
かつ、完璧な錯覚としての文化的コード(人工的記号)だ。

44)明るい部屋(p131)

写真の平面的性質、そして、カメラ・ルシダ(明るい部屋/かってあった写生器:片眼をモデル、もう片方の目を画用紙に)、それに対して、技術的な起源は、暗い部屋(カメラ・オブスクラ)となる訳だ。
そして、繰り返すが「それ(写真)は、かつて、あった」
(p131)「暗い部屋=暗室」それは、記号論的否定である。
繰り返すが、明るい部屋に、暗室があっては困惑するとも考えられる。

45)雰囲気(p132)

それが実存した。
写真はある人間が存在したと言う証明する。
その顔が持つ雰囲気は分解できない。 

47)「狂気」「憐れみ」(p139)

写真のノエマ(Noema/思考・考える作用)は、単純で平凡である。
「それは、かつて、あった」
本文中のポイントはいくつかあるが、
現実の擦り写しにした、狂気の映像かも知れないのだ。(p140)
写真は暴力的(p113)であり、狂気でも、あるのだろう。

48)飼い馴らされた「写真」(p142)

写真の2つの道(p146)
・完璧な錯覚としての文化的コード
・そこによみがえる手に負えない現実を正視するか・・・
それを選ぶのは、自分だ。

以上が概略の抜粋と評の概略だ。

書評:後書き

現在の21世紀に置いて、この当時の写真(ハロゲン化銀フィルム)と比べて、技術的には、例えば、撮像素子にしても、毎年、急速にパラダイムシフトとしている。
今、フィルムの時代のように、確かに撮れているか、また、自分の意思通りに撮れているか?タイムラグの間、悩む必要もないのだ、ただ、本文中にポラロイド写真も登場する。
即効性に於いては、同じだろう、しかし、だからと言って、バルトの写真論(エッセイ≒覚書)とは、異なるのかも知れないし、また、延長に受け取ることできるだろう。


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