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歩けない!は演技なのか?

ベランダ出入り口に、段差を乗り越えるために手すりを設置してある。本格的な寒さの前触れなのかつかの間の日差しの中で、母とベランダでひなたぼっこをする。ふらふらする身体を支えながら、やっと椅子に座わらせることができた。ベランダに鉢植えを置けば喜んで世話をするかもしれない、という思惑は見事に外れ、眺めるだけでただ毎日、水が足りないと催促する。大丈夫、足りているよ、と繰り替えす。でも「綺麗ねぇ.....」と満足しているから、ま、いいか。

そして私は部屋の掃除やら何やらで一時そこを離れた。.......どのくらい経ったのだろう、ふと見ると母がベッドで寝ているではないか。えっ、ワープ??? つまり回転するから危ないと怖がるあの椅子からひとりで立ち上がり、手すりを握って段差を踏み越えたということだ。......学習したのだと思うことにしよう。歩けない!は演技なのかと時々ふと思う.........疑惑再燃。

昼過ぎに、お花屋さんにいこうと散歩に出掛けた。お天気が良いうちに少しでも歩こう。なんせ、デイサービスにもデイケアにも行かないと言うのだから。向かった先は寂れた商店街だが、ところどころで若者たちがお洒落な店作りをしている。ゆっくり歩けば楽しめそうだがそうはいかず、そして案の定、帰り道で機嫌が悪くなり(レンガ道がガタガタだという理由で)、私の受け答えが気に入らなかったらしく突然、「アンタ、私が憎いの?」 と言い放った。 あぁ.......出た、憎悪の言葉を簡単に吐き出す。まるで息をするように....と長女が言うあれだ。

途中の公園でしばらく休んだ。自分の心を立て直すのに精一杯だった。このまま喧嘩しながら帰ってはいけない。今まで何度も我慢出来ずに虚しい言葉のバトルを繰り返した故の現在である。無駄にエネルギーを消耗する喧嘩ほど割に合わないものはないのである。でも心を押さえ込む、その積み重ねで私の心は蝕ばまれていくのではないか.........どうせ聞こえないだろうと、小さく呟いてみた。「憎い?  もし、憎んでいたらどうする? お母さん。」

母と私は生き方が全然違う。価値観も違えば、共感するところも違う。今や、私が留学したこと、シングルマザーになったこと........すべてが母の記憶の奥底では悪なのである。そういう人生の選択は自分にはなかったから到底理解できないのだ。だけど子育てに協力してくれた。楽しい時間も共有したはずだ。それが今、「恩知らず!」と言う言葉になって不意に放たれるのだ。それは孫にも向けられる。よくそれを我慢できるものだと思うのだが、そういう人なんだよと、娘は達観している。そして、お母さん、無理心中なんてしねいでよね、とポツンと言う。する訳ないよ、ふたりの娘がいるのに。人生をもっと楽しみたいよ。

心の奥にしまわれていたものが、アルツハイマーで理性が働かなくなって全部そのまま吐き出される。そもそも自分が持っていない語彙は出てくるはずがない。「憎いの?」と言い放つ母の根底に、憎しみの感情がかくもたくさん住み着いているというのか。どう生きてきたのかを問われているのではないか、そのために生かされているのではないか........だが本人にはそれを問答するだけの知力はもはやない。自分で自分の心に折り合いがつけられないのなら、誰がどうやって母の心を解き放すことができるのだろう。このまま終っていくのは悲し過ぎる。

たった今、笑っていても振り向いたらそこに怒りがある。そんなことを繰り返してきて2年目のお正月である。この日常をどう生きるのか、どう好転させるられるのか。絶望はしていないが少し休憩したい。

めずらしく夜中にドラマを観た。ラブストーリー。




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