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山猫と郵便局            ー幻想酒楼 三層目ー

雨の郵便局

緑の匂いが濃い。秋に入った雨は冷たく、色づきかけた葉の上を雨粒が銀色に光って転がり落ちていく。うっそうと葉を茂らせた樹々の下を私は早足で歩いていた。

このあたりはいまどきには珍しいほど家々の区画が大きく、庭木にも松や椎の大木が目立つ。もとは古い避暑地だったと聞けばそれも頷ける。崩れかけた大門や、長く続く塀の奥には古くとも立派な邸宅があるのだろう。
台風でも近いのか、強い風に樹々が揺れるたび肩に雫が滴って私は首筋をすくませる。やがて行く手にぽつんと、オレンジ色の灯りが見えてきた。 

  * * * * *

その日、隣町の本屋まで出かけた私は、帰り道で雨に見舞われてしまった。急なことで傘は持っていないが、雨脚は激しくこのままではずぶ濡れになってしまう。贅沢は言わない、どこか雨露をしのぐだけでもと頭を巡らせたが、なにせお屋敷というものは門から玄関までの距離が長い。このあたりには気軽に雨宿りできる軒先といったものがないのだ。
上着に雨が沁みとおり、肌まで冷えてきたころ、ひとつ心当たりを思いついた。確かこの先に小さな郵便局があったはずだ。子どもの時分に仲の良かった友達の家が近くにあったので覚えていた。友達は引っ越してしまったけれど、そこならなんとか。

すでに薄暮が辺りを包み始めている。急く足は落ち葉の散りこんだ水溜まりに踏み込み、しぶきがズボンの裾に浸み上がって気持ちわるい。革靴のなかもあやうくなった頃、ゆく手にめざす建物が見えた。

目的地となる郵便局はこじんまりとした円筒形の建物だ。筒形のシルエットはそれ自体が昔のポストのようで、見る者に「なるほど、これは郵便局だ」と納得させてしまう雰囲気を持っている。
久しぶりに訪れた郵便局は記憶の中の姿そのままで、かえって意外な感じがする。もっと古びているか、あるいは廃墟になっていてもおかしくないとすら思っていたのだ。生い茂った樹々の間では時が止まっていて自分だけが齢を取ったような、肩透かしをくらったような気分になる。

小さく突き出た庇の下には丸い電球が灯っている。電球から放たれた光は湿気を含んだ空気のなかでやわらかく暈となり、久しぶりに訪れた私を遠くから迎えてくれているかのように思えた。

しかしなぜ灯りが点いているのだろう。時刻は夕方の五時を過ぎている。誰かが住んでいるわけではなし、郵便局が現役であったとしても、この時間にはもう営業は終わっているはずだが。だがとにかく今は雨を避けられればいい。私はさらに足を速めた。

  * * * * *

ようやくたどり着いた庇の下では、雨音と、電球が形づくる光の半円が私を包んでいる。ほっとひと息ついて建物に背をもたせ掛けると、古びた扉のすき間から細く光が洩れているのに気づいた。やはり中に誰か居るのだろうか。覗き込もうとしたところで、低い声が聞こえた。
「もうそのへんにしておきなさいよ」
声はそう言ったように聞こえる。さらに、妙に甲高い声がそれに応えたようだが、声は小さすぎて内容までは聞き取れない。耳を澄ませようと近寄ると、扉に体重が掛かってギッと扉が開いてしまった。
「しまった」
扉の隙間から室内に向け、落ち葉をのせた雨風が吹き込む。一瞬見えた室内には薄明かりが灯っており、誰かがこちらを振り向いた気配がした。覗き見の後ろめたさに身をすくめる。だが中からは意外な声が掛かった。
「いらっしゃいませ。」
――え?
「いらっしゃい。」
声はもう一度そう言った。こんどは声にゆったりとした余裕が感じられた。声の主らしきシルエットのうなずきに力を得て、私は扉の中に歩み入った。

薄明かりに眼が慣れてくると全体のようすがつかめてきた。室内は郵便局のままだが、そのしつらえを残したままカウンターバーになっているらしい。壁には「ふるさと小包」だの年賀状の案内だのが貼ってある。風変りではあるがそういう趣向なのだろう。受付窓口のカウンターがバーカウンターにそのまま転用されている。

だがカウンターの中に立つ男は郵便局員の恰好というわけではなく、きちんとバーテンダーの装いをしている。白いジャケットにワイシャツ、蝶ネクタイは黒いサテンと本格的だ。

室内には彼のほか誰もいない。とすると、さきほど漏れ聞こえていた声は彼のひとりごとだったのか。壁の時計が時を刻む音が、雨音に交じってゆったりと響く。雨に冷えた肌に室内の温度はふわりと柔らかく、小テーブルに置かれたランプが、琥珀色の光の円をかたちづくっている。

案内されるままカウンター前のスツールに席を占め、肘をつくと、カウンターに敷かれた厚手のビニールの下には記念切手のサンプルがはさんであった。懐かしい。夏休みの宿題に、蝶ばかりの記念切手を集めて作った自由課題を思い出した。

「ここ、バーになっていたんだね。雨で困ってたから、こんないい場所があって助かったよ」
「そうおっしゃっていただけると幸いです」
「いつからやっているの?」
「しばらく前からですね。まあ、気が向いたときにぽつぽつとやらせてもらってます。昼間は郵便配達があるから忙しいけれど、夜は手が空くもので」
男の口元に愛嬌のある八重歯がのぞく。

ちょっと猫背気味なところだけが気になるが、目に力のある顔立ちは悪くない。こんないい男が郵便配達に出ていただろうか。この辺りのたいていの局員の顔には見覚えがあるのだが。
「なんにします」
「そうだね、じゃおすすめのウィスキーをロックで」
「承知いたしました」
マスターはピックで氷を削り始めた。手際良く氷が形づくられていく。きらめく球体に氷が完成すると、本来は郵便物の仕分け用の棚であろうバックバーからウィスキーのボトルを取り出し、グラスに注ぐとすっと差し出した。コースターは深紅の革製だ。薄暗い照明のなか、渋い色みがちょっと洒落ている。
「お待ちどうさまでした」
彼の物腰はあくまでしなやかだ。物音もほとんど立てない。

突き出しは殻付きピーナッツ。オーソドックスだが間違いのない選択だ。乾いた殻を割りながら声を掛けた。
「さっきは誰か居たの。なんだか話し声がしていたようだけれど」
「それはですね」
マスターが言いかけたとき、ピーナッツの皿を探る私の手に何やら冷たくツヤツヤとしたものが触れた。
「なんだこりゃ」
つまみ上げてみると茶色いどんぐりだった。辺りには椎や樫の樹が多いから、何かのはずみに混じりこんだのだろうか。それにしても唐突な。気づくとカウンターの上にはほかにも三つ転がっている。合わせて四つ。どんぐりはランプの光をうけ艶やかに光っている。
「それがですね」
またマスターが言いかけたとき、つまんだ指からどんぐりがつるりと抜け落ちた。どんぐりはカウンターの端まで転がっていったが、転がり落ちる寸前でぴたりと停止した。と、そのどんぐりがころりと起き上がった。
「ふう。危機一髪」
甲高く小さな声が、確かにそう言った。どんぐりに短い手足が生えて立ち上がっている。ぎょっとして凝視するとどんぐりはこちらを仰ぎ見た。
「こういうことです」
マスターがあきらめたように小さなため息をついた。

見慣れぬ先客

「あんた、ここ初めて?」
腕組みをしてどんぐりが口をきいた。しかも微妙に態度が大きい。
「あ、雨宿りしようとしてたら見つけたもんで」
どんぐりの先制に気を呑まれて、私は驚きを伝えるべきタイミングを失ってしまった。そこからは向こうのペースだった。どんぐりはこの店の常連らしい。
「いい店よね。俺、好きよ。マスターはちょっと癖があるけど」
マスターがじろりとねめつけた。
「新しいお客さんにあんまり絡まないでくださいよ。あなた、話が長いんだから」
「マスターは相変わらず手厳しいね。まあいいじゃない。今日は気分がいいから、俺、おごっちゃう。あんたなんでも好きなモノ頼みなさいよ」
マスターがちらりとこちらを見てまたため息をついた。残りの三つのどんぐりにも手足が生え、いつの間にか座に加わっている。最初のどんぐりの飲み仲間らしい。四つ集まったどんぐりたちはマスターの手元に集まって口々に注文をした。
「マスター、こっちにもロックで」
マスターが、グラスに琥珀色に揺れるウィスキーのロックを出すと、彼らは喜んでキィキィと盛りあがり始めた。しかしどんぐりの大きさに比して、グラスのサイズは明らかに大きい。どうやって飲むのだろうと気になっていたが、マスターはカウンターの手元から何か小さなものをつまみだした。
「どんぐりの笠です。どんぐりが頭にかぶっているあれです。」
私の視線に気づいた彼は言った。
「これにお酒を汲んでお出しするんです」
彼はスプーンを取り出すと、先ほどのグラスから酒をすくい、カップ状になっている笠に器用に注いだ。親指と人差し指でつまみ、慎重な手つきでどんぐりたちに差し出す。最初のどんぐりが近寄ってきて杯を受け取った。同じことが繰り返され、すべてのどんぐりに無事酒がいきわたると、カサリと杯を合わせ飲み始めたようだ。杯の直径は、それぞれ、どんぐり自身の胴回りと同じなので、盃を抱え込んで口をつけているさまは祝言の固めの杯のようである。
「ボトルキープのかわりに、グラス用に笠をお預かりしているんです。笠は、どんぐりの皆さんがかぶっていた自前のものです」
飲んでいる間はおとなしい。現金なものだ。時計の音が静かに響いていた。
手持ちぶさたになった私は、またピーナッツの殻を割る。

視線を感じて目を落とすと、どんぐりたちが杯から顔を上げてじっとこちらを見ている。彼らと相席となったいまとなっては、ピーナッツとどんぐりは親戚筋のような気がして、彼らの注視のなかでは口に運びにくい気がした。だがもう手は動き出していて、次の瞬間にもうピーナッツは口の中に入っていた。奥歯でかりりと砕ける。香ばしい。うまい。

ピーナッツの香りが立った直後は「あ……」と小さなため息がいくつか漏れたような気がしたが、気にしないことにした。ふたつみっつ、続けてナッツを口に放り込む。引き続きぶつぶつと抗議のつぶやきが聞こえたが、どんぐりとても花より団子、マスターに二杯目のグラスを出されたとたん、目先の酒の魔力に負けたらしく、義憤を忘れて早くもおかわりに取りかかっている。 

二杯目を飲み終わるとまたどんぐりたちは騒ぎはじめたが、先ほどよりは動きが鈍い。そのうち一つのどんぐりがころりと転がった。寝てしまったらしい。マスターはまたため息をついた。
「いつもこれなんだから…」

室内が静かになった。注文も落ち着いてほっと一息というところか、マスターも自分用に水割りを作ってちびちびやっている。
「ここのお客さんはよっぽど飲み助が多いんだね。こっちももう少しもらおうかな」
「はい、ただいま」
振り向いたマスターの目が照明にキラリと反射した。あれ、いまの、なんだ。一瞬、眼が金色に光らなかったか。
「いかがいたしましょう」
あらためて向き直ったマスターの目は愛想良く細められて、さっきの光はもう見えない。
「お代わりお出ししましょうか」
「あ、そう、同じのをお願いします。」
しかし今のはなんだったんだろう。慣れない店で、もう酒が廻ってきてしまったのだろうか。注文に応え、マスターは再び氷を削り始めた。その手元が視界に入る。あれ、マスター、あんなに毛深かったっけ。ワイシャツから見えている手首からのぞいている腕の毛は、控えめに言っても多い。
グラスに酒が注がれて、再びカウンターに差し出された。カウンターに差し出す手の甲は、今やもう体毛でふさふさである。
「お待ちどうさま」 
微笑むマスターと目が合って、今度はばっちりと瞳が見えた。眼が完全に金色だ。やや、これは。金色であるのみならず、虹彩が縦に入っている。獣の眼だ。こちらの息が止まる間もなく、たたみかけるようにカウンターの下のほうでぱさりと音がした。おそるおそる眼をやると、黒いスラックスのマスターの腰からは艶々とした毛並みの尻尾がふさりと垂れ下がっていた。 

「マスター、それ、えっと、」
そう言う私の声はこころなし震えていたかもしれない。こわばり気味の私の視線をたどると、マスターはペロリと赤い舌を出した。
「ああ、酒が美味いとつい出ちゃうんですよね、これ。それはそうと」
そういうとマスターは腰をひねって後ろの棚を振り返り、よっこらせ、と声を出して大きな壜を担ぎ下ろした。
カウンターの上にごとりと置く。
「自家製です。あんがい悪くないですよ」
果実酒用の広口壜には淡黄色の液体が満たされ、底にはうずらの卵ほどの実が沈んでいる。梅でもなし、オリーブでもなし。
こちらに向けられたラベルは【MATATABI】と読めた。
「こんな寒い夜はとくに酒が美味くてね。先ほどは失礼いたしました。でももうばれちゃったから、ひとつご勘弁いただいて。」
そういう赤い口の中には早くも小ぶりな牙らしきものがのぞいていた。唇がが耳元まで裂けたかと思うと、両耳は三角にぴょこりと突き出し、柔らかそうな茶色い毛に覆われた。毛むくじゃらの頬からはピアノ線のように固いヒゲがぴんぴんと突び出し、あれよあれよという間にマスターの姿は、バーテンダーの正装をした一頭の大猫に変わってしまった。堂々たる体躯に、漆黒と茶の毛皮がすこぶる見栄えをする。
「試してみますか?」
にっこり笑うと、耳元まで口が裂け、牙が光る。
「ね、猫……」
さっきまでマスターだった猫はこちらに向かって金色の片目をつぶってみせた。
「野良猫ってのは勘弁してくださいよ。根が田舎者だから、まあ野良っちゃ野良みたいなものですが、しゃれた言い方をするなら山猫、ってところですかね」
猫は再び眼を細め、薄い舌でぺろりと口の周りをなめた。

――なるほど、つまりそういう店か。
さっき出してもらったロックを口に含みながら私は納得していた。
客が客だからな、マスターが猫でも何の不思議もない。むしろこの店で浮いているのは俺のほうか。
心のつぶやきにこたえるように、グラスの氷がカランと鳴った。

店主のロマン

「それにしても郵便局でバーとはね。ちょっと意外だったよ」
リネンでグラスをみがく猫のマスターに声を掛けた。彼の新しいご面相には徐々に慣れつつある。牙が見え隠れするときだけはまだ落ち着かない気分になるけれど。
「皆さんそうおっしゃるのですが、私にとって郵便局とバーのふたつはイコールなんです。例えばこの切手」
 どこからか取り出した切手が、金茶の毛に覆われた人差し指と中指の間にはさまれている。手品師の指さばきだ。
「切手というのはですね。翼なんです。文字を書いた紙にこのちっぽけな一枚を貼るだけで、書いた人の想いをどこまでも遠く連れて行くことのできる翼なんですよ。」
「へえ、ずいぶんロマンチックだね」
いかにも、といった風情で猫は頷くと先を続けた。
「そしてまた、一杯のカクテルもまた、お客さまを夢の世界にお連れする。すなわち、手紙と酒、その二つは両方とも魂の翼なんです。自分のなかではイコールなんです」
「ふうん、郵便局もバーも、羽根を休める場所ということか」
「それから、ロマンと言えば、うちの売りは伝書鳩ですね」
そう言って指を鳴らすと、仕分けの棚の奥、小包とばかり思っていたものがむくむくと動き出した。ひょこっと首を突き出したのは、白鳩だ。ますます手品じみてきた。鳩は軽く羽音を立ててマスターの肩に留まった。喉の奥で柔らかく声を響かせている。
「伝書鳩にはいろんな色のがいますが、うちじゃ郵便局のこだわりとして白い鳩にしてます。どうです、この清らかな翼。純白の封筒のイメージそのまま。大事なお便りを間違いなく届けて律儀に帰ってくる。どんなに遠くに行っても必ず帰ってくるでしょう。ほんとにかわいいもんですよ」
肩に乗った鳩に、いとしげに頬を寄せた。

確かにロマンチックだ。だが、そんなものが商売になるのか。そうよぎった私の考えを見透かしたように猫は続けた。
「お祝い用でのご注文はもちろんですが、ダイレクトメールでのご用命もけっこうありますよ。なんせ受け取られた方の開封率は100パーセントですからね。何か御用の向きがおありでしたら承ります。」
ちらりと商売用の笑顔が浮かんだ。
「でも仕事の合間に世話をするのも大変だろう。餌の手配とか。」
「そんなに手はかかりません。そうですね、餌は、木の実なんかはだいたい好きみたいで、自分でつまんできます。どんぐりなんかも好物ですね。」
 山猫の眼がカウンターの酔客をちらりと見た。どんぐりたちは相変わらず無邪気に呑んだくれている。マスターは口の端でにやりと笑った。
「秋になってどんぐりやらなんやらいっぱい食べて、脂の乗った鳩なんかなおさら可愛らしいですね。見てもよし、」
愛嬌のある口元からちらりと八重歯がのぞいた。キバともいう。
「味わっても良し。ピジョンブラッドっていうだけあって、秋の鳩はとりわけルビーみたいな赤ワインに良く合いますから。よっと」
手近などんぐりに、さきほどの切手をぺたりと貼った。
「はい、秋のお便り一通お届け」
肩の鳩がばさりとテーブルに舞い降りて、すかさずそのどんぐりをくわえる。鳩は頭をひと振りしてどんぐりの切手を振り払うと、そのまま丸飲みしてしまった。キーキー声は鳩の喉の奥に消えてしまったが、他のどんぐりたちは気にするようすもない。
「どんぐりのお客さまには飲み放題で楽しくやっていただいてます。お客が呑む。鳩が食べる。鳩が丸々と肥った頃合いに、私が美味しくいただく。なんて美しい三位一体。これも、またロマンなのです。ああ。」
山猫はうっとりと目を遠くに向けた。 と、キバのすき間からよだれがこぼれかけ、「いけない、いけない」とナプキンで口を拭った。

定例会議

「お、そろそろ時間だ」
マスターは壁の時計に目をやった。
「そろそろ定例会の時間なんです。雨の木曜、7時から、って決まっていまして。ちょっと騒がしくなりますが、ご勘弁を」
その声と同時に入り口の扉がカチャリと開いた。細く開いた扉のすき間から入ってきたのは新しいどんぐりたちだ。
七時ぴったりになった。マスターが軽く咳払いをして、室内に声を掛ける。
「それでは時間となりましたので、会を始めさせていただきます。」
なにげなく背後を振り返った私はあやうくスツールから滑り落ちそうになった。いつしか室内は無数のどんぐりで埋め尽くされていて、命を持つ絨毯のようにざわざわとうごめいていたのだ。
マスターは進行を続けた。
「さて、今年もどんぐり会の代表を決める時期となりました。なお代表の方には純金の傘が授与されます。それではどなたが適任か」
どんぐりどもが一斉に口を開いた。
「おれだ」
「おれだ」
「酒に強いのが偉いんだよ」
「金払いがいいのが偉いんだよ」
それぞれキイキイと叫ぶ。ぶつかって転げる者もいる。酔った勢いで、カウンターのグラスによじ登って足を滑らせ、酒の中に落っこちる者もいる。つまみ上げてやる前に仲間が駆け寄ってきた。脇にあったマドラーを担ぎ上げて梯子替わりにグラスに投げ込む。溺れかけていたどんぐりはずぶ濡れになってよじ登ってきた。騒々しいことこのうえない。こんな騒ぎじゃ、せっかくの酒もまずくなる。私はめんどうな気分になり、つい呟いた。
「いちばん偉い木の実なんて決まってる。」
小さな独り言だったはずだが、背後が水を打ったように静まった。私は続けた。
「殻を割ると香ばしくて、噛むとカリッと軽く砕けてウィスキーに合うのが一番えらいのだ。こんなふうに」
そう言って私は皿からピーナッツをつまみ上げた。集中する視線を背後に感じながら、おもむろに殻を割り、口に放り込んで噛み砕いた。
――カリリ。
軽いコクが口中に広がる。それから残りのウィスキーをぐびりと空けた。かあ、たまらん。その間どんぐりたちは一言も発さない。彼らの耳には、ナッツの砕けた音が殷々とこだましているかのようだった。
 そのうち一粒のどんぐりがふるえだした。そのどんぐりが隣のどんぐりとぶつかってカチカチと音を立てる。ふるえは次々とひろがって、部屋いっぱいがさざなみのような微かな響きで満たされた。

「さて、雨も止んだみたいだし、そろそろ行くか。マスター、お会計お願いします」
マスターはグラスを磨く手を止めてうなずいた。
支払いを済ませ、マスターに見送られて店を出た。最後まで、口を開くどんぐりは一粒もなかった。

「こちら、よろしかったらお持ちください。」
店の外で差し出されたのはさっきのコースターだった。
「うちのオリジナルです。きょうの記念に。騒ぎを静めてくださったお礼と、なにより、にんげんのお客さまはうちでは珍しいですからね。これからもごひいきに」
マスターは片目をつぶった。
「またお待ちしています」
マスターの声を背に、雨上がりの夜空を振り仰ぐと、猫が目を細めたような金いろの三日月が浮かんでいた。

   * * * * *

それからしばらくは仕事が立て混み、店に足を向ける暇もない日が続いた。去るものは日々に疎しの言葉通り、あの夕方の記憶も日々の生活に取りまぎれて思い出すこともなくなってしまった。

一年ほどが経ったある日のこと。朝から薄曇りが続いていて肌寒い日だった。数日前から一気に秋の色が濃くなって、出掛ける時には上着がほしい季節だ。クローゼットから久しぶりにジャケットを取り出し、袖を通すと右のポケットに重みを感じる。手を突っ込んでみると文庫本が入っていた。あの日、書店で買いもとめたものだ。表紙には皺が寄っている。道すがら雨に濡れた跡だろう。
「こんなところにあったのか。どこにやったのかと思っていた」
ぱらぱらとページを繰ると、ひらりと舞い落ちたものがある。店を出るときにもらった革のコースターだ。懐かしい。ところが屈んでつまみ上げてみると、たしかにコースターと見えたひとひらは、深紅に色づいた蔦の葉に変わっている。鼻を寄せると、湿った樹々の匂いがほのかに漂った。マスターのにゃあとした顔が浮かぶ。最後まで、化かされた。

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