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◆意味付けする意味 ~読まれない文章は書く意味がないのか~

若い頃、少し流行った日記サイトをやっていた。
日々のあれこれを面白おかしく綴り、不特定多数の人に自分の日常を切り売りして反応を貰うことで、承認欲求を満たすためのサイトである。
その頃は、ネットのあちこちに乱立していた無料のフリートークチャットで知り合う友人も多く、そこでひと度何かが流行ると皆がこぞって同じことをやり出すもので、競うように日記サイトが作られた。

最初のうちは、良かった。
日々起こった出来事を、どうやって面白おかしく綴るかに頭を悩ませているうちは。
やがて、それはだんだんと『面白おかしい日記を書くために何らかの面白い出来事を作らなければならないプレッシャー』に変換されていった。
気づいた頃には、同時期にサイトを始めた友人たちも、ほとんど更新することがなくなっていたのだった。

ちなみにわたしは絵も嗜んでおり、描くからにはプロになりたいと灼けつくように思った時代を経て、結局プロにはなれないまま現在に至る。
別に絵を描くことをやめたわけではないが、結婚した今となっては描く時間そのものを捻出することがままならず、作品数は激減の一途だ。

ものづくりは、今も好きだ。
造るからには1人でも多くの人に見てもらいたい、とは、多分ずっと思ってきたことだったような気がする。
が、近年、少し創作活動をする意味合いが変わってきた。
そのことに、この間気がついた。
きっかけは、知人の
『何かを書いていて、もしそれが人に読まれなかったら、意味がないと思う?』
という質問だった。

わたしは即座に「思わない」と答えたが、若かりし頃なら「思う」と答えたような気がする。
現にSNSに自分のイラストや漫画をアップして、同時にアップした友達の方がより多くの『いいね』をもらったりした日には、大いにへこんだものだ。
それはつまり、前提として「より多くの人に見られて、良い評価をされたい」という想いがあるからだろう。
だから、あまりにも無反応な状態が続くと、居たたまれなくなって作品まるごと削除してしまう、ということもしばしばだった。
確かに、あの頃のわたしは「見られなければ、読まれなければ意味がない」と感じていたのだろうと思う。

それがいつの頃からか、見られないことや反応をもらえないことが、気にならなくなってきた。
歳を食って、単に精神的に図太くなってきたせいもあるのかも知れない。
が、一番大きな理由は、己の衝動や行動に深い意味を求めることをやめたから、な気がする。
これまで様々な局面で「意味」について考えてきた結果、「そもそも意味について頭を悩ませること自体に意味があんまりないのでは」と思うようになったのだ。

あれ?これはいつからだ?と考えてみたところ、ふと数年前にお寺の坊さんから聞いた説法のことを思い出した。
坊さんの説法を要約すると、以下のようなものである。

さて、生きることに意味はあるのかという問いですが、仏教的観点から見ると、この世の全てには最初から意味などない。もし最初から意味など持って生まれてきたら、それはどれほど酷なことだろうと思います。
だって、考えてごらんなさい。生まれた時から王様であるとか、生まれた時から何かをしなければならないとか、そんな人生はいかにも大変だと思いませんか?
しかし、この世のそれぞれの始まりと終わりには物語があり、そこに意味がついてくる、ということはあります。
だから、例えば一見無意味に見える犬猫の死にも、あなたが関わったことで意味がつき、価値が生まれるのではないでしょうか──

これは、別なマガジンで記している霊感関係の絡みで頼った天台宗の偉い坊さんが、集まった人たちから上がった質問に対して与えた返答だ。
わたしはいたく感心して、忘れないうちにと素早くスマホのメモに保存しておいたので、そのまま残っていた。
まぁ聞き取りなのでところどころは違うかも知れないが、概ねこのように受け取れる話であったと思って頂ければ幸いである。

さて、意味。
多分この話を聞いたくらいから、わたしは何となく気持ちが軽くなったような気がしている。
この世のだいたいのことには、ハナから意味などないのだ。
と、すると、逆に言えば全ての事柄にわたしは意味を与えることができるのではないか。
そう思うと、人に見られなければ意味がないと思っていた創作活動も、基本的には見られようが見られまいが最初から意味などないのだから、そんなことで一喜一憂することはいかにもバカバカしい。
そもそもわたしは最初、何かを作るのが楽しいから作り始めたのではなかったか。

このnoteも「今まで食べたどら焼きを忘れて、何度も同じどら焼きを食べそうだから」という理由で備忘録のために始めた。なので、誰に見られなくても意味はある。
心霊体験も、昔めちゃくちゃ怖い想いをしたのに、今は完全に何も感じなくなったからとは言え、なかったことになるのは何だか癪に障るので、備忘録と、あと誰か怖い話が好きな人が見たかったら見ればいいと思って始めた。これは見られたら何となくあの時の恐怖も成仏できるのでは、くらいの期待はあるが、仮に今見られなくても何年か後に誰かが見るかも知れんし。その時意味がつくんでもいいだろうと思う。
自分が推しているものの記事については、読まれたくて始めた。だから、読まれないと意味がない記事になるかも知れない。
なので、最大限読まれるための努力をする。結果読まれなかったとしても、なんか全力で書いたものは愛せる。そう、自己満足できる度合いが高い。
だからその時点で、意味は生まれているのだ。

ここでタイトルに戻る。
読まれない文章は、書く意味がないのか。
わたしにとっては。あるのだ。
しかし、ないと思う人にはやっぱりないだろう。
己の書いた文章に、始めに意味を与えるのは誰あろう己しかいない。

ていうか。
意味づけしなきゃならんのかなあ。
意味付けしなければ意味がないと思うのは、面白い日々を送らなければ面白い日記が書けない、と思っていた苦しいあの頃の日常に何となく似ている気がする。
自分の衝動や動機を自分以外に預けると、そのうち身動き取れなくなる日が来るような気がする。
それこそ自分の人生にとって意味のないことになるんじゃなかろうか。

と、さして意味もない駄文を書き散らしながら、本日は寝ようと思う。

それでは、おやすみなさい。


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