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ステラおばさんの社長さんの話、の謎


わたしは、彼らは文明を嫌いストイックな生活をしてると勝手に思い込んでいた。

けれど、彼らはとても心豊かに暮らしていた。

かれらの素朴な生が、なぜかわたしを癒す。。

あなたはもうじゅうぶんに働くことに疲れたと思うんですが、でも、すごく新鮮だということもまだまだこれからきっと起こるでしょう。

飾り気のないかれらの姿にあなたも一瞬で心奪われてしまうかもしれない。

ひょっとして、神と生きることは、ほんとはとても自由なことなのかもしれない。

な~んて、無信心者のわたしでさえつい思ってしまう。



1.『アーミッシュの贈り物』


ジョセフ・リー・ダンクルという人の書いた『アーミッシュの贈り物』という本があります。

迫害から逃れてアメリカに来たアーミッシュの今が書かれている。

この300年間、かれらはまったく質素な生活に徹し続けている。

スマホどころかテレビも自動車も、そもそも電気もない。

すべて自分たちが服やクワを作り、家畜を飼い、野菜を植え、静かに暮らしている。

どんな家具を使うのか、どんな料理を作るのか、そういう話がかれらの生活の風景であり、大家族が静かに自然とともに暮らしている。


著者は本の中で、ある雑誌に載っていたのですがと父親像を紹介した。

じぶんとぴったり一致していてわたしは思わず笑ってしまった。

4歳のとき・・・ぼくのお父さんはなんでもできるんだ
7歳のとき・・・ぼくのお父さんはぜーんぶ知っている
8歳のとき・・・ぼくのお父さんは何でも知っているわけではない
12歳のとき・・・当たり前。父さんなんかには分からないよ
14歳のとき・・・父さん?彼は絶望的にオールド・ファッション(旧態依然という意味です)

21歳のとき・・・彼はもしかしたら少しは知っているかもしれない
35歳のとき・・・われわれが決める前にオヤジさんの意見も聞いてみよう
60歳のとき・・・父さんだったらどう考えたんだろう
65歳のとき・・・もう一度、父さんと話し合えたらなあ

わたしも、振り返るとまったく同じ道を通っていたのです。

じぶんの子たちも、父であるわたしをやっぱり同じように扱ってる。

守破離というのはどこでも同じなんだなぁと思う。

最初は父という存在を受け入れ型を学ぶ。

ひとが親を離れ自立するには、反発なり不自由がないとならないでしょう。

そういう手順を経て型を壊し、自分の身体に合う型を探し始める。

その自立エネルギーが反発ということだと思う。


みんなのじんせいに守破離という鉄壁の法則が貫く。

とおちゃん、とうちゃんと慕ってくれた子たちの姿はもう遠い記憶の霧の中に消えています。

きっちり順を追いかれらも自立して行ったことは、それはめでたいことであり、ありがたいことです。

でも、かれらが去り何かの悲しみがわたしに残ってる。



2.古風な生活習慣を持つ人たち


『アーミッシュの贈り物』の著者は、クッキーで有名な「ステラおばさん」の社長さんでした。

ペンシルバニアのダッチカントリーと呼ばれる地域があります。

アーミッシュと呼ばれる信仰に基づいた古風な生活習慣を持つ人も多く暮らしている。

社長さんは、その人々の暮らしぶりを四季を追って紹介していて、宗教的な説明はほとんどない。


アーミッシュは大家族主義で兄弟は7、8人が平均のようです。

ひとつのコミュニティは深く互助的な関係で結ばれていて、たとえば、新しい家を建てるときには親戚・隣近所が集まって取り組む。

服装は極めて質素です。

子供は多少色のあるものを着ますが、成人は決められた色のものしか着ない。無地です。

虚飾は、虚栄心につながるので嫌います。

心が陥りがちな他者との比較は、神の前では邪悪なことでしょう。

洗濯物を見ればその家の住人がアーミッシュかどうかわかるという。


アーミッシュの日常生活では、近代以前の伝統的な技術しか使わない。

だから、自動車は運転しない。商用電源も使わない。

風車や水車によって蓄電池に充電した電気を利用する程度です。

移動手段は馬車によっている。

でも、ウィンカーをつけることが法規上義務付けられているので、充電した蓄電池を馬車に付けて利用している。

もちろん、かれらは現代文明を完全に否定しているわけではないんです。

自らのアイデンティティを喪失しないかどうかを慎重に検討したうえで、必要なものだけを導入する。

便利になるからといって、早く処理できるからといって、それで信仰心が増すわけではないですから。

働き、子を育てる喜びは、けっして文明の利器で増すわけではないと考えていた。


教育期間は8年間です。

学校教育はすべてコミュニティ内だけで行われ、教師はそのコミュニティで育った未婚女性が担当する。

教育期間が8年間だけなのはなぜかというと、それ以上の教育を受けると知識が先行してしまうのです。

そうなると謙虚さを失い、神への感謝を失い易い。

教育の内容は、ペンシルベニアドイツ語と英語と算数のみ。

やがて、アーミッシュの子供は、16歳になると一度親元を離れて俗世で暮らす期間に入ります。

アーミッシュの掟から完全に解放され、時間制限もない。

子どもたちはその間に酒・タバコ・ドラッグなどを含む多くの快楽を経験する。

そして、一年間アーミッシュのコミュニティから離れた後に、18歳成人になる際にアーミッシュのコミュニティに戻るか、アーミッシュと絶縁して俗世で暮らすかを選択する事が認められている。

ほとんどのアーミッシュの新成人は、そのままアーミッシュであり続けることを選択するそうです。



3.一番こころしていること


我が聖典、ウィキペディアによると、以下のような規則を破った場合、懺悔や奉仕活動の対象となるそうです。

改善が見られない場合には、アーミッシュを追放され家族から絶縁される。


・交通手段は馬車(バギー)を用いる(これはアーミッシュの唯一の交通手段で自動車の行き交う道をこれで走るために交通事故が多いそうです)
・怒ってはいけない
・喧嘩をしてはいけない
・読書をしてはいけない(聖書のみ許可されます)
・賛美歌以外の音楽は聴いてはいけない
・避雷針を立ててはいけない(雷は神の怒りであり、それを避けることは神への反抗と見なされる)
・義務教育以上の高等教育を受けてはいけない
・化粧をしてはいけない、派手な服を着てはいけない
・保険に加入してはいけない(予定説に反するから)
・離婚してはいけない

で、この中で難しいのは、避雷針を立てないことでも読書しないことでもないです。馬車だけ、、、結構じゃないですか。

難しいのは「怒ってはいけない」だと思う。

これはほんとに難しいでしょう。

他者に気づかれなくとも、神から隠すことが出来ない心の中の話ですから。


アーミッシュは、ふつうのアメリカ人たちとはまったく異なる存在です。

だから、かれらはよくからかわれる。

アメリカ人たちはわざとからかう。

でも、かれらは神にのみ従う者たちだから、凛としてやり過ごす。

それがどれほど深い”凛”なのかをあなたも想像できないと思う。


過去にある有名な乱射事件が起こったのです。

学校で自分たちの子どもたちが侵入者によって射殺されてしまう。

その際もアーミッシュたちは銃を乱射した当の青年の両親の元をすぐさま訪れ慰めた。

自分の子が非アーミッシュに惨殺されたというのに。

信じられます?

怒ることなく深い悲しみに沈み、そして同じく苦しむ加害者の家族の元に向かった。

加害者の家族へ。。。


先の掟に対して形式的にはあなたもわたしもいちいちひっかかると思う。

避雷針や保険はあったほうが良いだろうし、好きな歌を聞き本を読むことをいちいち神がチェックしてお怒りになるとも思えない。

絶対存在ですからね、神は。

そんなキ〇タマの小さいな存在じゃないはずだもの。

不自由な暮らしに身を置く修行僧のような堅苦しさを覚えると思う。

けど、本の中から浮かび上がるかれらは温かく自由です。

自然と暮らし、そのままに生き、そしてすっと死んで行く。

個を落とし、みなのために神に額づいて生きる。

その信心の分岐点が怒るかということにあるのだと思う。

怒るとは、自分を主体に置いた時に起こることだから。

つまり、主(イエス)が実は主でない時に。


ひとりはみんなのために、みんなはひとりのためにとコミュニティが作られています。

人は弱い生き物だから、義務感では信心は続きません。

この相互信頼が、神への明け渡しを担保しているでしょう。



4.なぜアメリカに渡ったのか


歴史的には、かれらは教会の権威に反対して弾圧されました。

自分と神との間に入り仲介する教会という存在は、本来不要物なのです。

アーミッシュたちははげしい弾圧を逃れスイスに逃げた。

最終的にはドイツのライン地方に生き延びるのですが、しかし、弾圧は続いた。

で、新大陸発見に乗じてアメリカに移民する。


イエスは、「神の王国はなんじの内にある」と言ったのです。

イエス自身は、いかなる権威も認めなかった。教会、作れなんて言ってない。

イエスの死後、その教えを世界宗教にしたのは弟子のパウロでした。

なんじらと神の間を仲介し、あなたたちを導きましょうと言った。

大方の民衆は自分を見つめること、自立し凛と生きることを恐怖する。

パウロの改変によって、自分たちは教会に従えば、ちゃんと神の国に行けるということになった。

こうして世界宗教となったキリスト教ではありましたが、イエスを見たこともないボウズたちは権勢を極めてゆく。

さからうものを異端尋問し魔女狩りに精を出した。

最近でも、各地である種の幼児虐待が明らかになってる。

アーミッシュはただ素朴に神と直接対話したかっただけなのです。

仲介物を介さずに。

ただ聖書に忠実に生きたかった。

でも、多くの仲間が殺されたので、今に至ってもかれらは世俗の権力を信じません。

自分たちの願いは、自分たちが命をかけて守るのです。

避雷針なくたって、保険に入れなくても、流行の歌が聞けなくても、ワールドカップのサッカー観れなくとも、構わない。

イエスと直接、対話したい。

キリスト教徒とひとくくりにはできなくて、

外の対象に意識が向きやすい人たちではなく、自分の内に向きやすい人たちが入信する宗派と言えるでしょう。


著者が本の中で、ある雑誌に載っていたのですがととつぜん父親像を紹介した理由が、わたしには分からない。

まったくアーミッシュとは関係ない話がすっと差し込まれた。

雑誌を引用した「ステラおばさん」の社長さんは、なぜ引用したんだろう?



5.おお、、パウロ


我が聖典、ウィキペディアから引用します。

正教会やカトリック教会はパウロを使徒と呼んで崇敬しますが、イエスの死後に信仰の道に入ってきたためイエスの直弟子ではない。

なので、「最後の晩餐」に連なった十二使徒の中には数えられていません。

パウロの職業はテント職人で、生まれつきのローマ市民権保持者(支配階級側)でした。

エルサレムで高名なラビであるガマリエル1世の孫のもとで学んでいる。

で、パウロは、そこでキリスト教徒たちと出会うんですね。

熱心なユダヤ教徒の立場ではなく、初めはキリスト教徒を迫害する側についていました。

彼はダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と天からの光とともにイエス・キリストの声を聞く。

そして、目が見えなくなった。

アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈ると、サウロの目から鱗のようなものが落ちて目が見えるようになった。

こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となったといいます。

この経験は「サウロの回心」といわれ、紀元34年頃のことなんだそうな。


その後、かつてさんざん迫害していた使徒たちに受け入れられるまで、彼はユダヤ人たちから何度も激しく拒絶され命を狙われます。

やがて小アジア、マケドニアなどローマ帝国領内へ赴き、会堂(シナゴーグ)を拠点にしながら弟子や協力者と共に布教活動を行います。

特に異邦人に伝道したことが重要で、3回の伝道旅行を行ったのち、エルサレムで捕縛され、裁判のためローマに送られる。

伝承によれば皇帝ネロのとき、紀元60年代後半にローマで殉教したとされている。(ローマはその当時、まだキリスト教を認めていませんでした)

この殉教で、彼の地位がぐぐぐーってあがる。


パウロにおいては自らの不完全さ、罪の意識が非常に強いことが指摘されていました。

イエスほどすっきりした人間ではありませんでした。

彼は心の欲する善を行うことができず、かえって心の欲せざる悪をなしてしまうことに悩んだのです。

そのため彼の思想では人間の無力さが強調される。

このような人間は自力では救われることがないんだから、神の恩寵によってしか救われるしかないんだと。

パウロは、イエスの死こそ神の自己犠牲であると考えたわけです。

この神の自己犠牲によって人間は罪から解放されるのであり、これを信じ、イエスの教えを実践することで新しい生を迎えることができるという主張をしてゆく。

ここから、神とあなたの間に仲介するという教会権威が発生する。



6.「神の王国」が去り


パウロの政治思想としては、受動的服従が知られています。

この時代のキリスト教徒には政治秩序への鋭い対立意識があったそうですが、

パウロや初期の教会指導者たちは政治権力への服従を繰り返し述べている。

パウロは、この世の権威は神に拠らないものはなく、したがってこれを受け入れなくてはならないとする。

パウロは政治的権威に対して負う義務と宗教的権威に対するそれを区別したんだけれども、

けれど、それは政治的忠誠心と宗教的忠誠心とを完全に分離したものであると主張したわけではないんですね。

彼は政治秩序を神の摂理の中に位置づけ、当時のキリスト教徒が政治秩序のキリスト教的理解に基づいて受け入れるようにと促した。

まあ、パウロは、教会と国家を分離し、国家に対するキリスト教の服従を説いたのですが、

従うべき対象として「皇帝」ではなく、神によって認められた「権威」を挙げる。

パウロはローマ帝国の支配を無条件に肯定し国家権力と神との仲介に成功する。(ローマ帝国がキリスト教を受け入れる)


こうして、「神の王国」はあなたの内から去り、羊たちは教会に従い、その教会は国家に吸収された。

キリスト教と呼ばれるものが世界宗教となってゆきます。

でも、アーミッシュは、最初は従っていた教会の権威を破った。

そして、もっとも資本主義の進んだ国家、アメリカ合衆国に行き、世俗から離れふたたび神との暮らしを打ち建てる。


父親像破壊が子供が成長する上での守破離のシンボルであるとすれば、宗教も守破離を経ないと自立できないものかもしれない。

それをアーミッシュが体現していると「ステラおばさん」の社長さんは言いたかったのかもしれない。

いや、それは読みすぎでしょう。

単にうっかり差しはさんだだけかもしれない。いや、そんなはずない。

このアーミッシュの話は、浮世離れした変わり者たちのものではなくて、

心の平穏はたとえば、こうして為されるのだと著者は言いたかったのかもしれません。

外に目を奪われ続けてもあなたは満たされない。

もちろん、生きるというのはイエスを信認すればすべて済むような話でもないのです。

仕事にすっかり疲れてしまったあなたは、あなた自身の「神の国」を見出しなさいといっているのかもしれない。


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