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サカナはあぶったイカでいい理由(3)


演歌が好きだったわけでも無いし、八代亜紀に思い入れがあったわけでも無い。

でも、ザ・昭和であった彼女が亡くなって、突然オマージュが書きたくなった。で、(1)と(2)を書いた。

でも、これって全然”理由”になってないじゃん!ってじぶんでも思う。

でも、追悼なんだからと、説明する気がそもそも無かった。

このイカでいいんだっ、と。

でも、根がまじめなのでちょっと書き足します。いえ、たいした話ではないのですほろほろ。



1.嫁の怒りを誘う所業


親切で優しいお嫁さんが「今夜のお酒のつまみ、何にします?」と聞き、あなたは「サカナはあぶったイカでいい」という。

そんな関係、昭和とともに遠くアンドロメダあたりへと消え去った。

そもそも、イカさんのお値段高騰してる。


令和だと、「何言うとんねんっ!あんたっ!」とドツかれ、シバカレルに違いない。

「あっ、すみません。あのぉアジの干物なんかございますでしょうか」と、あなたは低い角度の目線でお伺いを立ててみる。

「そんなん、あるわけないやろ!」とまた言われたら、

「スルメなんか2,3本ありましたっけ?」とか粘ってみる。

「くどいっ!そんなの無いの分かってるやろっ!」と罵声を浴びせられ、ついに土俵を割る・・みたいな。

(すみませんっ。まだ不慣れな関西弁なものですから、いっそう関西の女性の品位を落としてしまいそうですねん)


あの歌はきっと、男のプライドを謡った。

それが細く深い流れとなって、この令和にも流れ込んでいるでしょう。



2.「ダンチョネ」ってありますがあれは何ですか?


昨日、91歳のお義母さんのボケ防止にと、カラオケ誘って『舟歌』を歌って来た。

普段はこんこんと寝たがるんだけれど、カラオケとなると2時間でも平気で歌う。

お義母さんは、演歌大好きなので、オメメ、パッチリになる。

で、かのじょが言ったんですよね。「ダンチョネ」ってなんだろ?って。


なんだろ?と先ほど、調べてみた。

だんちょね節(神奈川県民謡)からとって(引用して)いるんだそうです。

♪三浦三崎で どんと打つ波は…

大正から昭和にかけて一世を風靡した唄だそうで、だんちょねとは断腸のことだった。

それは、”断腸の思い”で船人との別れを惜しんだ内容の歌詞だった。


お酒はぬるめの燗が良い、肴はあぶったイカでいい。

女は無口なひとがいい。灯りなんかうっすら灯ってりゃ、いい。

と、言っている男は、ミニマリストなんです。

オレはね、飾らぬ最低のモノでいいよと言ってる。


海の男が、命がけの漁に出ました。

こんな風の強く吹く寒い冬場だったでしょうか。

その男が無事家に帰って来たとき、サラリーマンとは全然違う。

電車で喧嘩が起こったとか、上司が理不尽でもうこころ折れます、なんていう話にはならない。

ほら、命掛けてきてやっと帰還できてただけで、もう十分なんだもの。

戦い終わり日が暮れて、その時、男はもう些細なことしか望まない。

生きて帰れただけで、儲けもの。


あんなお高いイカ!

いいえ、ザ・昭和は山のようにイカが取れた。サンマと同じように、イカもほんとに安く大量に出回った。

だから、イカでもあぶってくれないかと男は嫁さんに頼んだ。



3.しみじみ飲む


そうやってしみじみ飲んでいると、思い出が湧き出て来てポロリ涙まで零れてくる時がある。

そんなポロリが自分の背中を押したら、口がふと舟唄を謡い出している。。


八代亜紀の舟唄では、歌と歌の間にダンチョネの唄が挿入されている。

たった1度だけ間に差し挟まれ、まったく違うメロディが叫ばれる。


漁をしているといつもヤツラはお気軽に網の上に群れて来て横取りしてる。

まあぁ、それはお天道様が東から昇ると同じように仕方無いことなんだけどね。

沖のカモメもオレの数少ない友だちのひとりだな。

でもな、それでもやっぱり仲間が死んでね、オレは寂しいんだよ。

だから、沖のカモメに無理やり弔いに付き合わせるのさ。

でね、深酒させてね、おいコラっ! お前もっと飲めとからむんだよ。

そうしてね、この地上で唯一オレと繋がってるもう1つの存在がいてね、

あの愛おしいあの娘としっぽり朝まで寝るんだ。


俺たち漁師はね、陸地の人とはついぞ繋がれないんだよ。

オレたちは、普通じゃないんだ。生まれた後にスペクトラムに無理やり挿入されるんだ。

もう陸にあがって器用には生きれない。

死ぬまでそうやって海で生きないといけない。

どんなに人間の仲間に入りたくても、入れないんだよ。


仲間が海の藻屑と消えたんだ。ダンチョネ、なんだよ・・オレ。

おもえば思う程辛いよ。

そうして夜が更けていよいよ寂しくなったら、やっぱりオレはあの唄を歌い出してしまうんだ。


舟唄の最後の部分を、お義母さんと昨日歌っていた。

最後のあたりは、歌詞が無くてルルル・・・が結構長く続く。

なんだか、この最後、ルルルばかりで歌いにくい。

ああ、でも、こうやってこの物語を読み返してみると、そこに言葉がもう入れなかったことが納得できる。

とことん、孤独にぽつり落とされた者に言葉は無くなる。

寂しくてさびしくて、切なくてやるせない。逝ってしまった仲間が無念で仕方ない。。

『舟唄』には、わたしたち男族が失ってしまった郷愁とプライドとが描かれていた。



4.プライド


令和は思考がクルクルと回り、優しく器用な”にんげんたち”ばかりと成った。器用で無い者は、脱落者。

情報こそが大切だとなった。

お値段が高いか安いかだけとなった。

実は、昭和でもそうだった。

演歌を愛する男たちは、自分たちが既に義理人情を失っていたから、ノスタルジーで懐かしがっていただけだった。

で、演歌大嫌いなわたしはと言えば、西洋合理主義を信奉する人間機械だった。


1かゼロか。

そういう二元論的な、直線的な世界観は、しかし、八代亜紀に歌われると答えになってはいないことに気付く。

合理主義も精神主義も、科学万能もスピリチュアルもリアルの多面性のそれぞれ一部をデフォルメしただけのものだった。

わたしは、なぜ生きているのかと問うてしまう。

いいや、わたしたちは精一杯生きることだけを期待されている存在で、それを拒否するなんて権利は無かったのです。

傲慢に思い上がってもいいけれど、それは自然の摂理に反して苦しむだけ。

『舟唄』は、日々の喜怒哀楽を感じれるだけで丸儲けなんだと言っている。

だから、サカナはあぶっただけのイカでいいのだと。

命が消える日まで、そう生きる覚悟と勇気と孤独とを丸抱えせよと。

そこは、頼ろうにも、誰も代わってはくれないのだから。



思考を落とし、胸が感ずることを掲げて生きたあなたの言葉を、わたしは何度でも掲げたかった。

生きる心意気を、プライドを、密かに胸にしまっていたあなただった。

ご冥福を祈ります。


「代弁者だという自覚や覚悟があるからここまで歌ってこられた。

自分のことや自分のエゴを歌おうとしたら多分ここまで歌ってこられなかったでしょうね。」

  (八代亜紀)

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