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私、いる?


最初にお断りしたい。

たぶん、わたしはあなたより長く生きた人です。

けど、教え諭すような話ではございません。

そんなふうに言えたら良かったんですがほろほろ。



あなたが、「私、いる?」と書いた。

わたしも、まったくあなたと同じように思ってヘコム時がある。

こうして読んでくださる方がいて、好評を博すと次がものすごく書きにくくなる。

評判の記事となると、どんどんハードルがあがる。

もちろん、フォローいただいている方の期待に応えてあげたい、けど。。

ああ、、とうていみんなの期待には応えられそうにありませんほろほろ、みたいな感じに。

必要とされて嬉しい気持ちと、底の浅さにがっかりされることを怖いと思う気持ちがわたしにもある。

記事を公開するたび、誰かに拒絶されるかもしれないという恐怖も顔をのぞかせる。


ある日、あなたはふと気が付くのです。

あっ、そういえば、最近めっきりあの人の記事を見かけないな。

どうしているのかな。。

と確認しようとする。あれ?登録が削除されている。

残念だ。切ないな。けど、仕方ないな。


辛いのは、こんな記事を書いても書かなくとも、世界は何も変わらないということです。

わたしがいても、いなくとも、何も変わらないでしょう。

いままでお付き合いし、それなりに楽しかったけれど。


もう10年以上わたしは書き続けています。

が、わたしもそういうこころのユレからは逃れられてはいない。

最近Upした記事「ほろほろと歩いてる」は、わたしには珍しく好評で嬉しかったです。

声もいくつか頂けて有難かった。

で、プレッシャーがかかった。

そんなに喜んでくださったのなら、もっと書きたいと思う。

期待に応えたいと思えば思う程、つまらないことしか書けない。

ああ、、ダメだダメだダメだ!!!


じゃあ、フォロワー1万人の実力になれば、安心なんだろうか?

直木賞、本屋大賞を取って、ここでへろへろ日常を書くのなら、余裕なんだろうか?

いいや、多くの作家が自殺して行ったことを考えてしまう。

自他が自分に寄せる期待という重圧が有名に成るほどせり上がるでしょう。

そして、じつは自分が存在しなくとも誰も困らないという事実にプロも悩むんじゃないか。

いったい、わたしたちはどこに基盤を持てばいいんでしょう?



以前お薦めした作家のくどうれいんさんが、『日記の練習』の3月版をあげてきました。

https://nhkbook-hiraku.com/n/n94bd1678188c

多感な人で、恥も外聞も無く、日々を書いている。

これを読むとわたしの元気が出る。

まったく、つまらない、どうでもいいようなことしか書いていないんです。

彼女は、3月も出版プレッシャーに押しつぶされている。

でも、わたしは、泣いた、苦しんだという彼女の正直さに救われる。

一部、勝手に抜粋します(れいんさん、ごめん)


「3月9日

だからと言ってうまく書けるものでもなく、しかし書かなければうまくもならない。

書きながらこうじゃないなあこうじゃないなあ~となって47枚書き、出し、

でもぜんぜんダメだと思うと大泣きし、

なんとか泣き止むといそいでワンピースを着てホテルでフレンチを食べた。」


3月11日

おろおろしていたら一日が終わりそうになり、なんとか立ち上がって夜まで原稿を書いた。


3月17日

「来週地球が終わるなら作家辞めますか、仕事辞めますかって言われてわたし仕事辞めるって言ったんですよ」

「え、わたしなら両方辞めます、地球終わるんでしょ」「……たしかに!」


3月18日夜

もうだめだ。なにがってぜんぶが。

逆にこれはもう鯛めしなのかもしれん、とモリユに貰っていた鯛めしの素でごはんを炊こうとしてスイッチを入れた数分後、

「入稿しました」との知らせ。一気にからだの力が抜ける。

大事にしまっておいた、みさきに貰った白ワインをあけて「入稿したあとのワインがいっちばんうまい!」と言って、ちょっと泣けた。


3月22日

きょうはモリユがいないのでひとりで仕事をはじめる必要があった。

いつもモリユと朝から夕方まで通話を繋いでいるから気が付かずにいることができたが、

4月に本が二冊出るということへの喜びと共にプレッシャーがひたひたと胸を掴んでいる。

新しい作品や新しい本が出るときはいつもこうだ。

もう印刷所で大暴れする以外、世に出ることを止められないときによくこうなる。

漠然とした不安と緊張。コーヒー飲んでもそわそわするので久々にフリースペースへ。

久々なせいかフリーWi-Fiが繋がらない。

〔接続済み。インターネットなし。〕じゃあ何が接続されているのだ……。


3月23日

「だってれいんさんいつも3月が鬼門じゃないですか、去年わたしが花を渡したのも3月ですよ」と言って、あゆさんはまた花束をくれた。

げんき出た、と御礼のLINEをするとお子さんふたりが廊下に手と足を突っ張って壁を登っている写真が送られてきた。

小学生ってどうして細い廊下があると壁をよじ登ろうとするんだろう。


3月31日

ぼんやりと頭痛と寒気。

面倒な書類を夫に手伝ってもらって完成させ、昼には納豆パスタを作ってもらって食べ、

3キロ走り、シャワーを浴びて買い物へ行った。

平日だって毎日いろんなことをやり遂げているはずなのに、休日のほうが「やってやったぞ!」感がある。

夜はお土産で貰った横手焼きそばを食べた。

わたしはたまにこのくらい完璧な目玉焼きを作ることが出来る。



これは、彼女という個性が書いているので、そのスタイルはまねできないし、また、わたしはマネる気もありません。

でも、プレッシャーをしっかり掌に載せてみている、その勇気を感じるのです。

最近Upした記事「ほろほろと歩いてる」は、わたしには珍しく、誰も読まないだろうっと思ってスラスラと書いた。

だから、記事をUpした時、誰かに拒絶されるかもしれないという恐怖は考えつきもしなかった。

好評で嬉しかったとわたしは先に言いましたが、意外感もあった。

ええ-っ!、、、こんなんでいいんですか?ほろほろ。

だって、かのじょと桜の道をただ歩いてるだけの話なんです。

とりとめのないやり取りなんです。たったそれだけなんです。

いや、それは、かのじょに「ありがとう」という気持ちで書いた。

そうは文字で書いてはいませんが。

いつもより、短くて、もちろん、ただの描写なので、ウンチクも何も無い。

わたしからすると、何にも有難くも無いし、霊験あらたかでもない記事。


で、なぜ、れいんさんを引用したか、なんですが、

ある意味で、わたしもれいんさんと同じように、わたしの素、あるいは真心、あるいは感謝を置いた。

飾りも何もほとんどない。

読んでいただくにはと、構成を直したことも、推敲したことも、記憶には無い。

普段とは違って、何をどう書こうかという意識もなくて、そのまま書いた。

読まれるようにという構えは脱落していたから、逆にみんなは抵抗なく読んでくれたのかもしれない。

なぜ、これを再現できないかというと、

わたしはれいんさんのようにはスッポンポンにはなれないのです。

せっかく読んでもらうんだからと、がんばってしまう。

がんばると、わたしそのものは陰に隠れてしまう。

きっと、わたしがれいんさんを読むのは、曝け出してゆく武士のような、ラガーマンのような、女魂を感じるから。


もちろん、素をさらすほど、傷つくことも増える。

でも、自分が傷つくことよりも、たった一部の人とではあるけれど、こころでれいんさんは繋がりたいのでしょう。

だから、わざわざ素をさらす。

そうしたら、読み手もこころ開いて感受性上げて読む。

文章は、双方向性のダイナミクスを持つ。


ある方は、わたしの記事「ほろほろと歩いてる」を読んでいたら涙がこぼれてしまっと言ってられました。

明らかに、わたしという素材を元に、その人が情景をクリエイトされたのです。

書き手が提供した素材に、読み手が物語を付加して行ったでしょう。


れいんさんは、わたしよりうんと若い女性です。

でも、かのじょは、苦しむのだけれど、自分のこころを解放させ、のびのびと表現したがっている。

創造する喜びに身を捧げているともいえます。

こころ自由に遊ばせたいと、切に願っているでしょう。

それは、ぜんぜんしんどいことではありますが。

わたしが怖がる時、わたしは創造からもっとも遠い所で、安心したがる。

わたしは防衛しようとしているのだと思う。



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