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劣ったあなたが歌う歌 ― お前の喜びの涙で大地を濡らし


かのじょは、たいがいのことは多めに見る。

かのじょは、自分はこの世界の主人公ではなく、隅っこが定位置だと思っている。

ただし、自分のことを書かれるのは、嫌がる。

今日も書いたんだーと、わたしはわざと言ってみる。

ええ”-、また書いてるんだぁ、、と困った顔する。

わたしに描写されたものは、自分自身と微妙に違うという。

違和感があってどうにも困るんだそうだ。


いやいや、本は出版されたら最後、作家の想いから離れるのです。

読者毎に評価が異なってしまうことによく似ているんですよ。

わたしは、あなたという本を読んで来た。読むと誓った。

ああ、、あなたを書かないなんて、わたしには無理なんだっ。

ねっ、これはただの読書感想文なんだよほろほろ。



1.やきもち焼いちゃったの


もう数年前の出来事です。

かのじょが働いていた知的障害者のための作業所で、おばあさんが狂うという季節でした。

おばあさんは、かのじょが他の作業者と話すのが嫌だった。

おばあさんは、しまいには「みやこなんか、死んでしまえーっ」と大騒ぎをした。

年とっても、子どものままだった。

家には弟も妹も一緒に住んでいて、そこからおばあさんは作業所に通って来ました。

兄弟にも発達障害があるけれども姉ほどではなく、家では脳タリンな姉を彼らは叱り、そしてぶった。

ホームに入れてしまうと、年金が自分たちに回って来なくなる。

姉を家に住まわせたままにし、障害者年金をいただいた。

家が辛いのかなぁ、、とかのじょは言った。


「みやこなんか、死んでしまえーっ」。

かのじょは、そばに寄りおばあさんをなだめました。

「辛いのね」と聞くと、「うん、辛い」という。

そのうち、おばあさんは父と母のことを話し出す。

「おとうさんはガンで死んじゃったの」

「そう。。辛かったわね。。」

「うん。辛かった。お母さんは首をつって自殺しちゃったの。。」

「そうかぁ。。。辛かったわねぇ。。」

「うん。辛かった。。」

何度もなんども、おばあさんは父と母のことをかのじょに話した。

おばあさんは、だんだんと落ち着いてゆき、かのじょに言う。

「わたし、やきもち焼いちゃったの。」

「そう。やきもち焼いたのね。」

「うん。やきもち焼いちゃったの。。」

「そうかぁ。。」

しおらしくなる。。。

が、翌日になるとまた、「みやこなんか、死んでしまえーっ」が再開された。


知的障害者は、家から作業所に、あるいはホームから作業所に通って来た。

親は先に死ぬので、早く子をホームに入れ慣れさせたい。

けれど、子を手放すのが辛いという親が多い。

外で我が子がじっと耐えてると思うと辛いのです。子も、家がいい。

おばあさんの場合のように、ホームにかかる費用がもったいない親や家族もいる。

でも、家はおばあさんの居場所ではなかった。

おばあさんは、かのじょを慕った。

唯一、当たることが出来る相手だったのです。

かのじょは、切ないわぁ~とわたしに言った。



2.逃走するっ


その施設には、ある男子もいました。

かれは停年した父と家に住んでいて、そこから作業所に通った。

おとうさんは息子をホームに早く入れたかった。

ホームなら障害者年金で一生面倒みてもらえるのです。

早く息子をどこかのホームに入れて慣れさせなくては、と父は焦る。


親と作業所の間で連絡につかうノートに、

「今度の○曜日にホームの見学に来てください」と書いてある。

男子は、父に見られないようにノートのそこだけびりびりと破った。

そうかぁ、ちゃんと読めるんだね。


それでも見学の日程がやがて、決まってしまう。

そうすると、当日、男子はかならず逃走した。断固、逃げたのです。

かなり先にある、以前お世話になった養護学校まで決まって遁走した。

養護学校の先生から、また来てますよーという連絡が入る。

作業所の職員はくるまで彼を確保に行く。


彼は、どこのホームにもなじめないのでした。

今まで通り、父と家に住んでいたいのです。

彼は回らない頭で必死に考え、そうして断固、拒否してきた。

何度も何度もホームを”見学”させられて、なんどもなんども逃げたのです。

かのじょは、嫌だ-ってうまく表現できずに遁走する姿が切ないの、、という。


「めぐまれない者がなぜしあわせに暮らしてはならないのかしら」とかのじょは問う。

わたしは、答えようも無い。

「切ないなぁ~」とかのじょは言う。

やっぱり、わたしは答えようも無い。

この世界は、別名、涙の谷と呼ばれている。

それは、悲しくてみんなが隠れて泣き続けるから。どんどんどんどん、谷が涙で溜まって行く。



3.かのじょという悲しみ


わたしは、お嫁さんに非難や批判されたことが一度もないという珍しい男です。

もちろん、かのじょに怒りが起こらないわけではない。

「よく優しい人ねと言われるけど、わたし優しいんじゃないの」と、かのじょはいう。


自身、体に傷を持ち脳に偏りを持つ者として、かのじょは他者を傷つけることを絶対にしません。

他者を傷つけることは、たとえ相手がどんなに理不尽でもどうしても嫌だという。

小学の頃、自分をひどく傷つけた男子が、その後、クラスでいじめられるということがあった。

それを見ていたかのじょは、自分の胸がキリキリと猛烈にえぐられ、激痛が走ったという。

わたしなら、「やぁーい、いい気味だ、天罰だっ!」というに違いない場面なのに。


わたしは、かのじょが誰かを軽蔑したり、批判したりする姿を一度も見たことがない。

かのじょは、いつも笑ってばかりいる。

隅っこで、ただ朗らかでいれることだけを願う。

辛ければ、笑えることを探すか、歌を歌ってる。


かのじょは、一見、劣っている者にみえるかもしれません。

かなり、トロくて、のんきそう。気が回らない。

手先が不器用だし、かなり無理しないと字は読めない。

工程を組むのがへた。引き算も指が足りないってよくいってる。

わたしたちの子たちも、温和なかのじょをナメ切っていました。


人は、かのじょの聡明さ、繊細さ、誠実さを見たがらない。

人は、他者を傷つけようとしない者の存在を信じない。代わりに傷つけたがる。

社会は、仕事が出来るか出来ないかで人を分けて来る。

かのじょにとって、ここはどうしようもなく理不尽で切ない所だったのです。

”劣った者”とは、かのじょ自身でした。

作業所には、重い仲間たちが集まって来たのです。



4.嫌われる勇気の意味


酷い者が現れるたびに、かのじょは「どうしてかしら?」とわたしに聞くのです。

怒りに任せ時に加害者側になるわたしとしては、返事がとてもしにくい。

「そうだよね、辛いよね」とか、とんちんかんな返事しかできない。


嫌われる勇気とは、嫌われたっていいじゃん、というのとは違います。

いくらひどい相手でも、それはその人の選択なのです。その結果は、本人が負えばいい事項です。

自分自身はこう在りたいという願いがかのじょにもあるのです。

相手が理不尽に責めてきたら、先ずはかわす。

そして、相手の選択によらず、かのじょは自分の在り方を死守する。

どんなことがあっても、そこは1ミリも譲れない。

怒ったり恐れたりして相手に同化するのは最悪です。キリリ、かわす。もしくは逃げる。


意外にも、自分の考えをとことん尊重したいなら、相手のそれも尊重せざるを得ない。だから、かのじょは、自他尊重を貫きます。

許すのとは違います。

かのじょは、「わたし優しいんじゃないの」という。


もちろん、かのじょだって相手は変えれない。

でも、かのじょは自他を掌に載せて考え続けるのです。

怒るわたしや酷い他者がなぜそういう言動をしたのか。

なぜ、自分は怒りや悲しみを持ってしまうのか。

感情を横に置いて見つめて行く。

原因と残されている選択肢を見極める。

何日も、何週間も、あるいは何年も考えています。


ずいぶん経ってから、「あの時、あなたはひどく怒ったけど、あれは?」と確認しに来る。

加害者はふいを突かれ、へろへろと白状してしまう。

いや、あの日は会社でばかにされて、むしゃくしゃしてて、つい・・とかとか。

わたしは、お嫁さんに聞かれて謝らなかったことが一度もないという珍しい男でもあります。


辛さを、自分の掌に載せて見つめ続ける。

それは、ほとんどの人には出来ない。少なくとも、わたしには出来ない。

相手のせいや、生まれのせいにする方がうんと楽ですから。

感情を外して真っすぐ見つめるには、勇気と誠実さが要る。

自他をとことん客観視して行くと、「自分が救われる」とかのじょは言います。

じゃあ、わたしはこう生きるわと、腹がくくれるのです。


知性も必要です。

自分が劣っているというのは、”事実”でしかない。

だから、劣っている者=ダメな者、ではないとかのじょは言います。

事実と解釈を混ぜてはならないと思うの。

もし、混ぜてしまったなら、劣ったわたしはもうこの世に居てはいけないことに成るわ。

障害者のみんなも、この世に居てはならなくなってしまうの。そこだけは、譲れないの。

出来ないのなら、バカにされるのなら、では、自分には何が出来るかを考えるの。


いざとなったら、嫌われる勇気がある人でしょう。

いいや、勇気を持てるまで誤魔化さずにずーっと考えるのです。


わたし、トロイの。すぐに考えられないの。時間がかかるわ。

自他に誠実であろうと努める。決まれば、結論に従って会社も去るし、離婚もする。

でも、暇があれば、面白いことを探し、寂しい時はふんふんと歌っています。

そうやって、重くなりがちな自分を励ますのでしょう。



5.好んで大地にひれ伏し


恵まれた者たちは、いつも、より恵まれた他者と比較しへこむ。

負けたらいけないのです。競うのが忙しい者は、だから、歌わない。

いっぽう、大半の知的障害者は働けないまま生涯を閉じます。

社会な存在価値は無く、お目こぼしで生きる。

この谷で誇れる事は1つも無い。でも、他者比較をしないので、喜怒哀楽を素直に歌う。


 好んで大地にひれ伏し、土に接吻するがよい。

 大地を接吻し、倦まず飽くことなく愛するがよい。

すべての人を愛するがよい。

 すべてのものを愛するがよい。

 歓喜とこの熱狂をもとめるがよい。

お前の喜びの涙で大地を濡らし、このお前の涙を愛するがよい。

  (カラマーゾフの兄弟/ドストエフスキー)


ドストエフスキーの言う通りでしょう。

愛とは、切なさです。ちゃんとひれ伏し、繋がるための涙を流せという。

そしたら、おまえは満ちるだろうと。しあわせとは、満ちることだ。


いいえ、かのじょは、五体満足なカラマーゾフの兄弟に賛同なぞしないのです。

そのままに居たいだけなのです。こころのびのびと過ごすことだけを願ってるのです。

たったそれだけなのに、なぜ許されないのかしら。

わたし、この谷に来た時からずっと大地にひれ伏し土に接吻して来たわ。

でも、なぜ泣き続けないとならないの?


いや、この涙で大地を濡らし、この涙で愛するしかないのです。

つくづく無力だと観念したくなるでしょうが、

あなたは仲間に向かうまっすぐな目を持っている。

それは、かれらの喜びなのです。

そうして、やっとかれらは大地に泣けるのです。


何を言っても、かのじょはちっとも納得しなかった。

しばらくしたら、かのじょはまた、テーブルを離れふんふんと歌い始めた。

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