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1992年、僕が『ウゴウゴルーガ』の放送作家としてデビューするまでの嘘のようなホントの話。

30年前の今日1992年10月5日に僕は放送作家としてデビューした。初めて担当した番組はフジテレビの『ウゴウゴルーガ』。当時のラテ欄には『ルーガ』とだけ記されている。これだけでは一体どんな番組なのかわからない。しかし観ても余計わからなくなる(脳がバグる)。そんな「変な」番組だった。だからなのか、放送後30年経った今でも熱狂的なファンを持ち、SNSで語り継がれている。


どうして番組に携わることになったのか?そもそもどういうきっかけで放送作家になったのか?質問に対して答える度に、「あなたが作った作品よりもその話の方が面白い」と言われる。物語を作ることを生業にしている者からすれば少し複雑な気分だ。


1,放送作家ほど楽しくて儲かる商売はない?

僕は大学を卒業した後も就職せずしばらくフリーターをしていた。会社勤めがしたくないから気楽にフリーターをしていたわけではなく、在学中に抱えた借金返済のため(借金の内容については重くなるので省略)ずるずるとバイト三昧の日々を送っていた。


当時はとにかくお金がなかった。だから本が読みたければ図書館で借りるのが当たり前。その頃、夜は毎晩ビル警備のアルバイトをしていたので、巡回時間以外は守衛室で本を読んで過ごしていた。ちなみに僕が担当していたビルには某カツラメーカーのオフィスがあり、頭部だけのマネキンがずらりと並んでいた。だから深夜の見回りは異常な緊張感が味わえ、時給も他より500円高かった。


そんなある日。いつもの図書館で僕は『放送作家になるためには』(正式タイトルや著者は失念)というお仕事ハウツー本を見つけて手に取った。別に放送作家になりたいわけではなく、たまたま数日前に観た『タモリ倶楽部』の中で、番組担当の放送作家さんが出演していたことが頭の隅に残っていたから興味本位で借りてみた。そしていつものようにバイト先の守衛室で読んだ。


その本には放送作家の仕事がいかに華やかで、楽しくて、お金が儲かる商売なのかが書かれていた(バブル全盛の頃の本だから仕方がない)。例えば、「クイズの問題探しのためにヨーロッパ4カ国を旅行できる」「打ち合わせは銀座の高級クラブ、会議は六本木の高級クラブ」、「売れっ子になるとマンションや競走馬のオーナーにもなれる」などなど。クイズの問題を探すためになんでわざわざ海外に行く必要があるのか?会議室ではなくなぜ高級クラブを使うのか?全く意味がわからなかった。でもなんか凄いことだけは伝わった。


さらに衝撃だったのが、「売れっ子放送作家になるとレギュラーは5〜7本は当たり前。ゴールデン1本のギャラは平均25万円」「書く力は必要なし。面白いことを考えられる人が向いている」…えっ、作家という商売なのに書く力は必要ないの!?


本を読み終えた僕は、こんな夢のような仕事があるなら今すぐにでもやりたいと思った。しかしこのお仕事本には肝心のハウツー(どうしたらなれるか)については殆どページが割かれてなかった。載っていたのは、「制作会社のADになって番組会議に出席しながらネタを出し続けて認められる日を待つ」、「有名な放送作家に弟子入りする」「ハガキ職人になって番組の座付作家を目指す」の3つ。どれも一人前になれるまでには平均3〜5年くらいはかかるとあった。


今すぐにでも放送作家になって借金を返済したい。でも根気がないから3〜5年なんて我慢できそうにない。もうちょっと早くなれる方法はないものか?僕はもう一度本を隅々まで読み返した。するとこんな一文を発見した。「ごく稀にだが自分で企画を売り込んで業界入りした人もいるらしい」。

これだ!「ごく稀」をやってみよう!3〜5年も我慢はできないけど、半年くらいなら努力は出来る。とりあえずこれから半年間、自分で企画を考えてテレビ局に売り込んで放送作家になる努力をしてみようと決めた。


2,小学生時代の“ある競走”が役に立つ

自分で企画を売り込むことは決めたものの、番組の企画書って一体どう書けばいいんだろうか?今ならネットで調べればすぐにお手本が出て来て解決。しかし当時はそんな便利なものはなく自己流でやるしかなかった。とりあえずレポート用紙に「こんな番組を作ったら面白い」と、ひたすら思いついたアイデアを書き綴った。(※当時はパソコンがまだ普及してなかったので手書きが当たり前だった。それに手書きの方が熱意が伝わると思って)

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どうにか企画書(らしきもの)は完成した。いよいよテレビ局に売り込みに行くことに。でもどこの局の、誰に持っていけばいいんだろうか?企画書を送りたい相手が見つかってもどうやってその人とコンタクトを取ればいいのか?これも今ならSNSで相手を探したり、繋がることが出来る。しかし当時は繋がる手段は「電話」か「手紙」の二択のみ。手紙に比べて電話は手っ取り早いけど、見知らぬ人間が電話しても相手にしてもらえるはずがない。ということで、まず手紙を書いて企画書を送ることにした。


送る方法が決まったら、もう一度誰に送るかについて考えてみた。当時は家にいる時はずっとテレビを観ていたのでお気に入りの番組は沢山あった。何も迷うことなくお気に入りの番組を担当しているプロデューサーや演出に送ればよかったが、殆どがゴールデンタイムに放送しているものばかり。果たしてそんな時間帯の番組を担当している人が見知らぬ人間から送られてきた企画書に目を通すだろうか?そう考えると途端に気後れしてやる気が萎えてしまう。そんな時、小学生時代に流行った“ある競走”を思い出した。


小学5年生の時、クラスで『少年ジャンプ』の漫画家にファンレターを出すことがブームになった。要するに誰がサイン入りの返事をもらえるかを競い合ったのだ。みんな自分の大好きな漫画家にファンレターを送った。僕も最初はそうだった。しかし、返事を貰えた者はいなかった。なぜなら人気漫画家には全国から沢山のファンレターが届くし、それにジャンプは週刊なので毎日連載締め切りに追われて手紙を読んだり返事を書いたりする時間なんてない。それに気づいた僕は大好きな人気漫画家にファンレターを出すのをやめて、ジャンプの一番後ろに掲載されている漫画家や、読み切りの新人漫画家にファンレターを出すことにした。ただ、感想を書いた手紙を出すだけでなく、近所の神社で買った100円の御守りも同封して送った。


結果クラスで僕だけがプロの漫画家のサイン入りの返事を貰うことが出来た(小学校時代唯一注目された出来事)。この時、小学5年生の僕が学んだことは、「日の当たる場所にいる人よりも日の当たらない場所にいる人に声をかけた方が振り向いてくれる可能性が高い」ということ。だから、ゴールデンタイムの人気番組を担当しているプロデューサーや演出ではなく、深夜の誰も観てないような時間でも面白い番組を作っている人にコンタクトを取ることに決めた。


3,テレビ業界は甘くなかった

1992年は世の中的なバブルは終わっていたけれどテレビ業界はまだ景気がよかった。だから深夜でも意欲的な番組は沢山作られていた。

最初に企画書を送ったのは確かTBSだったと思う。企画書は一回送っただけで返事がもらえるとは思ってなかったので、毎週月曜に企画書を送る。これを4週(1ヶ月)続けてみることにした。なぜ4週続けたかと言うと、1ヶ月間毎週のように水曜日になると必ず企画アイデアが送られてくると、さすがに名前と用件(放送作家になりたい)は伝わるはずと思ったから。


1ヶ月間これを続けた後にようやく電話をかけた。緊張して10円玉を持つ手も、声も震えた。それを憐れだと思っていただけたのか、番組プロデューサーの方が会ってくれることになった。やった!……でも会って真っ先に言われたのは、「放送作家になりたかったら制作会社に入るか、誰か有名な先生の弟子になったらいいよ」…そう、あの本に書いてあるそのままだった。


気を取り直して今度は日テレに企画書を送った。また同じように毎週月曜に企画書を送るのを1ヶ月間続けてみた。そして何度か電話してようやく番組担当のプロデューサーに会ってもらえた。今度こそと気合いを入れて会いに行ったが、「うちに来るより●●先生(著名な放送作家)の事務所に行った方がいいよ」……またあの本と同じことを言われた。

次にテレ朝に企画書を送ったが、結果はほぼ同じだった。


そうこうしているうちに半年はあっという間に過ぎてしまった。TBS、日テレ、テレ朝の3つの局に企画を売り込む営業をかけたものの、キャリアも何もない若造に「放送作家として採用しましょう」と言ってくれる程、世の中(テレビ業界)は甘くなかった。


残るはフジテレビ、テレビ東京、NHK。テレ東は今なら真っ先に売り込みに行ったと思う。けど、30年前は深夜帯に若者向け番組は殆どなかった。NHKも同じ理由で除外していた(後に放送作家になってからNHKには『中学生日記』の脚本を書かせて欲しいと売り込みに行った)。


そんなわけで残っているのはフジテレビだけ。当時(30年前)のフジテレビは素人の僕から見ても、他局とは違って見えた。勢いがあったし、面白い番組といえば大体がフジテレビだった。そんなフジテレビだから、「端から相手にしてもらえない」と気後れし、最後まで残しておいた。でもこのまま終わらせるのもどうも納得がいかない。ダメ元でフジテレビにも企画書を送ってみることにした。ちなみにここまで書いてきた企画書は使い回しはせず、その度に新たに書いていたのでネタはすっかり枯れていた。

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4,あなたのアイデアは貧乏臭い

企画書を2回送った2週目が過ぎた頃、フジテレビの番組担当者の方から連絡が来た。これまで僕から連絡することはあっても向こうから連絡が来たのはこれが初めて。「もしかして放送作家として採用してもらえるかも」と、大いに期待しながら曙橋に向かった(当時フジテレビは新宿区河田町にあった)。


企画書を送った相手はフジテレビ深夜番組のプロデューサーのSさん。Sさんから指定されたフジテレビ局内の喫茶店で待っていると、少し遅れてSさんが現れた。Sさんは席に着くと僕が送った企画書を見ながら、「あなたが送ってきた企画書を見て話しがしたいと思った」とタバコに火をつけながら言った。それを聞いて僕はますます期待が高まった。


しかし、Sさんの話しがしたかった事は、僕が期待していたことと違っていた。「あなたのアイデアはどれも“貧乏臭い”」、「テレビは視聴者に夢を売る商売。だから“貧乏臭い”のはダメ」、「うち(フジテレビ)が他局より支持されているのは貧乏を扱っても貧乏に見えないから」………今だったら「ん?」と首を傾げるだろうが、当時の僕はSさんの言葉に素直に頷いた。本当に貧乏だったから貧乏臭いと言われても何も反論できない。とは言えこちらの要望を伝えるべきか迷っていた時、「打ち合わせがあるから」とSさんは伝票を持って席を立った。僕は大いに期待していただけにひどく落ち込んで帰った。


これで4つの局とも自分で売り込む作戦は失敗。後に残ったのは腱鞘炎になった右手だけ。やっぱり自分で売り込んで放送作家になるのは無理だと諦めかけていた頃、Sさんから「もう一度会いにいらっしゃい」と連絡を貰った。きっとこの前は自分ばかり喋って悪いと思ったに違いない。今度はこちらの要望もちゃんと聞いてくれるに違いない、とまた勝手に期待した。そして再びフジテレビ局内の喫茶店でSさんを待った。


その日Sさんは時間通りにやってきた。席に着くと担当している番組が何か
の賞を貰った話を嬉しそうに始めた。機嫌が良さそう。これはチャンスかも。そう思ったが結局その時もSさんの話を聞いて対面の時間は終了した。しかし喫茶店を出る時、Sさんから「今一緒に番組作っているディレクターに(あなたのことを)話したら興味持ったみたい。よかったら紹介する」と言われた。この時こそ人の話は黙って聞くものだと痛感したことはない。


僕は早速Sさんに紹介されたディレクターのFさんに会いに行った。Fさんはちょうど新しい子供番組を企画中でいろんなアイデアを求めていた時だった。タイミングが良かったのだ。それから数ヶ月後、僕は『ウゴウゴルーガ』の作家のひとりとして参加できることになった。

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これが僕が放送作家になった経緯だ。実際にはもう少しいろんな事があったが、これ以上長くなると読むのも疲れると思うので今回はひとまずこの辺でー。


放送作家になるのも大変だったが、実際はなってからの方が100倍大変だった。そう、世の中には決して楽して儲かる商売などない。どの放送作家も飄々としながら見えないところでは努力しているのだ。


30年前の1992年、あの頃のテレビは「何者でもない人間」でも興味を持ってくれるSさんやFさんのような人がいた。SさんとFさんには今でも本当に感謝している。いや、あの日忙しい中こんな僕に会ってくれた全ての人に対しても(勿論ここまで読んでくれたあなたにも)。

本当にありがとうございました。


5,最後に

あの頃の僕と同じように今この瞬間「何者かになりたい」と思っている人が、このテキストを読んで一歩でも前に踏み出すきっかけになれば嬉しい限りです。あなたの成功を祈りながらこの曲を送ります。

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