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「納得」は全てに優先する――今村昌弘『でぃすぺる』勝手にネタバレ解説

※本記事は今村昌弘『でぃすぺる』と殊能将之の某作品のネタバレを含みます。ご注意ください。

 ミステリーファンの年末のお楽しみ、各種ミステリーランキングの季節がやって参りました。今年度の国内ミステリは各ランキングとも本命不在の混戦ムード。先んじてミステリマガジンの「ミステリが読みたい!」が発表されましたが、同傾向の「このミステリーがすごい!」や「週刊文春ミステリー・ベスト10」でも軸となりそうなのは17年ぶりの〈百鬼夜行シリーズ〉新刊・京極夏彦『鵼の碑』、米澤穂信のストイックな本格警察ミステリ『可燃物』、東野圭吾の久々の加賀恭一郎シリーズ新作『あなたが誰かを殺した』、永井紗耶子の直木賞受賞作『木挽町のあだ討ち』、集計期間の関係で「このミス」のみ対象の小川哲の推協賞受賞作『君のクイズ』あたり。「本格ミステリ・ベスト10」では白井智之の相変わらずブッ飛んだ特殊設定×多重解決ミステリ『エレファントヘッド』が本命、といったところ。

 そんな2023年度の国内ミステリにおいて、周りのミステリ読みの反応を見てもちょ~~~~~っとばかり軽視されすぎというか、ミステリマニアやミステリ業界の人たちに、いまいちその魅力と試みが理解されてない気がする作品があります。

 今村昌弘『でぃすぺる』(文藝春秋)

 本格ミステリ界に「特殊設定ミステリ」の大ブームを巻き起こした、2017年の大ヒット作『屍人荘の殺人』で華々しいデビューを飾った今村昌弘の、初のノンシリーズ長編。
 これが自分の2023年度国内本格ベスト1なのですが、どーも周りの反応が鈍い。X(Twitter)を検索してみても、非ミステリマニアとおぼしき読者がおおむね好意的な反応をしているのに、ミステリマニア系の人ほど本作に対して「意外性がない」とか「ネタが既視感」とか手厳しい。
 いやいやいや、本作の試みはむしろミステリマニア向けでは? 少なくとも俺はその野心的な試みにめちゃくちゃ感動したのに、はて?
 首を捻った結果、どうも『でぃすぺる』が作品として何をやろうとしたのかが、各要素の前例の存在に惑わされて、ミステリマニアほどかえって伝わってないのではないか、という結論に至りました。

 というわけで本稿では、『でぃすぺる』が本格ミステリとして何をやろうとしたのか、をネタバレ全開で検討していこうと思います。『でぃすぺる』をまだ読んでない人は回れ右して読んでから戻ってきてください。

『でぃすぺる』あらすじ

 衰退する田舎町の奥郷町。オカルト好きの小学6年生、木島悠介(ユースケ)は、2学期のはじめ、壁新聞にオカルト記事を書くために掲示係に立候補する。ところが、一緒に立候補してきたのは、1学期にはクラス委員長を務めていた優等生の波多野紗月(サツキ)。真面目な彼女が一緒ではオカルト記事など書かせてもらえないのでは――とユースケが危惧していると、なんとサツキの方から「奥郷町の七不思議」について調べよう、と提案される。転校生の畑美奈(ミナ)を加えた掲示係の3人は、さっそく七不思議の最初のひとつ、「Sトンネルの同乗者」の調査に向かうが……。

あなたは「納得」できましたか?

 さて、『でぃすぺる』を読み終えた皆さんに伺いたいことはひとつ、ただひとつです。

 あなたは、『でぃすぺる』の「この真相」に、納得できましたか?

 結論から申し上げると、『でぃすぺる』という作品の最大の試みは、この問いに「YES」と答えてもらうことにあります。
 いやいや、本格ミステリなんだからそんなの当たり前だろって? 読者を納得させられないミステリはミステリ失格だって? それは全く仰る通り。
 ですが、この問いに「YES」と答えた方、改めて考えてみてください。

 どうしてあなたは、『でぃすぺる』の「この真相」に、納得できたのですか?

 ほら、なんだかおかしな気分になってきませんか?
 『でぃすぺる』の物語は、本格ミステリの形式に則って展開します。1年前に起きたサツキの従姉・マリ姉の変死事件。サツキは遺品のPCから見つかった「奥郷町の七不思議」のテキストを、マリ姉のダイイング・メッセージと考え、その謎を解くことでマリ姉の死の真相を突き止めようとします。
 オカルト肯定派のユースケと、否定派のサツキが、それぞれの立場から推理を披露し、中立のミナがどちらに説得力があるのかをジャッジする――という推理合戦を重ねながら、3人は徐々に町の秘密と事件の真相に近付いていきます。
 明らかに『でぃすぺる』は本格ミステリのフォーマットで構築された物語です。マリ姉の死という謎、「七不思議」というテキストの謎に、納得のいく真相を求める物語です。

 もう一度問いましょう。
 あなたは『でぃすぺる』の「この真相」――「犯人は怪異である」という真相に、どうして納得できたのですか?

オカルトはミステリの真相という夢を見るか?

 もちろん、「実は怪異が存在する」というオチのミステリは、世にいくらでも前例があります。それこそ某海外の古典的名作しかり、某カラフル作家の某作品しかり。三津田信三の〈刀城言耶〉シリーズのように、最後まで読まないと本格ミステリとして落ちるのか、ホラーとして落ちるのかわからないというコンセプトのシリーズもあるように、ミステリとして合理的な解決が為されたあとで、合理では説明しきれない怪異が姿を現してホラーとして落ちるというのは、ホラーミステリのテンプレートと言ってもいいでしょう。

 また、最初から怪異や超自然の存在を前提として、それに基づいた論理的な推理を展開する「特殊設定ミステリ」は、今や本格ミステリの主流ジャンルとなっています。それこそ×××を本格ミステリに導入した今村昌弘『屍人荘の殺人』をここ最近の筆頭として、米澤穂信『折れた竜骨』、城平京『虚構推理』、方丈貴恵『孤島の来訪者』など枚挙に暇がありません。

 そんな中でも、『でぃすぺる』を読んだミステリマニアがおそらく真っ先に連想するのは、殊能将之のあの作品でしょう。ごくごく普通のアリバイ崩しミステリが、突如としてクトゥルー神話のオカルト伝奇モノへと変貌する伝説のあの作品。実際自分も真っ先にそれを連想しました。
 本作に対して「ネタが小粒」とか「既視感がある」という感想を抱いた人は、おそらくあの真相が明らかになった瞬間、『でぃすぺる』を自動的にこれらのパターンの作品のひとつに脳内で分類してしまったせいだと思います。マニアというのはこれまでの読書経験から、そういう分類整理をしがちな生き物です。

 でも、ちょっと一旦立ち止まって考えて見ると、おかしなことに気付くはずなんです。
 実は『でぃすぺる』は、これらのパターンには当てはまらない――ということに。

 たとえば、殊能将之の某作品では、名探偵の石動戯作は、事件の裏で起こっていた世界を揺るがすオカルト伝奇バトルの存在に、最後まで気付くことはありません。しかし『でぃすぺる』では、ユースケたち3人は推理によって怪異の実在という真相に自ら辿り着きます。
 では『でぃすぺる』は、たとえば『虚構推理』のように、怪異の存在を大前提とした特殊設定ミステリなのでしょうか?
 この答えもNOです。オカルト肯定派のユースケはその立場から怪異の存在を前提にした推理をしますが、この世界では別にオカルト的な怪異の実在が公になっているわけでもなければ、ユースケが最初からオカルトの実在を知っていたわけでもありません。ユースケのオカルト推理はあくまで「普通のオカルト好き」故のものでしかなく、怪異の存在を実証できないからこそサツキとの推理合戦は噛み合いません。
 それなら『でぃすぺる』は、事件に対して合理的な解決が為されたあとに、オチとして怪異が出現してホラーになる話なのでしょうか?
 これもNOです。『でぃすぺる』における「怪異の実在」は、ユースケとサツキの推理合戦の結果として導き出された解決なのです。

「サツキは、なずての会を罠にかけることで犯人であることを立証しようとした。でもそこにかかったのは怪異だった。なら真相は明らかだよ」
 ミナの視線がおれを捉える。
「おめでとう、ユースケ。犯人は怪異だとする君の推理は、ここに成立した」

『でぃすぺる』P417

 本格ミステリとは、謎を合理的に解決することを目的とした物語形式です。本格ミステリにおいては、どんなに合理では説明のつきそうのない、途方もない謎が提出されても、それは最終的に合理に回収されることが約束されています。
 たとえ最終的に合理の枠からはみ出す怪異が出現するとしても、それはあくまでそれ以外の要素を合理で説明しきった上でのことです。合理的解決によって説明がついたと安心したところに怪異が出現するからこそ、ホラーミステリのホラー的結末は輝くのです。

 これを端的にまとめると、本格ミステリは、オカルトに対する合理の絶対的優位性を前提とした物語であると言えます。
 たとえば2022年の本格ミステリ界を席巻した白井智之『名探偵のいけにえ』では、奇蹟の実在を信じる宗教団体のコミューンに潜入した探偵が、コミューン内で起きた連続殺人に挑みます。奇蹟の実在を信じる信者たちに対し、探偵の大塒は外部の人間なので奇蹟の実在を信じることなく、奇蹟の実在に基づいた推理と、奇蹟を否定した推理との多重解決によって、コミューンの奇蹟の論理を破壊しようと試みます。奇蹟というオカルトが支配する世界に対し、本格ミステリの合理が戦いを挑む物語です。
 あるいは井上真偽『その可能性はすでに考えた』の名探偵・上苙丞は、「奇蹟の実在を証明する」ために、それ以外のありとあらゆるトリックの可能性を否定しようとする探偵です。しかしこれもまた、「合理的に説明できるトリックが存在するならば、それは奇蹟ではない」という、合理の絶対的な優位性が物語の大前提として存在します。
 07th Expansion『うみねこのなく頃に』では、魔女の仕業としか思えない殺人事件に対し、人間と魔女が推理合戦を繰り広げます。魔法バトルが繰り広げられる幻想の光景を見せ付けることで人間側を屈服させようとする魔女に対し、人間側は「人間の仕業でも説明のつくトリック」を提示することで魔女の存在を否定しようとします。
 城平京『虚構推理』のような、そもそもオカルト的存在が実在する特殊設定ミステリでは、オカルトは実在する以上合理の一部でしかありません。

 オカルトの実在を前提としない本格ミステリにおいて、オカルト的解決を持ち出すという行為は、本来、真相の納得度を著しく下げる行為のはずです。それをしてしまえば「なんでもあり」になってしまうからです。
 『でぃすぺる』の作中にも登場する「ノックスの十戒」でも、解決における唐突な超自然要素の導入は厳しく戒められています。
 実際、前述した殊能将之の某作品は、そのオカルト的真実ゆえに刊行当時から絶賛する人と激怒する人の極端に分かれ、「壁本」の代表格として語り草になっています。

 さて、そこで『でぃすぺる』の反応をSNSで見てみると。
 不思議なことに、この真相に怒っている人をほとんど見掛けません。
 全くいないわけではないですが、普段さほど本格ミステリを読みつけていなさそうな人でも、本作のこの真相を普通に受け入れています。

 さあ、改めて問いましょう。
 『でぃすぺる』のこの真相に、どうしてあなたは納得できたのですか?

 そう、『でぃすぺる』の特異性はここにあります。
 すなわち――オカルトの実在を前提としない本格ミステリの形式でありながら、「オカルト的解決」が「合理的解決」に納得度で勝利するミステリ
 それこそが『でぃすぺる』の、驚くべき野心的試みなのです。

 いったい、どうしてこんなミステリが成立するのでしょう?
 その謎を解く鍵は――作中でユースケとサツキが繰り広げる推理合戦、そこで為されたある「合意」にあります。

オカルトvs合理――争いは同じレベルの間でしか成立しない

「目的を思い出してごらん。あんたたちは、マリ姉が七不思議に残した謎を解きたいんだろう。大事なのはそこだ。裁判に勝てるような証拠がなくてもいい。重要なのはあんたたちが納得できる答えを見つけること」
「納得できる?」サツキが聞き返した。
(中略)
「……胡散臭い考えを、それらしく組み立てることでみんなを納得させる。そうすりゃ読者だって文句は言わない。あんたたちがやろうとしてるのも同じことさ」
「だから私は心霊現象を認めないといけないってこと? 見てもいないのに」
 サツキがまだ腑に落ちない顔をしているのを見て、魔女は笑いかけた。
「そうじゃない。なんでもありになっては駄目だというサツキの意見はもっともだ。だからまず、三人なりのルールを決めるべきだろうね。探偵が周りを納得させるように、どんな推理であれば正解と認めるのかを決めるんだ」

『でぃすぺる』P151-152

 『でぃすぺる』の主人公トリオであるユースケ・サツキ・ミナの3人は小学6年生。小学生ゆえに行動には制約が大きく、思うような調査ができません。探偵のように聞き込みをしても大人がいなければ相手にしてもらえないし、警察のように証拠を集めることもままなりません。
 そして、オカルト肯定派のユースケと、否定派のサツキの話し合いも噛み合いません。自分の目で見てもいない心霊現象は信じられないというサツキを、ユースケは説得する術を持ちません。
 そんな中、3人が調査の過程で出会った〝魔女〟は、3人にこのように提案します。3人の目的は「七不思議」の謎を解き、マリ姉の死について納得できる真相を見つけ出すこと。警察のような厳密な捜査ができない以上、大切なのは3人がその推理に納得できるかどうかであるのだから、どんな推理であれば納得するのか、そのためのルールを定めよ――と。

 本格ミステリの世界には、「探偵には完全な推理は不可能なのでは?」という問題(いわゆる「後期クイーン的問題」)が存在します。名探偵は捜査によってさまざまな手がかりを集め、それに基づいて推理を組み立てるわけですが、「集めた手がかりが全て正しい真相に繋がる手がかりである」ことをいったい誰が保証してくれるのか? あるいは「全ての手がかりが集まった」ことを――今の推理を根幹から否定する新たな手がかりが「もう存在しない」ことを誰が保証してくれるのか? そんなことは原理的に不可能では? という問題です。
 もちろん本格ミステリは作者が読者に挑む謎解きゲームですから、作者が「読者への挑戦状」などでメタ的に保証することは可能ですが、作中の探偵は「読者への挑戦状」を読むことはできません。どんなに論理的に筋の通った推理をしても、それが完全なものであるという保証はメタ的にしか存在しないのです。
 そうした問題意識から、本格ミステリの世界ではゼロ年代の終わりから2010年代の半ばにかけて「多重解決」という趣向が流行しました。ひとつの事件に何通りもの推理が提示されるミステリです。たとえば『虚構推理』の鋼人七瀬編がその典型です。岩永琴子は鋼人七瀬という怪異を消滅させるため、まとめサイトの掲示板に4種類の推理を投下しますが――その推理は全て、それが真実かどうかではなく、「掲示板住民を納得させる」ことを目的としたものでした。
 このような「探偵の推理は、それを聞いている者たちが納得できるならば、真実でなくても構わない」という考え方は、米澤穂信『インシテミル』や円居挽『丸太町ルヴォワール』などの多重解決ブームの中で生み出され、本格ミステリ界に浸透していきました。
 『でぃすぺる』で魔女がユースケたちに提案する推理合戦のルールも、この考え方に基づいたものです。警察や探偵のような厳密な捜査のできない小学生である以上、求めるべきは厳密な真実よりも、自分たちの納得である――これが『でぃすぺる』のユースケvsサツキの推理合戦における基本的な態度になります。

 そうして〝魔女〟の提案に基づき、3人は次のようなルールを定めます。

 ○マリ姉の残した怪談に基づいた推理でなければならない。
 ○事件前後の、マリ姉の行動に合理的な説明がつくこと。

「今後、お互いの推理や仮説について話し合う時は、このルールに合っているかどうかを第一に考えることにしよう。六つの怪談のすべてを調べ終えた時、これを満たす推理が、私たちの求める真実ってわけ」
 サツキの言葉におれたちは頷いた、のだが。

『でぃすぺる』P154

 このルールによって、オカルト肯定派のユースケと、否定派のサツキは同じ土俵で推理合戦をすることが可能になりました。
 それはすなわち、ここでひとつの合意が為されたことを示しています。

 それは、オカルト的推理と、合理的推理を、完全に等価なものとして扱う――という合意です。
 このルールに則って、納得できるものであれば、ユースケのオカルト推理も解決として受け入れる――という合意、と言い換えることもできます。

 前述した通り、本格ミステリは合理の物語です。本格ミステリの謎は合理によって解明されるものであり、合理に対する信頼こそが本格ミステリの屋台骨です。普通のホラーミステリも、その合理に対する信頼を基盤にしているからこそ、ホラー要素が引き立つという構造になっています。
 しかし、『でぃすぺる』においては、この合意が形成された時点で、オカルトと合理は完全に対等なものになっているのです。
 この時点では、オカルトの実在が証明されていないにもかかわらず。

 この合意の形成こそが、まさに『でぃすぺる』の肝になります。
 オカルトの実在を前提にしていないにもかかわらず、オカルト的解決と合理的解決を等価に扱う。通常のミステリであれば、こんな合意は絶対に成立しません。我々大人の常識において、オカルトの実在を合理的解決と等価に扱うことは理性に反します。
 しかし、本作の主人公は小学生です。まだ常識という合理に凝り固まっていない小学生ならば、この合意は成立し得ます。本格的に大人への背伸びを始める中学生でも無理でしょう。この合意は、おそらく小学生でなければ成立しません

 そして、この合意に基づいた推理合戦を通してこの物語を読み進めるからこそ、読者である私たちも、「あの真相」を納得することができるのです
 オカルトと合理を対等に扱うという前提に基づいた推理合戦を通して、ユースケたちの調査を追いかけることで、初めて「あの真相」は「納得できる解決」になるのです。
 『でぃすぺる』が少年探偵団もののジュブナイルの形式を採った理由は、この合意を形成する、おそらくはその一点のためにあります。

 本作に対して「意外性がない」と感じた読者は、おそらくこの合意が形成された時点で、作品の目指すところがオカルト的解決の勝利であるというところを敏感に察した人でしょう。
 もちろん「意外性がない」と感じた人の意見を否定するつもりはありませんが、その「意外性のなさ」の理由は、本作が「あの真相」を読者に納得させるために、非常に丁寧な手続きを踏んでいるが故なのです。
 その手続きを、もう少し詳しく見てみましょう。

陰謀論と十戒と――その構築性

 本作の後半、「七不思議」の調査を進めていくうちに、3人は奥郷町の有力者たちが関わっているらしい、「なずての会」という謎の組織の存在に行き当たります。そして3人が徐々に真相に近付いていくにつれ、図書館での監視の気配、何者かからの脅迫のメッセージ、壁新聞に対する学校の妨害、増えていく死者……と、どんどん不穏な気配が高まっていきます。
 結果、マリ姉の死の謎を合理的に解決しようとするサツキの推理は、(作中でも言及されるように)どんどん陰謀論的な性格を強めていきます。

 謎の神様を崇める、町を支配する謎の組織――。我々大人の読者の理性からすると、こんな陰謀論的な世界観は、オカルトの実在と同じぐらいリアリティに欠けるものです。ただし本作の場合、舞台となる奥郷町が衰退する田舎町という狭いムラ社会であるが故に、因習村ものに慣れ親しんだミステリ読者的には、ギリギリあり得なくもなさそうなラインを突いているところが本作の巧いところ。
 サツキの推理に対する「そんな陰謀論的な解決で大丈夫か?」という不安が、最終的な「怪異の実在」という真相の納得度を高めるのに一役買っています。「邪神を崇める謎の組織が町を支配している」という危うい推理を先に提示しておくことで、「邪神に対抗する組織が人知れず町を守っている」という(リアリティでいえばどっこいどっこいのはずの)真相に、解決の安心感をもたらしているのです。本格ミステリの「解決」とは「秩序の回復」に他ならないわけですから。

 また終盤、六つ目の怪談の中で「ノックスの十戒」が登場します。ぶっちゃけ、十戒をネタにしたミステリが既に多数ある中で、本作の十戒の扱いは特別優れたものではありません。ミステリマニアならもうちょっとこう……と感じるところでしょう。
 しかし、本作における十戒の役割は、我々ミステリマニアを向いてはいません。本作における十戒の役割はただ一点、「犯人は怪異である」という解決を読者に納得してもらうための手続きなのです。
 オカルト的な怪異の実在を、実際に目撃すること以外に立証することは難しい。もちろん過去には推理によって怪異の実在に辿り着いた作例もありますが、ここではユースケたちが小学生であるが故の調査能力の限界がネックになってきます。
 オカルトか合理かの推理合戦を重ねてきたのに、肝心の怪異の実在証明を「3人で目撃したから」で済ませてしまっては推理になりません。そこで、小学生が推理によって怪異の実在に辿り着くための手がかりとして持ち出されたのが、本作におけるノックスの十戒なのです。
 これは同時に、ミステリ初心者向けの説明でもあります。十戒がミステリのルールであるということは初心者でも聞きかじったことがあるはず。実際はルールというより「べからず集」なのですが(ニコニコ大百科の「本格ミステリ」の記事にたいへんわかりやすい説明があります)、「七不思議」の記述に基づいた推理であることが3人の推理合戦のルールなのですから、「七不思議」の記述の中に十戒があることで、十戒はこの推理合戦におけるルールとして適用されることになります。
 この推理合戦のルールを利用して、(実際はルールではない)十戒をルールとして運用するというのも、本作の巧いところ。十戒を元からルールだと思っているミステリ初心者であれば、なおさら自然に受け入れやすい使い方でしょう。

 こうして見ていくと、本作を構成する要素はことごとく、「あの真相」を読者に納得させるために周到に配置されていることに気付かされます。
 主人公が小学生のジュブナイルであること、舞台が衰退する田舎町であること、「七不思議」の謎を追うホラーミステリであること……。全ての要素が、真相を読者に納得してもらう、そのために構築されているのです。

裏返しの特殊設定ミステリ

 本格ミステリにおける手がかりや伏線、論理やトリックは、畢竟、読者に真相を納得してもらうためにあります。どんなに突飛な真相でも、充分な手がかりと伏線があり、納得のいくトリックと論理的な推理があれば、その真相は真実として読者に受け入れられます。本格ミステリ作家は、真相を読者に納得してもらうためにあらゆる要素を構築していくわけです。
 超自然的な要素を導入した特殊設定ミステリが本格ミステリとして成立するのも、真相を納得させるための構築要素としてその特殊な設定を活用しているからです。

 今村昌弘は『屍人荘の殺人』でのデビュー以来、特殊設定ミステリを本線として活躍してきました。
 本作の刊行時、今村昌弘はX(Twitter)でこう語っています。

 「自分が書いてきた本格ミステリへの挑戦」というのはすなわち、本作のこの構造――特殊設定がまずあってそれに基づいた推理をするではなく、特殊設定の存在が確定していない状態から、推理によって特殊設定の存在が露わになる、裏返しの特殊設定ミステリというべき構造のことを指しているのでしょう。

 そして何より、今村昌弘の最も非凡なところは、このネタをミステリマニア向けでなく、万人向けのジュブナイルとして書いたという、その一点にあります。
 『でぃすぺる』の構造自体は、ここ15年の本格ミステリ界の多重解決ブームと特殊設定ミステリブームを踏まえた、たいへんマニアックな作りです。その上でこの真相なのですから、普通はマニアに向けた批評的な作品になって然るべきところです。オビを麻耶雄嵩が書いているように。
 ところが『でぃすぺる』は、これほどマニアックな試みをしているにもかかわらず、読み口は完全に普通のジュブナイルホラーミステリなのです
 そして、本作の「この真相」で多くの読者を納得させたということは、各種SNSの本作に対する読者の反応から明らかです。いかに今村昌弘が丁寧にこの真相を納得させるための手続きを構築したか、そしてそれがきちんと成功したということがよくわかります。
 そう、成功しすぎて、ミステリマニアにまで普通のジュブナイルホラーミステリだと思われてしまっているほどに……。

 まあ、筆者も本作に欠点がないとは言いません。人が死にすぎるところとそれに対する主人公たちの反応にムラがあるのが気になるという指摘はもっともだと思うし(特に配信者の件)、七不思議の叙述トリックに関するところはだいぶ苦しいと思う。なので本作が全ミステリマニア必読! 評価されないのはおかしい! 世界が間違っている! 修正してやる! とか主張するつもりはありません。
 筆者自身、読み終えた瞬間の時点では「ははー、そうきたか。いや面白かったけど」ぐらいの感触でした。ただそこで、殊能将之の某作品みたいな真相だなあと思い、それから本作の「あの真相」に対して自分が普通に納得していることに気付いて「あれ?」と思い、なんで自分が納得したのかをあれこれ考えた結果、本作のこの構築性に気付いて「あああ!そういうことか!そういうことがやりたかったのか!!!」とワンテンポ遅れた感動に襲われたのでした。こういう「そういうことがやりたかったのか!」という驚きと発見のあるミステリが好きなんです。東野圭吾の『白夜行』とか。
 結局のところ、自分で見つけ出した面白さに勝るものはないのかもしれません。

 いいことも悪いことも、誰かから吹き込まれる情報だけじゃなくて、自分の力で探してみたいんだ。

『でぃすぺる』P435

 なので、『でぃすぺる』に対する周りの反応の鈍さについては「いーよいーよ、あの子の良さは俺だけが分かってるんだから、ふーんだ」という気分ではあるのですが、「意外性がない」とか「要素が既視感」とかで済ませてほしくはない、非常に野心的な試みと丁寧な構築性をもった作品であり、その試みは十全に成功しているのだ、ということは訴えておきたいのです。

 いや、俺のこの解説が正しいという保証はないですけどね?(台無し)

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