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浅葱色の覚書「見つめる人は美しいから、私も見つめる。」 / 言葉の獣

はじめ


見つめ続けたら、穴が空くのだろうか。試したことありますか?
私はある。
高校生のとき、体調を崩して学校を休み、床に臥していた。暇で仕方ない訳だが、かといって何かをする気力も起きない。ただただ天井を見つめていた。穴が空くほど。
お…?そう云えば「穴が空くほど見つめる」って言うよな。空くのかな…?もしかしたら、空く気もするっちゃするな…。

一時間以上が経っていた。

無論、天井に穴を空けることはできなかった。まあ、空いていたら、黒服の男たちに保護されてX-MENに仲間入りさせられていたか、普通にお母ちゃんに怒られていたかのどっちかだろうから、結果空かなくてよかった。18歳が小一時間も天井を見続けた狂気はさておいて、私は「見つめる人」が好きだ。ただ見ていればいいのではない。本当に、穴が空くほどに見つめる人が、その目が、心が好きなのだ。今回は、一所懸命に「見つめる」人々のお話である。

なか

はよ3巻だして。

主人公の薬研(やげん)と、そのクラスメイトの東雲(しののめ)。東雲は共感覚の持ち主で、人の発した言葉が不思議な姿をした「獣」に見える。薬研はそんな東雲と関わるようになり、自分や他人の発した言葉を深く深く追求していく。文字どおり「言葉と向き合う」、ファンタジーのような、ファンタジーじゃないような、素的な物語。


去年読んだ漫画の中でもダントツで印象に残った漫画が、この『言葉の獣』であった。
この漫画を読んで、実に「丁寧だ」と感じた。
物語の進め方というか、薬研と東雲の歩み方が本当に丁寧なのだ。一つ一つの事象に、じっくりと時間をかけて向き合っている。薬研と東雲は、言葉の獣の姿を「記録」すべきかどうか、迷う場面がある。メタ的に言ってしまえば、一話のうちに「そうか、〇〇だから記録はすべきなんだね!」という結論に向かわせることだってできる。そういったシナリオを書くのだって作者の自由である。でも、作者の鯨庭さんはそうはしなかった。二人は、二人の生活を送り、出来事に出会し、それらを通して考え、その末に彼女らなりに「忘れないように、思い出せるように記録するんだ」と気づくのだ。神の手によって「気づかされている」感が無い。飽くまで、彼女らが「気づく」のである。因みに、この「記録に残すかどうか」を一巻まるまる使ってやっているのだ。丁寧でしょ?
薬研と東雲は、そうやって物事をきちんと見つめる人たちだ。
だから彼女らが好きだし、この漫画が好きだ。


私ゃ、MONO NO AWAREというバンドも好きである。なぜ好きなのか、最近気づいた。作詞作曲を行う玉置周啓の言葉への向き合い方である。(勿論サウンド面も好きである。コードに対するメロの当て方が絶妙で気持ちよい。)
「集英社オンライン」での記事を読んだ。ゆる言語学ラジオでお馴染み、水野氏との対談を記したものだ。

曰く、
「ある言葉に執着して、そこから勝手なことを考えて、それを詞や曲にしてきた」
「詞を書くっていうのは、その感激した一瞬をどう翻訳するかみたいな作業」

ほうら、彼も言葉を見つめる人だ。(代表曲「言葉がなかったら」なんて、その決意表明のような曲だし。)そして、その凝望の結実こそが彼らの楽曲なのでしょう。

レトロスペクティヴ最高でした。

そしてもう一つ、イ・チャンドン監督の「ポエトリー アグネスの詩」という映画。詩を書き始めたおばあちゃんのお話。周りから少し浮いた存在の彼女。まず彼女のそういったキャラクターにも惹かれるのだが、彼女の魅力はやはり、真面目すぎるほどに物事を「見つめる」力である。とある事件の被害に遭い、自殺した一人の少女(その少女に害を加えていたのは、自分が世話をしている孫だ。目も背けたくなる事実。)を、彼女は目を逸らすことなく見つめ続ける。
そうして見つめ尽くした先に生み出した、一つの結論と一編の詩。その貴さ(=力強さ+か弱さ)に、私は打ちのめされた。愛しているぜ、イ・チャンドン!

おわり

そういうわけで、私は(穴が空くほどに)見つめた先に生まれた芸術を愛しているのだ。それが『言葉の獣』であり、『MONO NO AWARE』であり、『ポエトリー』である。

私は言葉が好きだから、「言葉」を見つめ続けたいし、見つめて「言葉」に表し続けていきたい。
「見つめる」というワードには、「見ること」以外に「考えること」が含まれていると思っておくんなまし。
「我武者羅に取り組む」とは違う。
「見る」だけじゃなくて、「見つめる」。
大切なのは、頭を使うことだ。
闇雲に光を当てるのではなく、レンズを通して一点に光を集中させる感じ。

私も見つめてみる。

ほら、今にも天井に穴が空きそうだ。


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