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朝ドラ「おちょやん」モデル・浪花千栄子 唯一の自伝『水のように』特別公開!ともかく泣ける…ひたむきに生きる千栄子の幼少時代

 今週からいよいよ杉咲花さん登場で、ますます楽しみなNHK連続テレビ小説「おちょやん」。モデルとなった女優・浪花千栄子さんが残した唯一の自伝『水のように』には、貧しかった幼少期から、奉公先での苦労、女優として成功をおさめるまでが、心のままに綴られています。「おちょやん」応援企画として特別に、自伝『水のように』を期間限定で全文公開! ドラマと合わせてお楽しみ下さい。

【第1章】私の生きてきた道――そして、私の生き方①

 私が、いまさら申すまでもなく、水というものは、人間はもちろんのこと、すべての生き物に欠くことのできないたいせつなものでございます。生き物の、生きてゆく上にたいせつな、この水にも、いろいろの状態によって位があるように思われますが、はじめとおわりは、一つのものから出て、一つのものに帰ってしまいます。

 位、と申しますのは、飲料になる水道の水、観賞用の噴水をはじめ、滝や川や池の水、自然や作物や建物を破壊し押し流してしまう洪水の水、汚物や悪臭のため顔をそむける下水の水というように、たとえば、ということですが、もっとおそろしいことは、生き物の生命を育てるそばから、その生き物の生命を奪ってしまいます。

 私の半生は、人に、かえり見もされないどぶ川の泥水でございました。
 自分から求めたわけではありませんが、私という水の運命は、物心つく前から不幸な方向をたどらされておりました。

 しかし私は、子供のときから、泥水の中にでも、美しいはすの花が咲くことを信じていましたし、赤い灯青い灯、と、たくさんの人に歌われ、大阪の代名詞のように有名な道頓堀の川底が、どんなにきたないかもよく知っていましたから、不幸などぶ川の泥水の運命に、従順でした。

 そしてひたすらに、与えられた仕事にせいいっぱい立ち向かって生きていました。冬の寒い朝、ひびあか切れの冷たい小さい手に、白いいきを吹きかけながら、十歳の私は、いまに美しいはすの花を咲かせてやるぞという、そのときはまだ形もまとまりもない考えを、心のどこかにひそませながら、うんざりするほど積みあげられた洗い物にかかるのでした。

 私が、南河内の生まれ故郷から、はじめて社会の荒波の中へ放り出されたのは、道頓堀の芝居茶屋へお弁当を入れる仕出し料理屋の下女としてでした。

 下女と申しましても九歳の秋を過ぎたばかり、その上小柄の私ですから、第一に、その家のぼっちゃんの子もりに使い走り、一刻の休みも与えられませんが、そんなものだとこっちもあきらめて、結構役にたっていました。

 児童福祉法だの、労働基準法だののない、大正四、五年ころのことですが、睡眠時間がだいたい四時間あるかなし、そして一日中、まるでコマネズミのように働きづめで、これが十七歳の春まで八年間つづいたのですから、全くおどろきももの木さんしょの木というものでございます。いまだからこんなノンキなことも申されますが、「おちよやん、おちよやん」と呼ばれて、三度の食事も広い台所のすみっこで立ったまま、いそがしくほおばっていた当時の自分を思い出すと、抱きしめてやりたいほど哀れに思います。「おちよやん」と申すのは、大阪弁のニュアンスを御存知ないかたにはちょっとおわかりになりにくいでしょうが、下働きの年齢の若い下女を総称して、そう呼ぶのが当時のならわしでございました。

 九歳と申せば、まだ普通一般の家の子供でしたらその家によっての貧富の差こそあれ、慈愛深い両親のひざもとで小学校へ通っている年ごろ、両親そろっていないまでも、そんな小さい子供が奉公に出るなどということは、そのころ、どこにもザラにあることではありませんでした。

 小学校六年をおえてから奉公に出されるというのならば、貧しいいなかにはよくあることですが、私などはよりによって不幸な運命にめぐり合わせた子供だったのでございます。

 私には三つ下の弟がありますが、私が五歳になりましたとき、母は弟を生みましてからずっと寝たり起きたりだったのが急に病あらたまり亡くなってしまいました。大声をあげて泣いたおぼえはたしかにありますけれど、まだ母の死の深い悲しみの意味はわかるはずもありません。

 家は、わずかの田畑をも持たず、にわとりの行商を業とする貧しい生活でしたから、母の死後は幼い弟のおもりをしながら、見よう見まねで、父の手伝いにトリのえさつくりなどをいたしておりましたが、子供心にむしょうに母が恋しくなると、小さい弟の手を引っぱって母の墓前へ行き、そこで小半日も暮らすことがありました。

 金剛、葛城、生駒、信貴の山々を望む南河内の自然と風物は、ほんとうに美しく、四季おりおりのながめは豊かに、今も眼底にあざやかに残っていますが、私たちの生活は、文字どおりの最低で、血のにじむような思い出ばかりでございます。

 戸数六十戸、大体が、そんなに裕福な村ではないようでしたが、それにしてもなぜ、私の家だけが特別どこよりも貧乏であったのか、子供心にも不思議でたまらないこともありました。

 かえしたにわとりが、ある程度に育つとそれを、にわとりの背たけぐらいの底の浅い大きなかごに何十羽か入れ、上は網で包み、それをてんびんの両方に二つずつ重ねて、父は朝早く行商に出かけてゆきます。すると私は、弟のめんどうをみながら一日中るす番をしているというわけですが、時おり、近所に住んでいる母方のおばあさんが見回ってくるのが関の山、食事の始末やらせんたくやら、どうせ満足なことはできないにしても、とにかく、よその同年配の子供よりはずっと家の役にはたっていたようですが、今、考えるとどんなことをしていたものかと思います。それでも一日中おとなの居ない私の家のねこの額ほどの前庭や縁側は、近所のまだ学齢前の子供たちのいい遊び場所でしたが、その子供たちがある日からプッツリと私の家へ寄りつかなくなりました。たまに、ひとりふたり来る子があると、その親たちは血相かえて飛んできて、いやがる子をむりやり引っぱって帰ってしまうのです。

「なんでやろか」

 と、はじめ、私はおとなの行動が不可解に思われましたが、その原因は幼い私にもすぐわかりました。それは、ついぞ、髪を、とかしてもらったこともない、まして洗ってもらったこともない、しり切れぞうりのわらのようにボサボサの私の頭髪に、おびただしいしらみがわいていたからでした。

 忘れもしません。子供心にそのことが自分でわかると、たいそう悪い事でもしたような、なんとも言えない劣等感におそわれて、弟の手をとるが早いか、家からほど近い竹やぶの中へ、逃げ込むように走りました。

 そして、重なり合うようにおい茂っている大きな竹の根かたに、いきを殺すようにしてかがみ込んでしまいました。

 母を失ってかまい手のない、きたない小さな女の子の頭髪の中は、人にさげすまれるこの虫たちのかっこうの繁殖場所だったわけです。結局、おばあさんによって、私のからだからその虫は取りのぞかれはしましたが、それ以来、私は竹やぶの中に、私の安息の場所を見つけていました。そこには、第一、私を白い目で見るおとなたちの目が届きません。

 竹と竹の間を一直線に無数の太陽の光線が美しいしまをつくり、ごくらくのような清らかな静かさがそこに現出され、まるで自分が、お姫さまになったように思えたり、季節々々でつばきの花が赤いかわいい花を咲かせ、ぐみやあけびが実り、小鳥のさえずりは私に歌いかけるように思えたりするのでした。

 雪の降る竹やぶは、入り交じる竹の葉をたわめている白銀のトンネルをくぐるのが、まるで夢の国のよう、ちょっとでも触れると、えり元へ冷たい粉雪が散りかかって現実へ引きもどされるのでしたけれど、こうして春も夏も秋も冬も、一年中、私は竹と遊び、竹と語り、竹を愛することに、自分の喜びを見いだすようになりました。

 浪花千栄子と竹の因縁は、こうして始まっているのでございます。それから五十年近くを経た今日、大好きな竹にかこまれて住めるようになりましたが、ある意味では夢を実現したこの上ない幸福者だと、感謝いたしているしだいでございます。

 母の死後、父は黙々とにわとりの行商に出ておりましたが、同じ年のよその子が皆小学校へ通うようになっても、父は私を入学させようとはいたしませんでした。小学校へ行く友だちの姿をたいへんうらやましくながめ、行けない自分を悲しくも思いましたが、私はよその子とちがうのだというあきらめの気持ちもあったようです。

 父は、学校へやれぬ申しわけにとでも考えたのでしょうか、学齢に達した私へのしつけをうんときびしくいたしはじめました。おなべやおかまの洗い方などには特に神経質で、底になべずみ(煮たきはいっさいまきをくべるので、なべのおしりに油煙のようなスミがくっつくのです)が少しでも残っていたりすると、手ひどくなぐるのでした。まして、御飯粒を一粒そまつにしても、それを見たが最後、半殺しの目にあわされるのでした。

 そして、朝早くかまどにまきをくべ、朝御飯の茶がゆをたくのはそのころから私の役目になってしまっていました。

 どうせ九歳やそこらの子供、下働きの女中とは名のみで、子もりが満足にできればいいとせねばならぬくらいで雇い入れられた道頓堀のその仕出し弁当屋で、この子は年の割りには掘り出し物や、と思われたとすれば、父のこの残酷なしつけのたまものと言わねばなりません。

 石川達三先生が、最近の御作の『私ひとりの私』の中で、ほとんどすべての過去の経験が年月のかなたに消え去ってしまった後に、わずかな記憶ばかりが点々と、遠い星のようにきらめきながら、私の中に残っている。この記憶の集積が、だれも知らない私なのだ。とおっしゃっていますが、私の記憶はドス黒い汚点のように、私の中に残っていて、とても、遠い星のきらめきにたとえられるようなものは何一つもございません。

 過去の上に、ただいまの私が立っているのだということは否定いたしませんが、ほとんどすべての過去の経験が、遠い年月のかなたにあとかたもなく消え去ってしまってくれることは、私の切なる願望でございます。

 私が小学校へも通わしてもらえぬまま、九歳の春を迎えた年、父は富田林の飲み屋の仲居さんをしていたといううわさのある女と再婚いたしました。

「御飯も、たかないでもええし、学校もやってもろてあげるさかい、こんどくる人、おかあちゃんと呼ばなあかんえ、ええか、ええな!」

 と、おばあさんは、そのひとが、いよいよ今夜嫁入りしてくるという朝、私にこんこんとさとすように言うのでした。

 私は、幼い胸をときめかしながら、翌日から変わる生活への期待で、おばあさんの言うことはうわの空で、ウンウンとうなずいていました。

 ところが、この後添いに来た母という人が悪妻の見本のようなひとで、朝寝はする、女房らしいこと、親らしいことは何一つできず、嫁入り道具に携えてきた三味線のつまびきで、真っ昼間からはやり歌を口ずさむという、今考えますと全くあきれた人でありました。

 しかし、幼いわたしは「お月さん、ちょいと出て松の影……ハイ、今晩は」と、後妻が歌っていると、かきねのまわりを、物見高い村の人がひとり寄りふたり集まりして、ヒソヒソ何か語り合うのを見て、ははあ、母の歌がじょうずなので、みんなよろこんで聞いているのだな、と思い込み、いささか、得意だったものでございます。いま考えますと、物見高い村の人たちに、白い目で見られていたわけですが、子供心にそれがわかるわけもなく、ピントの狂ったお話ですが、とにかく一応私は、この母が来てくれたおかげで、待望の小学校へ通えることになりましたので、かえって大喜びでございました。

 けれどもこの大喜びもつかのま、現実は、まるまる一年おくれているので、そのおくれを取り戻すことはとうてい不可能なことでした。

 はずんだ胸も、苦しみのためにペシャンコとなり、わずか二、三か月で学校へ行くことが、死ぬよりつらいことに思えてまいりました。たとえば形でおぼえた、「た」という字も、先生の背中にかくされて、どういう順序で書かれていくものかさっぱりわかりません。いろは四十七文字中、順序どおり書ける文字は数えるばかり、あとはかいもく処置なしです。となりの机、うしろの机をこっそりうかがえば、これは左手やら本やらで堅い城壁をつくってジロッと意地悪い目でにらみつけられます。

 おまけに三か月目の月謝が払えなくなりました。加えて、自堕落な母が、父のるす中に家出をしてしまったのです。

 私の小学校の、いや生涯を通じての学校生活というものは、ここで完全に休止符を打つこととなりました。

 私の学歴というものは、正味二か月足らず、それもまことに短い時間で、正式には学歴とも申せないものでございます。しかし、私はなんとかしてものを読むことができるようになりたい、なんとかしてひととおりの字を書くことができるようになりたい、という強い願望を持ちはじめ、それからと申すものは、おりにふれときにふれ、少しの暇も文字に親しむよう心がけました。

 仕出し弁当屋の下女になっても、この心はますます盛んになって、そのころは油揚げや焼き芋などを買いに行きますと、古新聞や古雑誌を四角に切って、一方をのりづけにした三角の袋に入れてくれるのが普通でしたが、その三角袋のシワをのばしてふところにひそめ、お便所へはいったとき上下のかなやふりがなを頼りに、その袋の文字のむずかしい漢字を一字ずつ覚えてゆくという方法で勉強いたしました。

「おちよやんの便所は、えらいながいやないか、便所の中で昼寝でもしてるのとちがうか」

 と、板場のこぞうさんや、先輩の女中さんなどによくいや味を言われました。

 執念のようなものにとりつかれていたのでしょうか、完全に、一つの熟語を頭に入れなければ便所を出ない念願を貫いたのですから、思い出すと我ながらあきれてしまいます。

 母が家出をすると、父は我を忘れたようになって母のあとを追い、捜し出して連れもどしてきました。

 昼間からゾロッとした着物を着て、何をするということもなく、三味線をひいて、「お月さんちょいと出て松の影……ハイ、今晩は……」など、口ずさんでいるというような女には、働くことだけしか知らぬ貧相な小さな村は、たいへん住みにくいところだったのでしょう。

 連れもどされる条件だったとみえて、それからすぐ、住みなれた村をあとに、私たち一家は大阪の南田辺へ引っ越すことになりましたが、ここでの生活もほんのわずか、母は再び家を出て行きました。よっぽど父は、その女にまいっていたというのでしょうか、こんどはまるで半狂乱のありさまで、女のあとを追って行きました。

 何日ぐらい、私と弟はふたりの帰りを、まるでなじみのない初めての土地で、肩を寄せ合い心細い思いで待ったことでしょうか。とにかく米びつにいっぱいのお米を、ふたりで食べつくしてしまっても、親ともいえぬ無責任なふたりのおとなは帰ってきません。

 ついに食糧はつきてしまいました。ただいまでも、近鉄阿部野線に桃ケ池という駅があると思いますが、そのころの私たちの南田辺の住居が、ちょうどその桃ケ池に近いところでしたので、池のほとりは子供たちのいい遊び場になっていました。私はふと、その池にひしの実が、水面をかくすように繁茂していることを思い出し、空腹のためにグズっている弟を促して池のほとりへ急ぎました。

 子供の手のとどくかぎりの、その池のひしの実が、私たち姉弟の当分の食糧となりました。さして広くもありませんが、その池を一周して、とれるだけのひしの実を食べつくしても、まだふたりのおとなは現われないのでした。

 ある日弟はポツンと申しました。

「ねえちゃん、おばあちゃんのとこへ行こうなあ」

 私はそれを聞くと「うん、そうしよう、おばあちゃんのとこへ帰ろう」と即座に答えました。

 ただいまの近鉄阿部野橋からの電車は、そのころは大鉄と申したのではないでしょうか。とにかく子供心に、来るときに汽車に乗ってきたのだから、帰るときも、線路に沿ってたどって行けば河内の祖母のところへ帰れるもの、と信じ込んでいたのです。むずかしく申せば、帰心矢のごときものは早くから私たちの心の中にあったのですが、そう思う底に、父の帰りを待つ気持ちもひそんでいたのだろうと思います。

 小さい姉弟は、思いたつとすぐ、線路に沿って河内と思う方角へ歩きはじめました。

 単線で、たまに通る電車を興味深く、線路ばたで見送り、あとはしっかり手をつないで私たちは黙りこくって歩きつづけました。どっちかが、何かを言えば、ふたりで、わあっと大声をあげて泣きだしてしまいそうな、たいそう不安な心境で歩きつづけていたに違いありません。

 そのうち高かった日は西へ落ち、夕暮れがあたりを包んでだんだん暗くなってきました。私たちは、空腹と疲れでもうヘトヘトになり、幸いちょうど目の前に建っていた農機具置き場のような小屋のわら束の上に、小さいからだを投げ出してしまいました。

 何時間ぐらいそうやって経過したのでしょう。私が深い眠りからさめて、ハッと気がついて横を見ると、うす暗い中に弟のかわいい寝息が聞えています。その弟の寝息は、そのときの小さい姉の胸をしめつけて、急に涙が出てきたことを、私はいまもはっきりおぼえています。

 そのうち、私の鼻は、なんとも言えない甘いおいしいにおいが、私たちを取り巻いていることに気がつき、突然、おなかがくーと鳴って急激に空腹をおぼえました。ごちそうということばも、ましてごちそうそのものも、私たちには全く無縁のものでしたけれど、生まれてこの方、こんなおいしいにおいをかいだことがないのです。

 ところが、そのにおいの実体は、私たちのすぐかたわらに、むぞうさに積み上げられている、いくつかのかますの中にあることを発見しました。

 それ以来、何十年、どうやら三度のものにもことかくということだけはなくなりまして、今日まで過ごさせていただきましたが、あんなおいしいにおいというものには、ついぞその後出会ったことがなく、それをともするとゆるみがちな、心のむちといたしているのですが、そのかますの中のおいしいにおいのもとは、サンドイッチに使ったパンの切れっぱしで、都心の洋食屋さんから集められた、つまりは残飯の一種というわけですが、ぶたの飼料になるものだとは、あとで知ったことでした。私は、弟をたたき起こすようにして、そのパンの切れっぱしを示し、無我夢中で手づかみにしてかぶりつきました。こうばしい、ほんのりと甘いような、そしてかめばかむほど、味わい深く、そしてほどよいかみごたえ、たぶん、弟もそうだったと思いますが、私たちはこの世で一番の幸福を感じて、うっとりしながらむさぼるように、そのパンの耳をかじったことでございました。

 そのうち夜はしらじらと明けはなれてきました。私たちは、その小屋でぐっすり一夜を明かしたわけです。私も弟も、ようやく人ごこちがつき、食べるテンポものろくなりだしたころ、気がついて前の方を見ると、ひとりのおじいさんがジロジロ私たちをながめまわしながら、不思議そうに近づいてきました。

「お前らどこの子や!」

 いきなり、しかられると思いきや、おじいさんは、やさしい調子で私たちに問いかけました。

「どこからきたんや、そしてそんなところで――何してるねん――」

 私は、たどたどしく一部始終を話し、そして「すんまへん」とピョコンと頭をさげました。

 そこは養豚場で、私の話を聞くと、幸いにも、おじいさんは父も、家の事情もよく知っている人でした。じごくでほとけの、このおじいさんは、そこの経営主だったのです。

「こんな小さいもんに苦労をかけさらして、ほんまにあいつはしょうむないやっちゃ――」

 養豚場のおじいさんは、目のあたり見る私たちの身のうえにたいへん同情し、ほど近い自分の家へつれて帰って、まるで自分の孫のように親切にしてくれるのでした。そしてにぎり飯をたくさん持たせたうえ、なにがしかの汽車賃までくれて

「河内へ帰ったるかて、おばあちゃんが困らはるばっかりや、こんなんしてる間にも、おとうちゃんが帰ってるかわかれへん、とにかくこれ持って、もういっぺん、南田辺へかえり、な、おじいちゃんが警察へねごたかて、きっとおとうちゃんが、南田辺へ帰るようにしたるさかい、な、わかったやろ」

 と、じゅんじゅんと説き聞かし、もよりの駅まで、私たちを荷車に乗せて送ってくれるのでした。後年知りましたところによれば、このおじいさんは、父の父、つまり私の祖父と親しかった人で(祖父は、私の記憶にはっきり残っているのは死ぬまでチョンまげを結っていました。私の母とほとんど時を同じくしてなくなっていました)、父は若いときから何かと世話になっていた人なのでした。


 他人から、報われることを考えない、ほんとうの真心のあたたかさを身にしみて感じ取ったのは、この養豚場のおじいさんただひとり、いまも私は、ときどきそのとき受けた無量の愛情に、思わず手を合わして感謝いたすのでございます。

 おじいさんに教えられたとおりの駅で汽車を降りて、一昼夜あけた南田辺の家へ帰りつくと、その夜、申し合わせたように父は、母を伴って帰宅いたしました。

 ところが、母を連れもどす条件とかで、私は家を出されることになりました。小学校もウヤムヤのうちにやめさせられた九歳の女の子は、「弟はしょうがないがあの子はイヤ」という、まるで梅干しの種でも吐き出すような一言で、むぞうさに、世の中へ放り出されることになりました。

 いやとなったらこんりんざい、というわけでしょうか、一夜あけると、父は、さっそく私を南河内の祖母のもとへつれてゆき、額をよせて何かヒソヒソ語ったあげく、「お前はねえちゃんやさかい、おばあちゃんやおばちゃんの言わはること、よう聞いて、かしこかしこしてな、あかんで――」。形式的に、二、三度私の頭をなでて、そそくさとその場を去ってゆきました。
 おばあさんは、いやおうなしに押しつけられた形でしたが、自分の一存では計らいかねることなのでおばとも相談し、ある、つてを求めて、私を大阪へ女中奉公に出すことを決意したのです。

 そして、九歳の秋もすでに深く、高野や生駒の山に初雪のたよりが聞かれるころ、大阪へつれて行かれましたが、おりから道頓堀は、五座のやぐらの梵天もはでやかに、たくさんののぼりは風にはためき、浜側に軒を並べる、芝居茶屋の軒から劇場のひさしへ、十重二十重に張りめぐらされた、人気役者の、紋や家号を染め抜いた色とりどりの小旗の波、人は、その旗のトンネルの下を、引きも切らずにゆき来していて、はじめて見る道頓堀の色彩的な美しさとにぎわいは、いきなり幼い私のどぎもを抜いてしまいました。
 表の、はなやかな明るさとはうらはらに、私が「きょうから、おちよやん、と呼ばれたら、ハーイ、と大きな声で返事せないかんで」と命じられて、おぼろげにその日からの自分の運命の急変を自覚し、子もり兼下女として雇われることになった仕出し弁当屋には、子供心にも冷たい重苦しい空気の流れが、敏感に感じ取れました。

 当時の大阪劇壇は、歌舞伎は先代の中村鴈治郎さんの全盛時代、それに続いて先代實川延若、先々代中村梅玉、先代高砂屋福助、尾上多見蔵、尾上卯三郎、先代中村雀右衛門、市川右團次、先代片岡我童、中村魁車、林長三郎(現、林又一郎)、という名優花形が、それこそきら星のように芸を競っていたはなやかな時代で、ただいまの鴈治郎さんは中村扇雀を名のっておられ、片岡秀郎さん、中村福太郎さんなどと、おとうさんとは別に青年歌舞伎一座を作って、たいへんな人気を博しておられました。

 新派は喜多村緑郎、小織桂一郎、木下吉之助、都築文男、英太郎、福井茂兵衛などの諸先生が成美団という劇団を作って、角座を本城にしておられ、これまた大評判でした。そして、ちょうど私の奉公に出たころ、ただいまの新国劇が、その若々しい意気と熱で、大阪中の人気と話題を一身に集めかけていたのではないでしょうか。

 私がおもりをしていたぼっちゃんが、なぜか久松喜世子、久松喜世子という名を口にしていたことを覚えています。その仕出し弁当屋の御主人が新国劇びいきで、沢田正二郎先生や久松喜世子先生が、その家へ出入りされていたのではあるまいか、と想像されます。

 そのころの芝居茶屋と申しますのは、プレイガイドであり、食堂であり、お客さまの休憩所であり、ときにはひいき役者とお客様の用事の橋渡しをしたり、またはお見合いの場所となったり、なかなか複雑な性格を持っていまして、見物の、良家の御寮人やお嬢さん、芸者衆などは、着替えの場所にもお使いになったものです。

 昼夜二部制とか昼夜二回とかの興行は、大正十二年の関東大震災以後のことで、そのころのお芝居は午後一時とか二時とかに(おそくても三時)開幕して一回興行、終演はたいてい十一時前後、至極のんびりした時代ではございましたが、見物のお客様は劇場で一日の大半を費やすことになります。そのうえ、幕間がたいへん長く、二、三十分くらいで開幕すると、お客様のほうが「えらい早いやないか」とびっくりなさるくらいでした。

 したがって、茶屋へ昼寝に帰ったり、着替えに帰ったり、それはそれでお客様にとってまたたいへんたのしいもののようでございました。

 しかし、その茶屋は、食事だけは自分のところでは作らず、おのおの特約をしている仕出し料理屋から、お客様の御注文に応じ、お好みのものを取り寄せるというしくみ、お客様によっては二重弁当を劇場へはこんでくれ、とおっしゃるかたもあり、あの芝居の何幕目の幕間に、道頓堀川の見える茶屋の二階座敷で、ゆっくりいっぱいやりたいからとおっしゃる組もあり、というしだいで、その弁当を、値段に応じて調製して、御注文の時間までに、芝居茶屋へ納めるのが、私のつとめさきの仕事でございます。

 今日は中座、成駒屋の「井菱会」六百、松島家の「いてふ会」四百五十、堂島の「松美会」三百、というチョークの文字が、大きな黒板に書かれると、私は指を折ってその数字をたし算するのが習慣になってしまいました。そして、総計ができると、

「わあ、あすは、千三百五十もあるわ、えらいこっちゃ」

 と心の中で悲鳴をあげるのです。なぜなら、塗りの二重弁当やら半月の幕の内弁当やらの、よごれた器を、ていねいに、みがきあげるように洗うのが、私に与えられたそこの家での一番最初の仕事だったからでございます。

 弁当箱を洗いあげて、そこらをふきそうじして、ほっとしている間もなく、なべかまを洗う仕事が待っています。せいぜい弁当箱洗いくらいが関の山だろうとたかをくくられていたのが、やらせてみると比較的段取りもよく、さっさときれいな仕事をするので、これやったらいける、と思われたのでしょう。三日目くらいからなべかま洗いがふえ、さらに、お米をといで水かげんをして、それをたきあげる、つまり御飯たきの仕事がふえ、これで起きている間中、完全に寸分のすきもなく働いていることとなり、もし万一、少しでも時間があれば、子供のおもり、使い走りがちゃんと待っています。少しでも時間があれば、というより、ほとんどこれらのことがオーバーラップしておりましたから、子供にとっては前代未聞の重労働でございました。これはただいま考えて、全くひどいものだったと述懐されますだけのことで、当時は、それがほんとうだと信じていましたし、世間も封建性の強い時代で、だれひとり貧乏人の子に関心を持つ人もありませんでした。

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