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朝ドラ「おちょやん」モデル・浪花千栄子 唯一の自伝『水のように』特別公開!言い知れぬ悲しさと屈辱を感じた16歳…耐えられたのは芝居のおかげだった

 杉咲花さん主演のNHK連続テレビ小説「おちょやん」。モデルとなった女優・浪花千栄子さんが残した唯一の自伝『水のように』には、貧しかった幼少期から、奉公先での苦労、女優として成功をおさめるまでが、心のままに綴られています。「おちょやん」応援企画として特別に、自伝『水のように』を期間限定で全文公開! ドラマと合わせてお楽しみ下さい。

【第1章】私の生きてきた道――そして、私の生き方②

 ちょうど、第一次世界大戦のころで、子供心にも、浮き立つような、よそのおとなの世界の好景気ぶりが感じられ、どこそこのお大尽が、ゆうべ宗右衛門町のお料理屋で、五十銭銀貨を節分の豆まきのようにまきはった、とか、えらいこっちゃないか、堂島のだれそれはんが新町のお茶屋で、十円札、ほんまの十円札やで、芸者やら仲居やらの、ようけ見てる前で、その十円札、クルクルッと巻きタバコみたいに巻いて、なんと、びっくりさすやないか、それに火ばちの火をうつし、たばこの火をつけはったんやて、などという、ばかげた話が、陽気に、うらやましそうに、おとなの話題になっていたことを忘れません。

 そういう話は、私に無縁の世界のことで、私は、はじめからおばとそこの家との条件らしく、一銭の給料ももらえず、着せてもらって食わせてもらうだけでした。着せてもらうといっても、その家のこいさんやいとはんのお古の仕立て直し、食わせてもらうといっても、ほとんど三度とも立ったまんま台所の隅で、あわててかっ込む、というような食事でしたから、あのときのぶたの飼料のパンの耳以上のものを食べた記憶がありません。

 そう申しましても、前に述べましたように、便所の中で勉強をすることだけが、ほんのわずか、一日の中で自分を取りもどし、自分もひとりの人間なのだ、ということを自覚する、とうとい時間でありました。

 その家の、おえはん(お家はん)が、たいそう奉公人にはきびしい人で、特に、物事は最初のしつけがたいせつというわけで、私には、それこそ、はしのあげおろしまで目を光らせて、

「それそれ、それはそないしたらあかん」
「さいぜん言うたばかりやないか、物事は、もっと、気い入れてやんなはれ」
「あほ! そうやあれへん、こうするのやがな」
「何してなはんねや、早うせんと、寝る時間が、のうなってしまいまっせ」

 と、つきっきりの指導とべん撻は、一歩まちがうと、情け容赦ない、現今の流行語のしごきになりかねないものでした。

 きれいに、みがきあげるように洗ったつもりでも、弁当箱に一粒の飯粒がくっついて残っていたりしようものなら、

「これ、なんや、もう一ぺんようよう洗いなはれ」

 と、目にかどたててこづき回されるのでした。

 子供心につくづく悲しくなったのは、御飯をたいておはちにうつし、そのあとのおかまを洗うとき、じゅうぶん注意しているのですが、御飯粒が流れ、それが、水の流れ口(関西でははしりと申します)の、金網の袋にたまる仕掛けになっているのですが、そのいわば、ものの洗いカスの中から御飯粒だけよりわけて食べさせられることでした。

 御飯粒をそまつにするといって、いきなりなぐられたことは、父で経験もあり、それ以来、お百姓さんが汗水たらして作ったとうといお米だから、一粒でもむだにしてはいけない、という鉄則のような考え方に支配されていましたから、よくわかってはいましたが、私だけにそれを、「それ、そこにも一粒残ってるがな!」と指さされて、私がそれを自分の指でつまみ出し、口へ持っていくと、それがノドの奥を通り越すまで、じっと見つめられているのには、言い知れぬ悲しさを感じました。

 老眼鏡の奥から私のすることをじっと監視していた、冷たいおえはんの目の光りは、今でも忘れることではありませんが、あの情景を屈辱と申すのでしょう。

 父と、このおえはんとから御飯粒はもとより、物のとうとさを、いやというほど、まるで鼻先へ押しつけられるようにして飽くことなく教え込まれた私は、それが自然に、いい意味で習性となり、ただいまでも包み紙一枚、割りばしの使い古し一本、捨てずに何かの用に役だてております。そのうえ、ときどきゴミ箱の中を点検したりして、娘や家の者たちに、顔をしかめられることがありますが、お菓子箱のカラ、毛糸のクズ、ちびたげたなどそんなものでも、ポイッと、ものを捨てるという心をいましめるだけで、けっして、五十年前の、その家のおえはんのようなまねはいたしません。

 しかし、このおえはんは、考えてみますと、私の第一番目の社会学の師匠でもありました。御飯粒は、じょうずに拾うて、すずめのえさにでもしてやんなはれや、というようなあたたかい思いやりの気持ちが含まれていたならばと、残念ではありますけれど。

 お米をとぐ、水かげんをする、と、簡単に申しますが、これが約六、七升のお米を一回にこなすのですから、おかまはもちろん一斗だきという大きなもの、普通では、中はおろか、ふちへも手が届きません。しかし、それをするのが私の役目ときまったのです。そこで、いろいろ考えあぐんだ末、レンガを見つけてきて五、六枚重ね、その上に乗りまして、どうやら教えられたとおりのことができるようになりました。そして水かげんができると、近くに居合わす調理場の男衆に「おたの申します」と頭を下げて、そのおかまを、かまど(関西ではおくどはんと申します)にかけてもらい、まきをくべるだんになるわけです。

 さて、またそのまきですが、これがくぬぎの堅木の生木ときておりますので、点火するまでがなかなかの苦労、いっしょうけんめい、必死になって火吹き竹を吹くものですから、くちびるの皮膚が破れ、血がにじむこともたびたびでした。しかし、そんなに難儀をしながらたきあげる御飯でしたが、一度も失敗をしたことはなく、ほっかりとした、ツヤのあるいい御飯ができ上がるものですから「あんた、ごはんたきに生まれついてるんや」と、ほめられたものでございます。見えない、神の御加護、というようなものを子供心にも感じて、このことはほんとうにうれしいことでございました。

 しかも、たきたてのあつあつの御飯というものは、お客さまの御弁当用のもので、それは自分とは全く縁のないもの、と割り切って信じ込んでいたのですから一場の哀話です。

 はじめのうちは緊張していますから、そうでもありませんでしたが、仕事にも慣れ一応手順をのみ込んでしまいますと、疲労と睡眠不足から居眠りが出るようになりました。

 それが、

「お前は、手づま使い(手品師)の子と違うか」

 とひやかされるほど、不思議に仕事をチャンとしながら居眠りをしているのですから、自分では居眠りをしているという自覚がないのです。

 そのうち、背中がヒリヒリするのでハッとして我に返ったことがあります。着物と、帯の結び目のところが中からいぶりだして、別の男衆にもみ消されるまで、自分では気がつきませんでしたが、通りすがりの板前か配達の男衆かが、おもしろ半分私のえりもとへたばこのすいがらを投げ入れたのでありました。それは、小さいやけどですみましたが、そんな意地悪は、数えたてれば、限りのないほどで、せっかく、苦心してまきに火が燃えついたと思ったら、ちょっとのすきに、それを引っぱり出しておもしろがるおとなもおりました。どういう神経でそういうことができたものか、今もってがてんのいかないことですが、私も、無表情で、陰気で、ぶきりょうでかわい気のない、相手になんとなくいじめてやりたい気を起こさせる女の子だったのでございましょう。

 とにかく、日本広しと言えど、わずか十歳の女の子で、自分の意思でものを言うことも笑うことも遊ぶことも、いっさいを封じられていた子供(というより知らなかった子供というほうが適当かもしれませんが)は、自慢ではありませんが、私ひとりではないでしょうか。そのうえ、十歳で、一度もしくじらないで一斗ちかく(約十五キロ)の御飯をたきあげたり、千人分のお弁当箱を洗ってふいて、なんてことをした女の子は、おそらく私ひとりでしょう。その意味では、私は世界一の女の子で、今なら、さっそくNHKの「私の秘密」が、うっちゃってはおきますまい。

 今だから、笑って、おもしろおかしくこんなお話もできますが、つらいとか苦しいとか申すことは、私のやったことより、もう少しましな、そしてもう少し楽なことをさすのだ、ということだけは、ハッキリ申せます。

 ところが驚くべきことには、この世界一の女の子は、だれが来ても長続きしないことで定評のあるその仕出し料理屋で、なんとそれから八年、えいえいとして働きつづけました。

 文字も、どうやら一応は読めるようになりました。一つのものを足がかりにして、さらに新しいむずかしいものに取り組んでゆきました。理解できるまで一つのものを読みつづける、という方法しかありませんから、のろのろしてはいますけれど、深めてゆくということが勉強だと悟りはじめました。

 ちょうど二年くらい過ぎると、仕事のすべてのことの段取りが自分でできるようになり、物事にめはしもきき、したがって自分の時間が、少しずつうまく取れるようになりました。要領がよくなったというわけではなく、少しずつりこうになり、少しずつ都会の娘になっていったということでしょうか。

 芝居茶屋や劇場へ、お重箱や弁当がらを、あげに行くようになりますと、さっそく花道の揚げ幕から、芝居をのぞくことも覚えました。ところが、あげに行く時間はほぼきまっていますから、角座の新派でも中座の歌舞伎でも一興行中、同じ芝居の同じ場面ばかりしか見られません。しかし、これが幼い私にはたいへん興味のあることでした。登場人物のセリフは四、五日もすると、その動作とともにすべて私の頭の中へ丸暗記ではいってしまうのです。

 おぼえてしまうとおそらくは、自分もいっしょに身ぶりをして、そのセリフを口の中でしゃべっていたように覚えています。

「けったいやなあ、あの役者、セリフまちごうてるわ」
「あっ、成駒屋はん、今夜はちょっと、手え抜いてはる!」

 などと、おこがましい批評精神が芽ばえてきはじめ、髪かたちから、くしかんざしの用い方、着付け、着こなしのぐあいなぞを子細に観察するようになってゆきました。

 この目のあたりちかぢかと接する、先代中村雀右衛門さんのお三輪、先代高砂屋、中村福助さんの夕霧、喜多村緑郎先生の「侠艶録」の阪東力枝等、それに、売り出し中の花柳章太郎先生の新鮮で若々しい演技、富士野蔦枝、三好栄子、玉村歌路などというかたがたの女優としての魅力的な演技、もし、ただいまの私の演技に、いくらかのとりえがあるとお認めいただけるなら、それこそ、きら星のようなこれら諸先輩の演技を、飽くことなく、いつ知らず自分のからだで感じ取っていたたまものでございましょうか。

 ほんとうに今思い出しましても、喜多村緑郎先生の阪東力枝の、毎日、新しい演技の工夫研究のさまは、子供心にも身の引きしまる思いがいたしましたことを忘れません。門前の小僧である、習いはじめは十一歳そこそこの女の子も、とうといお経をいつの間にか覚えて、それを自分の肥料としていたものと思われます。

 月謝も払わず、ときおり、トヤ番のおっさんに「おちよやん、いつまで、油、売ってるのんや」と小言をもらうくらいが関の山で、自分ではついぞ役者になろうなどとは考えたこともないのに、私は丸六年間というもの、同じ芝居の同じ幕を(それがかえってたいへんな勉強になったわけですが)、引き込まれるような心持ちで見つづけたのですから、こんなりっぱな設備と、こんなりっぱな先生がたを持つ俳優学校の卒業生は、これも私ひとりくらいのものか、と存ぜられます。

 そして、十七歳過ぎるまで貧乏な者の子は、役者などにはとてもなれるものではない、と頭から思い込んでいましたから、芝居が死ぬほど大好きになり、一日見ないと病気になるくらいだったのですけれど、あくまで無慾でした。なくなられた花柳章太郎先生と、念願かなって、先年ごいっしょの舞台を踏ませていただきましたとき、

「それが、お千栄さんにとっては、たいへんよかったんだよ。そのとき、一意発心して女優の弟子にでもなっていたら、今日のお千栄さんじゃなかったかも知れないよ」

 とおっしゃってくださいました。過分のおことばと存じますが、無慾は大慾に似たり、と申すことでございましょうか。

 ちょうど、こういうお話のついでですからもう少し、そのころの道頓堀のお話をくわしくいたしましょう。

 前にちょっと申しあげた道頓堀五座と言いますのは、戎橋から東へ、浪花座、中座、角座、朝日座(ただいまの東映あたりの位置でしょうか)、弁天座(ただいまの朝日座)の順でこの五つの劇場を指すのですが、その向かい側、つまり、浜側に、全盛時には四、五十軒も軒をつらねていたと申すのが芝居茶屋で、私が仕出し料理屋へ奉公に出ましたころにも、ざっと思い出しても、芝亀、三亀、堺重、近安、大義、兵忠、大佐、大吉、丸市、大弥、岡嶋、稲照、松川等が、道頓堀なればこその情ちょをただよわせておりました。

 この茶屋には、川に面したところにほとんどの家が桟橋をかけておりまして、そこへ自由に舟がつく仕掛けになっておりました。横堀のだれそれ様、京町堀のだれそれ様、お着きやでえと言う船頭さんの声がすると、店の屋号を染め抜いた赤や紫のそろいの前だれをひらひらさせながら、仲居さんたちが総勢でお出迎え、お客はひとまず二階のお座敷へ落ちつき、着がえたり、お茶を召し上がったりしたうえで、茶屋の焼き印のついたげたをつっかけ、おのおの申し込んでおいた劇場へ案内されておいでになるというしくみ、御ひいきには、それぞれ受け持ちの仲居さんがきまっていて、お飲み物から御食事まで「いつものとおりでええわ」と言われれば、ツーカーで承知というしだいです。

 中には芝居見物はつけたりで、ただいまで言うデートの場所になったり、小さなパーティの場所になったりもして、なかなかおつな役目をいたしたものです。

 したがって、芝居茶屋と役者の関係は、中には親類づきあいのような深い交流も生じたりいたしました。後年、私と結婚いたしました渋谷天外さんも、芝居茶屋、岡嶋さんのぼんぼん同然の扱いを受けていられましたし、私もこの岡嶋さんには、ひとかたならぬお世話になっております。

 道頓堀川の水量も、今よりはずっと豊富で水も澄んでいて美しく、戎橋や太左衛門橋の上から川面を見おろすと、さかなの泳ぐさまが見えたくらいで、道頓堀川でとれたうなぎは特においしいなどと申しました。「ほんまかいな」と言われそうなお話です。

 それに、夏の夜などは、特に情ちょがありました。紅ちょうちんや、涼しげな岐阜ちょうちんをつるした屋形船が、静かに行きかい、舞台で見おぼえのある役者衆が、御ひいき筋とさかずきをくみかわしている情景等がながめられ、宗右衛門町のお茶屋から聞こえる三味たいこの音が、まるで、芝居の下座音楽のような効果を出しておりました。

 ここらのけしきを上方風とでも申すのでしょうか、東京の隅田川べりの花街情ちょとも大いに違っていたようで、一口で言うと、極彩色のあでやかさでございました。第一次欧州大戦の直後で、世も人も、特に経済都市大阪は、うけにはいっていた時代だったのでございましょう。私をのぞくすべての人はのんびりと、そして豊かに暮らしている人ばかり、という印象が、強く子供心に残っております。

 私をのぞくすべての人、と申しあげましたが、お正月だから晴れ着を、お年玉を、お盆だからやぶ入りを、というような、人の子並みの扱いを一度も受けたことのない私ですから、世の中の景気の良さも悪さも直接なんの関係もない、私にはよその世界のできごとだったからでございます。

 私の恩人のおひとりである、映画監督の吉村公三郎先生が、「西陣の姉妹」をおとりになるとき、母の役を、東山千栄子さんと私との、ふたりの中から選ぼうとなさいました。ところが東山さんのほうはすでにおふたりとも、御存知よりの間がら、私とは初対面で、よく御存知ないのですが、京ことばが使える女優というので白羽の矢をお立てになったらしいのです。あとで知ったことですが、この起用には、大映の中泉雄光さんの陰の御尽力があったのでございます。中泉さんの御紹介にて初対面のごあいさつをしてお話を伺っているときから、吉村先生のテストは始まっていた訳ですが、いよいよふん装テストや台詞テストのだんになると、先生は、思い迷ったようにこうおっしゃるのです。

「東山さんは、見るからに、家の没落という一大事に遭遇しても、何ら打つべき手を知らぬ苦労知らずに育った、弱々しい大店の奥様にはなれるが、京都弁が難関となるし、あなたは、たとえだまって病床にふしていても、家を再興できる奥様になってしまうだろう。東山さんに京ことばを教えることがむずかしいか、あなたの身辺からただよう男まさりの勝気なものを抜き去ることがむずかしいか、僕はあなたにお目にかかった初めから、迷っています。

 しかし、脚本の指定に忠実だと、前者の難関を突破したほうが無難のような気がします。そこで、母の役は、十中八九東山さんにやってもらうことにして、あなたには別の役で顔を出してもらうことにしようと思います。

 ですがね、きょう初めてお会いして、浪花さん、別の意慾がわきました。あなたのその持ち味のムードを十分生かしたもので、一本作ることをお約束しますよ」

 そのお約束は、ありがたいことに、それからほどなく東映で「暴力」となって果たされましたが、この吉村先生のそのときのおことばは、いろんな意味でショックでございました、と同時に、私の自己再発見の口火ともなりました。役者となったからには、こじきもお殿様も、強い人も弱い人も、やれねばうそだと単純に考えてきた私でしたから、あなたの身辺にただよう男まさりのムードなどと、そのものズバリを言われたようで、すっかり恐縮してしまったものでございます。

 物心ついてから、あどけなさとか、かわいらし気とか、そういう子供らしさの育たない土壌の中にほうり出され、美しくあれ、明かるくあれという、祈りや願いの反対側で育てられた女の子ですもの、そして十七歳までは、ただひたすらに、働け働け、とおとなに、文字どおり馬車馬のようにコキ使われ、自分もそれを宿命とあきらめて、自分だけで自分を守り生きて来た女の子ですもの、吉村先生に見抜かれるまでもなく、洗ってもちょっとやそっとでは落とし切れない墨汁の汚点のような、動物の自衛本能に似たものが心の中にひろがっていて、それが自分でも気づかぬうちに、ヒラリと表面へ現われる、とでも申すのでしょうか。男まさりの勝気なムード、とは、吉村先生なればこそおっしゃってくださった演技への御注意とも、人間へのアドバイスとも受け取り、今もって感謝いたしているしだいでございます。

 気心の知れたお知り合いのかたや、ファンのかたと御一しょに、お茶や、お食事などいたしますと、きまり文句のように、必ず一度は言われることがございます。

「浪花さんは、がんじょうなからだつきしていらっしゃるわね」
「先生は見るからに、エネルギッシュですのねえ」

 それこそみじんも悪意のない、修飾のない卒直な御ことばなので、こちらも卒直に、必ずこう答えます。

「とにかく、物心ついてからずっと、それ働け、やれ働けで、ただの一分も動かぬときはありませんでしたから、体格が骨太にでき上がっているのですよ。ぜい肉のつく余地のないほど、骨組みが太いのですね。私の取りえは、このからだの骨組みが、ガッチリでき上がっている、ということだけですよ」

 大松さんにきたえられた、ニチボーの選手のかたがたとはちょっと趣をことにしますが、私が割合、この年になりましても、体力では若いかたに負けず、くっついて行けますのは、それ働け、やれ働けのたまものではございますが、そのために精神までが骨太になっているようでは絶対にいけません。

 悲しみのときは素直に泣ける神経と、楽しいときはくったくなく笑える神経を持ち、この心からさいぎ心が去り、しっと心が消え、円満に近づき、常に心にあふれる愛情を持ちたいものと、私は吉村先生のおことば以来、ひたすらに心掛け、精神修養いたすことにつとめてまいっておりますが、さて、答えはなんと出ますものやら、三十歳を過ぎてからの人間修業のむずかしさをしみじみ感じるしだいでございます。

 考えますと、九歳の秋から十七歳の秋までの、まる八年間、この、道頓堀の仕出し料理屋の女中奉公時代が、私という人間が、造り上げられ、形づくられるためには、一番重大な時期であったのでございます。

 目もつり上がるくらい、かたく結った、やっこさんのようなオチョボ髷、ひざまでの短い筒そでのじみな柄の着物(ニコニコがすりという安ものが、はやっていました)、おとなのだて巻きほどしかない幅の、古友禅と黒じゅすを打ち合わせた帯を、人に結んでもらえば貝の口に、自分ではそれは結べずグルグル巻きの立て結びが関の山、それに着物のすそより長い前だれというのが、冬はあわせ、夏はひとえに変わるだけの、私の八年間を通して一貫した姿でございました。

 そんなものだと思って、盆も正月も平気でそれで過ごしてきましたが、さすがに十六歳を迎えたころ、芝居茶屋の同じ年のおちよやんが、おとなになった印に髪も、前髪や、びんの出たものに結いかえられ、たもとの着物におたいこの帯を結んでもらっている姿を見て、電気に打たれたように自分の身なりに恥ずかしさを覚え、「わたしも、あんな着物を着て、あんな髪が結いたい」と、強く願望するようになりました。

 仕事をしているときは、全く忘れておりますが、お使いの行きかえり、呉服屋のショウウインドウの前など通りかかりますと、急に、この願いは頭をもたげ、ガラスに顔をくっつけて、人形が着ている着物の柄や、髪かたちを子細に観察し、夢見ここちになるのでした。

 この世の中にも、こんなきれいなものがあったのか、そして、女というものは、きれいにするものではないのか。

 夢見るような気持ちの底から、そんな発見や疑問がわいてきて、それが胸いっぱいにひろがると、私は思い出したようにいちもくさんに主家へ帰ってきました。「思い切って、言ってみよう」、そういう、勢たった気持ちでした。

 おりよく帳場に居合わせた主人の前に手をつかえて、おそるおそる、私も十六になったのだから、近所のだれそれさんのような髪に結わせてほしい。そして、着物もたもとのある、帯もおたいこに……と、みなまで言わぬさきに、主人のば声が飛んできました。

「なんや、しょうむない、急に色気づきよって……あほも休み休み言うもんやで」

 大きな声におどろいて、ぼんやりしている私の頭をこづき回すようにして、

「どつかれるで、御大家のとうはん(お嬢さん)かなんかになった気ィでいると」

 と、主人は憎々しげに言うと、私をダルマをころがすように押し倒して、人をばかにしたように笑いながら、その場を立ち上がって行きました。

 私は急に悲しくなり、それが怒りの気持ちに変わっていくのを、ハッキリ知りました。生まれて初めての、感情の激発を経験いたしましたのはこのときです。

 いくら人並みの扱いをしないにしても、あんまりひどい、と思うと、とっさに無理解な主人への報復は、そして、みじめな自分を救う道は、死以外にはない、と決意いたしました。

「死んでやる」、天に向かって、私はそう言うと、せきを切ったように、すべてのくやしかったできごとの思い出が、襲いかかるように思い出され、ここで死ぬことこそ、当然、自分のたどる道のように思えてきました。

 二、三年前の冬。

 霜焼けでくずれた、まるで物をにぎる感覚を失っている手から、買物の二銭のおつり銭が、いつの間にか落ちてしまって、ハッと気がついて、法善寺から千日前へ抜けるうす暗い小道を二度も三度も、はいずり回るようにして探したが見当たらず、どうしたものかと思案にあまった私は、窮余の一策、法界屋のまねをして、二銭を恵んでもらおうと、けなげなことを思いつきました。法界屋というのは、三味線や月琴を伴奏に、お面をかぶったように、顔だけ厚化粧をした娘が、家々の軒ばに立って、「歌わしておくれやす」と、俗に法界ぶしといった卑俗な歌を歌って物ごいをする、下層の芸人のことです。当時の大阪の町には、たいへん、この法界屋が多うございました。子供心に、なんとかせねばならぬ二銭を調達するために、ふと考えついたこととはいえ、情けないようなお話です。しかし、そのときの私は必死です。

 二度目の母がいつも歌っていたあの歌、

「お月さん、ちょいと出て松の影、ハイ、今晩は、おっちゃん一銭、はり込んでちょうだい!」

 と大声を張りあげて、最初に飛び込んだ浪花座の隣のかまぼこやでは、「だれや、なんや仕出し屋のおちよやんやないかいな、おことわりや」と、何をおとなをばかにしてという顔つきで断わられ、二軒目、三軒目も、笑い飛ばされて相手にもされず、四軒目の薬屋さんで、はじめて訳を聞かれました。私は、やさしく聞かれると声をあげて泣きじゃくりながら事情を説明いたしました。すると、温顔の薬屋の御主人は「そんなんやったら、これ上げるさかい、早よう持っていんで御主人にあやまったらええわ」と私の手に、銅貨をにぎらせてくださいました。わずか二銭の御恩でも、千万金にも替えられぬことと、今も感謝の念を忘れていません。

 さっそく、それを家に持ってゆき、これで許してもらえると「すんまへんでした」と銅貨を主人の前へ差し出すと、

「落としたんならいたしかたないやないか、とでも言うかと思うて、自分でどこぞへかくしといて、わしをためしにだましよったんやな、まるで曽我廼家か楽天会の芝居やがな、わが手に持ってて落としたとは、ほんまに、末おそろしいおなごや」

 と、あべこべにとんでもないぬれぎぬを着せられて、くやしくて悲しくて一夜まんじりともしなかった私でした。

 どう言い訳をしようとも、あたたかい心でそれを理解してもらおうなど、とうていできない相談だとわかると、すでに反抗の精神が芽ばえている年齢の私は、せめて、くやしさの心やりに、九日間のハンガーストライキを思い立ち、翌日からそれをやってのけましたが、これにはさすが、主人も、ふりあげたゲンコのやり場に困ったような顔をしたものでした。映画のフラッシュバックのように、断続的にこれらの場面が私の脳裏をかすめ、死ぬことが、一番自分を解放してくれるよい道であることを確認いたしました。

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