日記75  それを処分する権限

 以前、世の中の問題の多くは管理の問題だとかほざいたが、ちょっとちがうかもな、という気がしてきた。たぶん、ことは「それを誰が(権限をもって)処分する/されることができるか」という要素が多いのだろう。これは『なめらかな社会とその敵』を読んでから思いついたことだ。『なめらかな社会とその敵』では、社会を生物の延長上にあるものとみなして新しい社会の構想「なめらかな社会」を描きだそうとした。それについては措くとして、生物は資源を自らのもとに囲いこみ、自己維持のスキームを組む、みたいなことが書いてあって、国家や個人もまた、自分の範囲に物事を囲いこんで、自分以外と自分とをはっきり区分けする。ここで所有の概念が発生した、と著者の鈴木健はいう。
 さて、ものを処分するためには、そのものに対する処分権が、処分する者になくてはならない。そして多くの場合、所有権がある者に処分権がある、というのが直感的に理解しやすいと思う。
 ここでひとつの問題が生まれる。仮にある人が自分のものを処分しようとする一方で、かれより立場の上な人はそうさせたくないとする。このとき、立場が上の者はそれを止めようとするだろう。で、それが何に基づくかといえば、立場が上の者のもつ処分権である。実際にはそんなものないはずなのだが、立場が上の者の中には、かれより目下の者に対する処分権をもつと思っている人が少なからずいる(ビッグモーターは部下の生殺与奪権を管理職に与えていたね)。だから、目下の者に属するものの処分にあたっても、自分の、その処分しようとしている目下の者への処分権に基づき止められると思うのである。
 そしてこれは物理的なものの処分のみならず、本人の自己決定にも及ぶ。自分がどうするのか決めるということは自らの処遇を決める、すなわち処分を決めることであるから、それを差し止める力があると目上の者が勘違いしているわけである。
 やや牽強付会なきらいはあるが、こういう思いちがいで起こるトラブルというのは、実は相当蔓延っているのじゃないかと僕は思う。

(2023.11.5)

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