日記131 安部公房と井上陽水

 Twitter(現X)で、安部公房と井上陽水は同じカテゴリだと言っているツイート(現ポスト)を見かけた。僕もこれには同意するところがある。両者とも無国籍な作家/歌手だと言われ、作品の雰囲気からそう思われがちなところはあるだろう。しかし、実際のところはそれは誤りではないか、と思う。
 安部に関していえば、確かに日本のナショナルなものへの愛着は薄く、舞台がどこでも通用しそうな作品も多い。陽水にしても、いまいち芯が何かわからない歌詞も多いし、曲自身も歌謡曲・J-Popの本流ではないように思える。しかしこれらのことは、彼らがすなわち無国籍的である、ということを必ずしも意味しない。特に安部公房に関しては、かなりナショナルなものへの意識が強い作家である。
 先に陽水について考えると、ときおりどこかの風土に密着した曲が作られていることに気がつく。たとえば「小春おばさん」、「海へ来なさい」、そして「最後のニュース」。前2曲の歌詞は場所に紐づく情景を通してリスナーの感情に訴える。そして「最後のニュース」はナショナルなものではないが、明らかに社会の出来事に対するコミットを伺わせる。「無国籍」と作家らを呼ぶ際、そこには社会とのデタッチメントという意味合いがほんのりと含まれていると感じるが、実際のところ、その創作者本人は逆に、社会や社会問題に対するコミットがあるのではないか、と思わずにいられない。
 安部公房は露骨である。小説でいえば「けものたちは故郷をめざす」「変形の記憶」「砂漠の思想」などがあるし、また彼がナショナリズムやテレビのもつ集団化機能を嫌悪し非難していたのは有名だろう。その元には、彼の満州での経験が深く関わっている。無国籍に見えても、その根柢には国籍や故郷に基づく考えが染みついているという意味で、彼らが無国籍だと安易に言うのはまちがっているのだ。

(2024.2.15)

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