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島から島へ嘘遠足(7/9)

2022.10.2(日)

 6時起床。テントのポケットからスマホを探り当て、現時刻から2時間後に鳴り出すアラームを止めておく。キャンプというのは強制的な生活習慣・矯正装置だ。瀬戸内海側特有の穏やかな秋晴れが、今日も今日とて澄み渡っている。テント越しなのに容赦ない。北陸生まれのインキャには眩しすぎる。

 バーナーに火を入れ、お湯を沸かし、鳥取から運んできたエチオピアを挽き、コーヒーをドリップする。オリーブ畑だろうか、丁寧に剪定された傾斜の木々たちを眺めている、眺める以外には何にもやりたくない。ツイッターもインスタグラムも見たくない。SNSを見なくても平気だということについて、精神が快い。
 誰からも急かされることのない、たっぷりとした時間を享受できている。今後ジオゲッサーをやったとしたら、こんな感じの風景が出題されたときに、小豆島だとしか答えない。私は小豆島の風景を盲目的に知っている。

 今日は小豆島からフェリーに乗り、豊島(てしま)に渡ることにした。念願の「豊島美術館」に向かうのだ。信頼している友人が太鼓判を押していた美術館で、なんだかよく分からないのだけど、なんでも相当によろしいらしい。ほんとかよ。

 あとは、のんびり島をぐるっと一周して、各地の作品群を眺めながらぼうっとカブに跨り続ける。

今日も一日、のびのびと(HTBより馳せ参じました、黒タイツがお送りします)

 パンフレットと海を交互に眺めながら買ったコーヒー(とんだカフェイン・ジャンキーだ。一日中コーヒーを飲んでいる)を弄んでいると、遠足みたいだ、と思う。

 中高ほとんど不登校だったから、自我が芽生えてからの遠足をやった経験はない。つまり嘘の感想だ、「遠足みたいだ」なんてのは。殆ど定かではない朧げな小学校時代の思い出を引っ張り出してくるフリをして、遠足っていうのはだいたいこのようなカタチの行為とワクワクした心の行事だったよなあと嘘をついています、私は。
 大学時代にも、友だちと旅行なんかついぞ行かなかった。ひとりで例の18を買ってフラフラしたり、相棒のハスラーの中で、孤独に道の駅にて眠った。

 人と歩幅を合わせて歩き、適宜感想を伝え合うという、遠足らしい遠足なんかしたことないのに、私はあらゆる場所で「遠足みたいだ」と嘘をつく。私はこの先一生、ひとりきりの嘘遠足を続ける。

バッテリー残量は死活問題なので、隙あらば充電していく

 主要大都市の高松から各離島へ私たちを運ぶフェリーは、昨日の混み具合を鑑みるに、そこそこ混んでいるだろう。休日だし、芸術祭をやっているんだし。
 だが今乗船している、島から島をつなぐこのフェリーは、離島の人口密度を保ったままで海の上に浮いている。気兼ねなく足を伸ばせるところが好きだ。人が少ない場所が、私はとにかく好き。

 人々の質量が増す場所が、なによりも苦手である。
 そのなかでも、人が多いなかでコーヒーを飲んだり、ご飯を食べたりすることが一等苦手だ。フードコートやバイキングなんてのは、アレですよね、鬼が考えた地獄の見せしめ。
 食欲。欲望。拝食主義。みじめで愚かで情けない。たくさんの人に、あなたがたに、ご飯を食べる姿を見られたくない。こいつわざわざ行列に並んでコレを食べたいのかよと思われたくない。そんなこと誰も思っていないよ、と窘めることにどれほどの意味があるものか。「そう」なのだ、一次的に。仕方ないのだ。それくらいなら3日くらいメシを食べないほうがマシである。
 たくさんの人のさなかで、あなたと一緒に、ご飯を食べている人になりたくない。だが、それが社会だ。私はいつもそういう類の我慢を積み重ねて、鬱憤を溜めている。

かっこいいポスター

 ここでは、そんな我慢をしなくてもよい。いつもはまずい自販機のコーヒーでも気分次第でずいぶんうまい。
 瀬戸内芸術祭のかっこいいポスターに、瀬戸内海のぎらぎらが反射する。フェリーに係るスーパーカブの積み下ろしに小慣れてきた。よ、旅人!
 豊島の土を踏んだ私のスーパーカブは、いまいちなスプロケのせいで、すぐに3速で走りたがった。

豊島

豊島美術館

 豊島美術館はフェリー乗り場から歩くと険しい坂道の果てにあり、「私たちもバイクを借りれば良かったねえ」と駐輪場で話しかけてくれたお姉様方にふふんと思う。

豊島美術館

 豊島美術館を無粋にも一言で表すならば、ここは、意図的に「ぼさっと」をやらせる極上の空間だ。慣れてきた人間はどこでも「アレ」ができる。だが、訓練を積んでいない人間にとっては、「アレ」になるのはむずかしい。ここでは、私たちは強制的に「アレ」になる。それ以外に選択肢はない。

 今にも切れそうな細い紐にかろうじてくくりつけられた、大昔の記憶をたぐり寄せる。雨の日、車の窓に頬をひっつけて、狐の嫁入りを眺めたこと。十中八九にせものの記憶。どこかで見た映像の焼き増し。確かめようがない。なのに確実に私の〈記憶〉BOXから出てくるもんだから、私の過去は都合がいい。

 水滴が走り、つながり、消え失せ、また新しいのがやってきて、青空を逆さまに閉じ込めて流れ去る。
 あの頃フロントガラスに垂れた水滴がしたたり、いま、三角座りをする腿と足首のあいだの水流に合流し、穴の中へ消えていく。またいつかどこかで私の記憶と交わるのだろう。嘘と本当を一緒くたに溶かして、透明になって。

 日本で一番好きな美術館はどこ?と聞かれたら、ーー多少相手に対するふくらみ・威嚇・イキりは否めないがーー豊島美術館と答えるはずだ、今後の私は。倉敷の大原美術館、犬島の製鉄所、足繁く通った金沢21世紀美術館と並んで、私調べ日本のよい美術館ランキングに大きな爪痕を残した。

心臓音のアーカイブ

 人の心音の中にいる。

 人の心臓の音を聴きながら、豊島の話をしたことがある。
 悲哀の雨がしとしとと街を濡らす夜に、暖房と加湿器に温められた避難小屋で、元野球部なだけあって存外厚い胸板に耳を押し当てて、この施設について語ったことがある。

 部屋四面をスピーカーで囲まれて、鼓動に合わせて点滅する照明と一緒になって、瞳孔が開いたり閉じたりする。人間の瞳孔が開いたり閉じたりするのを意識したとき、人間は、その瞳孔で、まばたきで、視線のたゆたいで、フィラメントの形態模写をやっている。身体全体を発光装置へとメタモルフォーゼさせて、あたかもカガクハンノウのように点滅するのだ。私たちは、暗闇の中、心臓の鼓動をエネルギーに点滅する電球だ。

 ーーと、あの時考えたことを必死に思い出してタイプしてみたんだけど、あんまり自信がないな。全然別のことを考えていたような気もする。なんせこの旅はもう1年半も前のことだ。
 そうか。もう1年半前か。1年半も前のリアリティなんてまったく覚えていない。もはやフィクションだ。かつ、こうやって絞り出せば存外書ける。嘘か誠かわからぬが、私の口はぺらぺらと喋ってみせる。時間が経った旅行記というのも乙なもんだ。過去と現在が錯誤している。嘘と誠との違いが、自分でもよくわからない。あなたは本当なのか?あなたは嘘だったんだろうか?

 とにかく、あれだ、人の心臓の音を聴きながら、「瀬戸内海の豊島にはこういう場所があって〜……」とやるのは、スノッブでシャラくさくて、結局モテのような気がしてきた。結論、心臓音のアーカイブ、行ったらモテます。知らん。行って口説いて確かめてくれ。

豊島横尾館

 第一印象は「悪趣味」。凄みのある悪趣味。気分が悪くなる。気分が悪くなる作品というのは、かけがえない。アートによってどんどん気分を悪くしていきたい。人間に傷ついてばかりの弱い心に段ボールの継ぎを当てよう。

ワア〜〜〜

 横尾忠則、1年半後の「顕神の夢」で再会して、なんだか運命的な気持ちになった。固有名詞に弱く人の名前が覚えられないと、ささいなことで滅法感動できて得。

 行きたい美術館を回れてひとまず目標達成だが、アートの総量に内臓がこってりしてきた。島の風景を眺めながら、インプットの消化がてらツーリングしつつ、色々なところへ気ままに寄ろう。

今日はじめてのカロリー摂取
勝者はいない
のそばにある、イカした2頭身
ポケモンバトルの構図
今旅のハイライトみたいな写真
瀬戸内海には原付が似合う
きみ、座布団っていいね
いいカブ
仲間に入れてもらえるだろうか

 駆け足でアートをダダっと回り、フェリー乗り場に戻ってきた。小豆島まで行く船の時間まで余裕がある、なんてもんじゃない。映画が一本見られるまである。

 でももう走りたくないってゾムが言っている、ゾムが言うことは絶対だ。主従関係の成立。仰せのままに。スーパーカブの従事者・下僕は、瀬戸内海を眺めながらぼうっとすることにしますよ。

 船の運転手だろうか、山陽風の訛りのおっちゃんが、ラジオで歌謡曲を聴いている。私と一緒に2時間待つつもりなのだろう、ここで。
 トランジスタ・ラジオから流れる、きっと私が生まれるよりもずっと前に録音されたガサガサの歌声は、青い海に対して白すぎる雲が千切れて流れゆく瀬戸内海の空によく似合っていた。

👌

 小豆島に到着したら、適当なローカル・スーパーで惣菜を買い、瀬戸内海の見える露天風呂がある銭湯に行こう。

ふたば
ふろ

 お天気が良くて、アートをたくさん見られると気分がいい。来てよかった。再び、オリーブ畑を望むキャンプのテントに潜り込み、就寝。

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