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ブルーなのに空は蒼い。

たまには、自分の人生を昇華したい。


キミを大切に思って生きるほど
私は、疲弊する。

記憶


不器用を抱えて、「私みたいな人のために生きたいな」というエゴを
私は希望だと勘違いした。

「誰かのために生きたい」という私欲を胸に、飛び込んだのは
意識高い学生の世界で。

そこは、とてもキラキラしていて、世の中のため、人のため、
聞いていれば、個々に信念を持っていて、その人たちは夢があった。

私もここにいれば、誰かのためにと生きたいと動く人たちと
夢をかなえて、想いを語って、心から信頼し合える人達と楽しく
やりたいことを形にしていくために努力しあえる関係でいれるのだろうと
妄想した。

長らく2年は、一緒にいたが
私はほんの少し違和感を感じやめた。

その違和感は、つもりにつもって1つの要因だけではまとめられない。

例えば、どこのコミュニティでもそうかもしれないが
一つ目の違和感は、信者化だ。


ひとりひとり、「やりたいこと」や「こうなりたい」を叶えるために
サポートしていこう。そんな人たちが集まってるコミュニティだと
思っていたが、色々と運営側の側面を知り、
結局実態は、画一的でコミュティに合わせた成長曲線で活動していかないと
結果は出ないということを悟った。


やりたいことがあったとしても、そのコミュニティにとっての最善が
その環境下での「良」とされるのだから、
自分がいくら大きなことをやりたいと思っても、そのコミュニティにとって
自分の大きな野望が「良くないこと」とされることがある。


そのズレがここに居続けてもやりたいことが実現するのは難しいなと思った
と同時に、良い意味で言えばコミュニティの教育が行き届いていることによって、コミュニティでの文化と自分のやりたいことなどが少しずれてた場合、ズレている自分は排斥されてしまう。

教育が行き届いているといえばきこえはいいが、いい意味でコミュニティに「洗脳」されていると感じていて、所属しているコミュニティが好きだからこそ、正しいと思うし、コミュニティでの方法が正義だと勘違いをする。
もちろん、コミュニティに所属していなくても世間的に成功する人もいるだろうし、抜けたからやりたいことができなくなるなんてことはないだろう。

だけど、教育ができすぎているとそのコミュニティだけの価値観や方法だけが正義だと勘違いして、気づかないうちに断絶をうみだしてしまうことがある。

施している側も意識なく、コミュニティの価値観を押し付けて
「ひとり」の考えや意思を拾えなくなっていく。
こうしてコミュニティにおいて柔軟性が欠けてくる。


こうした、信者化というか洗脳というかコミュニティが好きすぎるあまりの愛と正義感からくる「ここをやめたら夢は叶えられないと思うよ」という言葉を聞いて、この人たちは自分を信じてくれてるのではなく、このコミュニティに所属している「わたし」だから信じてくれていたのだなと悟って辞めた。


なんども、やめようかと考え踏みとどまって2年もたってしまったのは
自分を大切にしてくれているということを信じたかったからだし、だからこそ、その言葉を聞いて私は悲しかった。

大切にしたいと思う人ほど、消えていってしまう。
こういう経験をするたび心が疲弊する。

自分が大切にしている自分なりの思いやりとか、気遣いとか
できるだけみんなフェアでいたいという気持ちとか
みんながいい方向に頑張っていけるようにとか

そういうものが多いからこそ、大切にしていることを傷つけられたりすることが多くて、勝手に裏切られたとか傷つけられたとか、そんな気持ちになってしまう。


中でも、コミュニティにいたとき私の心を鬱屈させたのは、我慢させることを美化していることだった。

性格上、ちょっと注意されただけで傷つきすぎてしまう子がいて、
その子がコミュニティにいる子に対して傷つけるような発言をしていた時、
誰も注意ができない。

相手が我慢できるような子であれば、我慢してあげるのが当たり前だし、
我慢できなくなって言い返してしまったとき、言い返した側を注意した。

こういうのを見ていて、自分も傷ついてしまったし、
どちらかが我慢し続けないといけないのってフェアなんだろうか。
こういうのが見て入れられなくて、個別に話をきいて改善に努めようとしたけれど、意見を上にあげた時には、
やれることはやっているし、褒めるときは褒めているの一点張りで変わることがなかった。

そういう嫌なことがつもりにつもって、
催眠から覚めたようにコミュニティをやめて何年か経った今。

傷も残っているものの、意識高い人たちをみて改めて思うことがある。
冷静になってみて、「違和感を感じたら離れるべき。」という話と「鉄は熱いうちに打て。」という話だ。

文章にしてみたのは、これから意識高い高校生だとか大学生に対してコミュニティにはいる機会ってあると思うし、現時点で何かしら意欲高い学生たちと一緒に活動しているという人もいると思う。

その中で、このコミュニティの中で違和感を感じるけど、相談できる人がいないとか、身内に相談しても意味なかったりするだろうし、辞めることが自分にとってリスクでしかなかったりする場合があると思う。

学生という「ラッキータイム」を過ごしている中で、そこが終わってしまえば就職をしたり、生活費だったり、税金だったり、お金を払わずに、社会的なプレッシャーなく、夢に向かって走れる期間って基本的にないわけで、

無敵期間をいかに活用するかで今後の人生、いい方向に転じるか悪い方向に転じるかも変わってくるのだと思う。

私は、学生時代は意識高い系の部類で、色々とやってきたわけですが、学生がおわってみてやらなきゃよかったなということも凄くたくさんあって、その中でも「意識高いコミュニティの所属」がもったいなかったなと思ってる最たるものだったりします。

人によって、良いものとなる場合もあると思うし、悪い場合になる人もいると思うし、自分も所属していてよかったことはもちろんあります。

なので、意識高いコミュニティを全否定するわけではないですが、
少なからず自分みたいなタイプが、のちのち、後悔しないように何らかのきっかけになればいいなと、まとめてみたいとおもいます。


違和感を感じたら距離をとれ(意識高いコミュニティに違和感がある人へ)

「いくら好きでも一度離れろ。」

いろいろと学生コミュニティに所属してきて、言えることはこのことに尽きる。

意識高い人たちは、何かしらのコミュニティに入ってると思うんですけど、
中にはお金を払って所属するコミュニティもあると思うんですね。

現に私は昔、そういうコミュニティに入っていて、
定期的にイベントを主催したり、学生団体をつくったりしていました。

2年ごとに契約の更新があって、2年ぴったしでやめたんですが、本当に後悔しました。

理由は2個あって、
1つ目は、コミュニティの人によって自分のパッションそのものを絶やされたことと、
2つ目は、時間を無駄にされたと感じたこと
2点です。

意識高い人でなんらかのコミュニティに所属していて、
特に違和感なく、所属していることでやる気が出ていたり、結果を出せるようになったり、そんな人は今回書いている話とは対象外の人なので真に受けなくていいのですが、何かしら所属していて、そこで自分が所属しているコミュニティにあっていないなとか、成長がないなとか、そういうことを少しでも感じていたり、なにかしら違和感を感じていたら、今がきっと最善の撤退・もしくは損切ラインだと思います。


私が長々と意識高いコミュニティに属し続けて学生期間が終わってしまったのは、私も根っから、属していたコミュニティの人間が大好きで、心から信頼している人たちだったからです。

なんなら、やめる気さえぎりぎりまでなかったし、いろんなことが積み重なって辞めるという結果になってしまいましたが、

もしかしたら続けてた未来もあったかもしれません。

でも、冷静に考えて辞めた今、すごくやめて良かったとなっているし、もっと早くやめるべきだったと後悔しています。

私が学生の頃、1年間ぐらいは学生コミュニティに所属していて、自分自身学びがあったり、成長実感がありました。
ただ、1年過ぎてからは、イベントを開くことでなにになるのかよくわかんなかったり、当時は起業家志望だったので、これで経営者になれるわけでも
社会に大きく貢献できるわけでもないしな。という気持ちが大きくなりました。

所属して1年ちょっとで、違和感が辞める衝動を作っていたのですが、自分の成長がもうないことなどを身内の先輩などに話しても、先輩からは徐々にできることが増えていくとか、信頼できる人と一緒に切磋琢磨することの価値みたいなのを話され、私自身そのコミュニティの人たちが大好きだったから、そのひとたちと一緒につくる未来の方がワクワクするし、一緒に頑張りたいなという気持ちが大きく結局続けることにしました。

いま思えば、ここで違和感を感じていた時点でやめてれば後悔はなかった気はするのですが、所属している分、そのコミュニティの人たちが大好きで信用していたので、先輩から話されることが全部正しく聞こえていました。

結果的にやめてればよかったとなったのは、1年後、「ここをやめたら夢はかなえられないよ」という言葉を聞いて辞めたのですが、

当時の自分は「ここにいても自分自身成長できていない」という現実に目を背けて、
「信頼している人たちと一緒に頑張りたいからやめない」と正当化して辞めない決断していて、
自分ではこの人たちの下で頑張っても結果だせていないとわかっているのに
「信頼できる人」とか「仲間」とかそういう綺麗ごとに流されて「いいように」物事を受け取っていたなと今考えるともったいないことしているなと感じます。

本当に、仲間であれば、信頼できる人なのであれば、自分がコミュニティから離れようが応援してくれるし、辞めてから会うことも相談相手になってくれることもあると思うのですが、コミュニティでの正しさは、コミュニティの中で結果を出すことであって、辞めたあとの人をフォローしてくれる人なんていないわけです。

綺麗ごとに流されて、成長できていない自分から目を背けて、辞めない選択をしてしまったことで、そこから1年も結果を出せない環境とわかりながらいてしまったので、その学生の1年の時間があれば、親から就職のプレッシャーないままフリーランスで受注して実績を少しでも作れたかもしれないし、生活の基盤をつくれたかもしれません。

私の場合、大学4年のあと1年の期間しかなかったので、実家にいれる期間も少なく、親からの就活プレッシャーから逃げたかったので、秘書という名目で仕事を受注して実家を出て生活をしていましたが、結局、生活費を稼ぐのに精いっぱいで新しく何かを生み出すことを考える時間もなく、今はそこから脱しようと結果的に夜の仕事をすることになって今に至ります。

もし、これが1年早かったらと考えると、実家にいながら仕事をしていて、就活をせかされる頃にはある程度安定してフリーランスで受注しながらやっていたのではないかと想像します。もし、フリーランスで稼げなかったとして夜の仕事をやっていたとしても夜の仕事で結果を出すのにもう少し早く結果を出せているだろうし、何もかもが前倒しで結果をだすことにつながっていたと感じています。

言葉にするのが難しいですが、学生の時に着手できる価値ってすごく高いし、スピードって成し遂げるためにはものすごい価値だと思うんです。

自分の場合は、意識高いコミュニティに入ったことで、そこにいる人たちが大好きだったから続けてしまって、自分の違和感に蓋をしてしまった結果、
もっと早くやめておけばよかったなと後悔しました。

きっと、所属している最中は、自分の属しているコミュニティが1番だと思っているし、そこにいる人たちも心から信用しているし、
自分の違和感に対して、その違和感は勘違いなんじゃないかとか、おかしいんじゃないかとか、自分が違うんじゃないかとか

思っちゃうと思うんです。当時の私がそうで、辞めたいとおもっていたけど、成長できない理由は自分にあるんじゃないかとか、コミュニティにぞくしながらでもできるんじゃないかとか、やめない言い訳を探していて、ずるずるひきずっていました。

もし、そんなひとがどこかにいるなら、冷静にやめた時とやめなかった時で自分がどちらの方が成長できるか、結果を出せるか考えてみてほしいし、その理由が自分を蓋する原因になっていないか見直してほしいです。


いくら今そこにいるあなたが信用している大好きな人の中にいるのだとしても、結局一番自分をわかっているのは自分だし、大好きな人を大好きでいつづけるには一度距離をとってでも、自分が早く成長して結果を出して、それから彼らに歩み寄らない限り、彼らとわたしたちは、ともに弱いままなのですから、変わらないし、変わらない相手より、変えられる自分を信じて、強くなってから彼らに歩み寄らない限り、自分の理想とする自分の状態で、彼らも彼らなりの理想の状態でお互いに協力し合う状態でいれないと思うのです。

お互いに弱いままじゃ、自分の理想に彼らを合わせるのはできないし、どちらかが我慢することは結局、破滅を招く気がします。相手を恨んでしまったり、傷つけてしまったり、自分が我慢して心がすり減ってしまったり。
そう考えると、自分の理想を押し付けず、一度身を引いて強くなって、寄り添う覚悟を持つことがまた相手を強くできる材料に自分がなれるし、自分が成長できていないなら、一度離れてコミュニティに依存せず強くなる覚悟をもつことが、本当の意味で相手をずっと大好きでいられる条件な気がします。


鉄は熱いうちに打て(熱意が消えそうな人へ)

「鉄は熱いうちに打て」といいますが、これはガチです。

私はもともと、夢とかやりたいこととかを壮大に描いていて、自分の経験から絶対にかなえてやるという意思が強かった方なのですが、
ほんとにひょんなことで、炎が静まり返ります。

それは、コミュニティをやめるきっかけになった
「ここをやめたら夢は叶えられないと思うよ」という言葉と

「当たり前なことが幸せってことに気付けてよかったね」と言われたときです。

この2つの言葉が、私の中で糸が切れたきっかけになった言葉で、
自分自身が生きてきた中で、過去の経験が元になって「絶対自分みたいに環境のせいでやりたいことができない社会を変えたい」という覚悟が昔は、かたかったのですが、

それって、自分の嫌な経験からきていて、自分が不器用だったこととか、そのせいで結果を出せなかったこと、自分がどうにかすれば何とかなることではなかったこととか、自分が本気でやっていたことが自分以外の要因でパーになって絶望したこと。

ほかのひとからみればちっぽけなことかもしれないけど、自分にとっては人生が終わるくらい絶望的にとらえていて、当時は死にたいとまでおもってしまっていたこと。

だからこそ、自分の核になって燃えていて、絶対そんな人を同じ思いする人を出したくないっていう思いが強くて一生懸命、頑張れたのですが、

自分にとっては、絶望から生まれた希望がたまたま夢になって、絶対社会を変えたいというような根源になっていたわけで、

そのためにできなかった、高校生時代、親に絶縁されかけてまでやっていたビジコンとか課外活動とか、そのためにできなかった恋愛とか、青春とか、

人に当たり前に愛されることとか、当たり前に人を信じれることとか、当たり前に人を大好きだなと思えることとか、当たり前に親から愛されてるなと感じれることとか、ワイワイ楽しめることに罪悪感を覚えず心から楽しめることとか

私になかったものごとを、コミュニティにいたひとたちは知っていてできていて、それと引き換えに得た自分の覚悟だとかやりたいことを抽象的にでも人に伝えられる私をみて羨ましがられたこともあったけど、

自分としては、そういう苦悩というか経験がたまたま私を形成しただけで、
むしろ、みんながもっている当たり前が羨ましくてしかたなかった。

そんな中、「コミュニティにいて学んだこともあるでしょ?」と聞かれて正直に、そういう当たり前なことが幸せってしれたことがよかったと答えて、
「当たり前なことが幸せって知れてよかったね」と言われて勝手に絶望した。

コミュニティに入っている中で、なんとなくそいいう当たり前の幸せを受け取ることに少しずつできるようになってしまって、いい意味でも悪い意味でも。

自分は、誰かのために生きることで幸せと感じれると思って生きてきたのに、そうじゃなくても幸せになれることを知ってしまった。

それに相まって、自分を信じられてていなかったとうけとれる「ここをやめたら夢は叶えられないと思うよ」という言葉が追い打ちをかけて

自信消失とともに、誰かのために大きなことを成し遂げようと思うと、こういう悲しいことが起きるし、人を嫌いになってしまうし、

自己犠牲をせず、ちょうどよい夢をおう選択をしたら、この人たちみたいに幸福感ある生き方ができるような気がした。

誰かのためにと生き続けて、家族との関係ごちゃごちゃさせてまで、課外活動に出たり、遊びや趣味に時間を使わなくなって、友達と好きなことでワクワクする時間や大好きを共有する時間は減ったし、

幸せになるには、
「夢を追いかけること」ではなくて「今ある幸せをかみしめて生きること」な気がしてきた。

そういう意味で、考えや価値観も変わり、いろんな幸福論が自分の中で生まれ、仮に成功者になっても、そうじゃなくても幸せだし、

できないことを追い続けたほうが不幸せなんじゃないかと。
そこで、自分の中でいままであった自分が抱くビジョンに対してパッションが消え、おもったよりひょんなことで、「こういうことしたい」という闘志というか燃え続けてたものが静まり返った。

「鉄は熱いうちに打て」といいますが、本当にそうだなと思うのが今で、
今はすごく意思が揺らいでいて、大きなリスクとって頑張ろうみたいな感じがなくなってしまいました。

今の私は両方の幸せが欲しくていい塩梅で、人の幸せをつくるようなことができたらいいし、自分が幸せにもなりたいなとも思います。

睡眠時間凄く削って、何か犠牲にしてまで達成したいとかもないし、
昔だったら、睡眠時間なんていくらでも削る、誰に嫌われてもいい、借金してもいい、風俗でも何でもやるし、何なら臓器売ってでもやる。
全部失ってもいいから、どうしようもできないって人のために全部あげるからなんとかしたいみたいなエネルギーが本当にあったけど、

本当にそういう気持ちがなくなりました。
それも、ちょっとしたこと言われただけ。自分でもびっくり。
そういうイかれてるパッションって急になくなったりする。

急に落ち着いたりする。私の場合、振り切れる感じでもなくて、
とりあえず、自分がやってきたこと信じてたことは否定したくなくて
やれることやれることで、自分ができる範囲で余裕持って好きなことしようぐらいに落ち着いたわけですけど、

こういうイかれたエネルギーってときには大事だったりしますよね。
本当にこれを奪われたって点で、意識高いコミュニティが嫌いってなった要因でもあるんですけど。時間も取られたわけだし。

ちょっとしたことをいわれてなければ、わりかしおかしな手をうってゴリゴリに人に迷惑かけて、色々やっていったと思うし、振り切ったことができてて覚悟を持った行動ができてた自信があったので。

それができなくなってしまったことと、時間を奪われたって点であんまりコミュニティとかに依存するのはよくないなって自分で腑に落としたわけですが、

私の場合はたまたま、そういうことを言われて情熱みたいなものを一緒にうばわれちゃったわけですけど、

そこまで取られてないよ。って人がほとんどじゃないですか?
私はたまたま重なっただけで。
今、コミュニティに属してて違和感はあるけど、熱はあるよって人の方が多数じゃないですか。

まだ、そういう人には熱があるうちに無茶してほしいなって思うんですよ。
本当に火が消えた途端、なにもできなくなるから。

また再燃するのって難しいから。
だから、「鉄は熱いうちに打て」
火があるうちに無茶なことして後悔した方がいい。
絶えた後じゃ遅い。動けないから。

私はいい意味でも悪い意味でも、落ち着いてしまって。
自分を犠牲にしてまで頑張ろうっていう価値観が喪失してしまったから。

リスクとれるという無鉄砲なバカな状態が無敵だと思ってて
でも、そういう状態でいれるのっていろんな経験をするほど
まともな人と交わるほどなくなってくるし、年をとれば落ち着くし

私は、無敵状態を無駄にしてしまって、無鉄砲な時期にコミュニティに属して、イベントひらいたり、学生団体つくるのが凄いみたいな価値観のところにいたから、私から見たらまともな人が多かったので、開花することはなかったけど、

自分が無敵状態のときに、そのコミュニティにいなくて、本当に起業するために動くぞとなっていたら変わっていたかもしれない。

だから、自分がバカになれる無敵ゾーンのときは色々やってみた方がいいし、自分が落ち着いたなってときに動いても、自分の幸せと社会を変えるためにとるリスクを天秤にかけて、自分が気持ちいい度合いで動くのが一番いいとなってしまう。

私は昔いたコミュニティをやめた時点で、自分の夢に対しての捉え方がすでに変わっていたので、辞めた時には、大きく動くことはできなかったし、今は「丁度いいくらいがいい」が一番自分の理想になってしまったので、なかなか人がやれないことをやることができなくなっていました。

だからこそ言えるのが、自分が無敵ゾーンにいるとき何が何でも失敗してもいいから何と引き換えにしても実現させるぞっていう気持ちで、熱がさめてないのであれば、熱が冷めないうちに無理することをしてきたなら、あとになって振り返ったら、自分は後悔しないなって思うのと、

中途半端にいろいろ現実を知った今、無鉄砲な熱は自分にはもうないけど、無鉄砲さは、すごく価値があることなので、無理ができる熱を持ててる君が羨ましいなって思うことです。

そうおもいながら私がやらないのは、現実を知ってしまったことと、いろんな人に出会って、一般的な幸福観もわかるようになったこと。

それはそれで自分は幸せなことだと思っていること。だからこそ、無茶はしないで夢をかなえられるように最低限のリスクだけ取りたいなくらいにおもっていること。

そう感じられるようになったのは成長だと思っているし、そういうことを学ばせてくれた環境に感謝はしているし、でもやっぱり無鉄砲な状態で無茶はしてみたかったなと悲しさもあるし、後悔もしているということ。

これを読んでいる人が、熱意が消えそうで迷っている人なのか
その原因が何かはわからないけど、私のように自分が更新されて無茶はしたくないなと思ったならしなきゃいいと思うし、これを読んでいるキミが、ただたんに挑戦する中で失敗しまくって嫌になっているだけなら、おそらくそれだけでは、君が燃やしている炎は消えるものではないと思うから、
キミが自分がバカであれるうちに、キミがいつかまともになって炎がきえて落ち着いた大人になるまでは、頭悪い挑戦をしてバカでよかったと思ってほしいなと思う。

だって、すごく羨ましいから。

中途半端に挑戦する機会なくいつの間にか落ち着いてしまった私はずっとブルーのまま、それでもずっと青空をみているきもちでいる。

なんか自分の経験と気持ちを文字に起こしてなんか選択の材料になったり、何かのきっかけになれば幸いです。

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