一期一会


 SDカードに保存されている1枚の写真。今となっては画質が荒く、サイズも物足りないと分かる。かれこれ7年近くの月日が流れた。携帯電話のカメラで撮られた写真を眺めて磯村恭一郎はあの時に思いを馳せていた。


 まさに水をさされた格好だ。好きなバンドのライブを楽しみ、その余韻に浸っていた電車内で母親から一通のメールがきた。それは学校から電話があり、このままだと授業の出席日数が足りないので卒業が危ぶまれるという内容だった。

『ここから卒業するには来年の1月に企画されているスキー合宿に参加してくださいとのことです』

 どちらかと言えばインドア派の磯村には全く気が進まない内容、こんな事になるならちゃんと授業に出ておくべきだったと今更ながら後悔する。

「(合宿という事は泊まりでどっかに行くのか……)」

 一緒にライブを楽しんだ同い年の友達、高梨拓実には何とかこの落胆に気づかれないように努めた。


 磯村は今年の9月から全日制の公立高校から通信制の私立高校に転校した。なぜかと聞かれても大した理由は話せないがここでは5月辺りから学校へ行くのが面倒になって遂には不登校にまで陥ってしまったと言っておこう。それを両親、担任の先生が黙って見ているはずがなく最後は家で勉強しながら卒業できる通信制の高校に変えて留年せずに3年間で卒業するという結論に至った。

 しかし、そこでも週に一回、土曜日に行われる授業に出る必要がある学校であった。週に一回くらいであればと最初は真面目に通っていたが毎回、出席する人が変わり親しい友人もできない、必ずしも来いと学校側が言ってくる事もなかったので途中からちょくちょく出席する事はなくなってしまっていた。それでも一定数は出ないと卒業はできないので月に2回くらい出ればいいか、その見込みが完全に甘かったと今日、思い知った。

 先月、学校から送られてきた授業のスケジュール表、連絡事項など記載されている紙が入っている封筒にそのスキー合宿参加の案内と申し込み用紙が同封されていた。もうひと月、古かったら捨てられていたかもしれない。

 磯村の転校先は通信制と全日制を併せて持つ高校である。その全日制の選択授業でこの時期、スキーがある事から通信制の生徒にも体験させてあげようという意図らしい。はっきり言って余計なお世話だと思った、もっと別の形でそれを補填する事はできないのかと何度も思ったが、実際に反論する気などあるわけがない。磯村は来年、年明け早々に北海道へ旅立つ事になる。

 今年の夏から既に褒められた状況ではない磯村は母の帰省に付いて行くのを控えたがどうやらお正月も自粛しなければならなそうだ。バイト先にも説明しなかればいけない。3泊4日の旅になるので4日間は出られなくなる。分かりやすく卒業旅行で北海道へ行くと言い了承を得た。お土産を期待しているとの言葉付きで。

 一時は留年も考えていた、それでもなんとか紆余曲折ありながらもこのままいけば3年間で卒業できると思っていた。その気持ちで12月にライブを迎え、今年を振り返った時には終わり良ければ全てよし……そうはならなかった事に人生、上手くいかないものだと初めて痛感した。


 このスキー合宿を迎えるにあたって事前に用意するものは特になかったが、黒いキャップ帽を購入した。磯村のファッションに帽子が取り入れられる事はここまでなかったがなぜだかこれは欲しいと思ってしまった。それは顔をなるべく隠しておきたいという表れかもしれないと自己分析する。当日まで何人、誰が来るのかも分からない。普通だったら事前に一緒に行動するグループを決めたり、皆んなで色々な事を決めてからその日を迎えるのに今回はそれが全くない。それでどう楽しみにする事ができるのか。どうしても去年の修学旅行と比べてしまう。行きたくもないのに、一人で旅に出るようなもので磯村の気持ちは底が見えない穴に落ちているかの如くである。前日、自分の存在はなるべく消して、周りを拒否するように振舞おうと決めた。

 ポケットにイヤホンが挿されたウォークマンを入れて、お気に入りの曲を聴きながら羽田空港へ向う。この期間中、観たいテレビ番組がちゃんと録画される事を祈りながら家を出た。

 なんでこんな事になってしまったのか。そもそもが慣れ親しんだ学校を離れて、わざわざ孤独になってしまった事にも今更ながら失敗だったと認める。傷口が浅い内に我慢して行っておけばよかったのだ。挙句、今は自分はなぜだか北海道へ向こう事になる。自ら追い込んでどんどん状況を悪化させてしまった事にため息は止まらない。

 おそらくここであろうと思われる集合場所に着いた。周辺を見渡し早々に転校手続きの対応をしてくれた40代の女性教師、若林が近くで待機をしているのが視界に入りここで合っていると確信できた。集合時間は13時。それまでの30分間、時間が来るまで椅子に座って待つ事にした。先ずはお昼ご飯に途中コンビニで買ったおにぎりを食べる。昼食を済ませて、帽子を被ってまま下を向いて待機していると若林が目の前にやって来て「磯村くんかな?」と笑顔で確認した。それに「はい」と頷く。そのあっという間のやり取りをして、持っている名簿に目を通しながら離れていく。正直、帽子で顔を隠しており自分の事が分かるのか疑問に思うところもあったが若林は直ぐに分かった事には少し驚いた。まだこの先どうなるのか見通せず不安だった時、あの柔らかい表情で学校について説明してくれたのは思いの外、それを和らげる助けになっていた。あの先生はやっぱり良い先生だ。本人に直接、言う事はないだろうが密かにそう思っていた。

 ちょくちょく見た目が若い人達が周りに集まって来ていると察知していた、時間になった時に号令がかかる。今回の参加者は磯村を入れて男性12人、女性6人の計18名。これが多いのか少ないのか分からなかったがどの人も正直、見た目からしてとてもスキーが好きな人達には見えなかった。どちらかといえば家に居るのが多そうな人達、やはりこの企画は希望者が参加するというよりも一人でも多くの生徒を卒業させるための救済措置のような扱いに近かった。磯村と似たような境遇の集まりということだ。

 それなりに長い出発前の説明を終えて、女性教師が見送り搭乗口へ向かう。相変わらず今日が初対面の人達なので気まずい空気が流れるが一部、賑やかな所があった。髪の毛を茶色に染めた短髪の男性とこちらはラズベリーカラーに髪を染めている長髪の女性、二人が親ししそうに会話をしている。あれは以前から親しい間柄なのだろう。おかげでその二人が初対面など気にすることなくリーダー的存在になりグループを引っ張ってくれていた。こういう時に天性の明るい性格はありがたい存在になる。

 機内に入り席に座る。無造作に配られたチケットの座席表を見ると窓側だった。席など、どこでも良かったが飛行中に外を見られるのは気が紛れると思いその点は悪い気分にはならなかった。これから飛び立とうとする機内から外を見る、早く帰ってきたい、まだ何も始まっていないのに最悪の心境だ。徐々にスピードを上げて離陸する、そういえば去年の修学旅行ではこの瞬間、あまりのスピードにもの凄いテンションが上がっていたっけな、そんな事を思い出しつつ音楽を聴きながら目を瞑る。今日はそんな欠けらもない。魂が抜き取られたのではないかと心配になるくらい空っぽの磯村は1時間ほど眠りにつく事にした。

 経った時間と、僅かに聞えた機内のアナウンスがありもう直ぐ着く事を知る。去年の12月、バイト代を貯めて買った2万円弱のイヤホンはなかなかの音質と満足している。しかも外で聴いても周りの音は殆ど聞えない。飛行機内でもそれは同じだった。もう安いイヤホンに戻る事はできない。どうせお金をかけるならある程度、良い物を、それが先ずこの旅で学んだ事であった。

 新千歳空港へ降り立つ。ここまで言われるがままに来たがさすがにこの広大な北海道のどこへ向かっているのかも知らずに、ここまで来てようやく初めて知ったという事実に苦笑いした。どれだけ自分は無関心なんだ、まるで東京からはるばる海を越えてやって来たという事すら自覚にない。

 預けた荷物を受け取り出ると高校名が印刷された紙を持っている男性が直ぐ目に飛び込んでくる。その男性の案内でバスへ乗せられた。外へ出ると薄暗くなっており雪が路上に積もっている。ようやく磯村はどこか知らない地へ来てしまったのだという実感はした。

 乗車した人数に対して広すぎる車内だった。これなら二席を一人で占領する事も許された。磯村は前方の窓側の席に座る。いくらその気はないとはいえ、ここまでこれだけ人はいるのに誰とも会話もする事もなく来たのがさらに居心地を悪くしていた。従来のイメージではこういう時、会話が飛び交うものである。まるで収容所へ向かう囚人達のように静まりかえっている。4日間、自由を奪われた人達、それも己の怠慢が招いたが故に。似たようなことかもしれない。

 歩き回ったわけではないが普段とは違う、慣れない行動をするだけでおそらく精神的に疲れた。いつの間にか隣の席が空いているのをいいことに靴を脱ぎ、足を伸ばして寝転んだ。飛行機からずっと座りっぱなしというのも辛いので助かったと思いながら今度は本格的に眠りにつく。

 他の生徒達も同様に眠りについている人が殆どであった。窓の外を見ると外は完全な闇に包まれていた。見渡す限り家など建物の明かりは見当たらない。腕時計を見ると2時間は経っていた。それでもまだバスは停まる気配はない。なんとか起き上がったが動く気力がまるでなかった。もうこのままバスを走らせてどこにも着かなくていいなどと思いながら普段の座る姿勢に戻す。バスの走る音だけが鳴り響く。この音と振動でまた眠りにつきそうであった。現に目は閉じている。

 気がつけばウォークマンの音楽を停止していたのでまた再生ボタンを押して音を鳴らす。この望んでいない非日常の空間で慣れ親しんだものに縋れるというのは非常に心を落ち着かせた。このままこの音にしがみ付いてこれからの4日間を過ごすことになるだろうと予感した。途中、よく見る地名が記された青い標識が通り過ぎたが一瞬の事でなんと書かれていたのか読み取る事はできなかった。ここはどこら辺なのだろうとぼんやり思いながらさらに1時間後、ようやくバスは停車する動きをして目的地へ着いた事を知らせる。

 威勢の良い声を発しながら男性が車内に入ってくる。

「おい、着いたぞ〜起きろ〜」

 その声は頭も体もぼーっとしていた生徒達にはきつかった。音を立てて降りる準備をするがそれを聞くだけでも、動きが鈍いと分かる。着いた場所はこれから寝泊まり、食事をする施設だがホテルではなくペンションに見えた。しかも横長にかなり大きいことが伺える。この人数にしてはあまりにも広すぎるかもしれない。雪国の寒さを束の間、肌で感じて中に入る。先ずは学校にある体育館と言っていいような場所に通された。

 あのバスの中で大声を発した男性が18名の生徒達の前で話し始めた。小太りで終始ニコニコしている。どうやら全日制の方で教師をしている人のようだ。この前に全日制の生徒が来て同様にここで寝泊まりをしたと話してくれた。

「皆さんは通信制ということで普段はあまり会う機会はないでしょうから、ここで仲を深めるのもいいのではないでしょうか?」

 磯村はそんな気概を持った人はここにはいないと思いつつ決して短くない説明を終えて、生徒達を部屋へ行かせて荷物を置くように指示する。既に割り当ては決められていて、あいうえお順に6人で一部屋となっていた。

 部屋へ入ると二段ベッドが4つあった。真ん中に細い通路が確保されているくらいで広いとは言えない。

「よし、じゃあどこで寝るか決めようか。俺はどこでもいいから皆さん先に決めていいよ」

 空港でも先頭で歩いていたあの男性がここでもリーダーシップを発揮する。他は見たところ自己主張もする気がない、クラスの話し合いではいつも黙っているような人ばかりなのでこの一言はやはり助かるのだが、そう言われても困るといった具合で沈黙が3秒ほどあった。

「じゃあ、俺は奥の二段目のベッドで」

 前のクラスの男子達だったらじゃんけんで決めるという流れになってもおかしくなかったが、その気もなさそうな雰囲気だったのでもう俺はここにするときっぱり決めてしまった。それに異論もなく、磯村が先陣を切ってくれた事で次々と「じゃあ、俺はここで」と他の人も続きスムーズに決まった。

「よし、次は自己紹介。俺は岩藤って言います。これから3日、4日間くらいよろしくお願いします」

 こう言うのも申し訳なかったが、見た目に反してその岩藤はここでやるべき最低限の事をいつも提案してくれていた。続いて磯村が名前を言い、一通りの自己紹介も終える。

 改めてこの面子を見ると何かしら事情を抱えていそうなオーラが漂う。クラスの輪に入れない人、問題児として見られている、不登校の経験がある……学校生活に馴染めて周りから慕われ、成績が優秀な人と比べると、どうしても近寄りがたいものがある。ここに居る人達はみなおちぶれた人、この時の磯村は声に出して言えなくてもそう思っていた。

「(なんで俺、ここにいるんだろう)」

 その後は早々に食堂で夕食となる。大人数にも対応する宿泊施設なのでやはり食堂も広々と使えるが暗黙の了解のように一つの机に集まって食事をする。ここで端っこ、一人しかいない机で食べるというのは辛い、たとえ会話は弾まなくてもこうなって正解であると思ったが女子の方は一段階、溶け合う事ができたのかその会話が声が小さくても食堂に響く。

 出された食事は悪くなかった。食器を所定の位置へ戻しここからは22時の消灯時間まで自由時間となる。これだけ広いのだから少し中を探索するのも良さそうだが、疲れもあり部屋へ戻る人の方が今日は多かった。磯村もその一人である。

 部屋には岩藤以外の5人が居るが会話はやはり皆無だ。こうして見ると女子の方が積極的にコミュニケーションを取ろうとするという事が分かる。では、話しかけるとして自分なら何て声をかけるか考えてみたが適切なものが浮かばない。どこに住んでいるのか?趣味は?スキーはできるの?……当たり障りのない質問ならこんなところだが、直ぐに会話が途切れそうな気がした。

 ここはやはり、なんで通信制の高校に通う事になったのかーーもしかしたらそれが一番知りたい事かもしれない。だが、それは今日初めて会った人が気軽に聞いてはいけない質問。きっと本人なりの堂々と話せない事情がある。磯村がそうであるように。素性の知れない人達と、聞く事も躊躇い、共に生活する。それも4日間の辛抱だと思えば耐えられなくもなさそうだが、それには少し長すぎるような気がした。だから磯村はこの場所で寝る事を選んだ。向かい側と後ろには誰もいない、ここに居ればあまり人が視界に入ってくる事がないからだ。


 朝6時半。館内に放送が流れる。スケジュールでは7時起床、その30分後に朝ご飯。それに間に合うように生徒達に起きて目を覚ますように促す放送である。

「は〜い、皆さん。おはようございます。朝でございます……」

 明るい声色で昨日から何かと目立っているあの男性教師だろう。朝が苦手な人には苦痛に響く。もしかしたら名前を言っていたかもしれないが磯村は覚えていない。ここ最近はこんな時間に起きる事はなかったが置かれている状況からして目覚める事を強制される。水道のある所へ行き顔を洗う事にした。そこにはもう何人か磯村と同じ事を考えている人が居た。

 朝ご飯をこんなにしっかり食べるはこういう時くらいだろう。いつもは分かりやすく言えば食パン1枚で済ませている。まさに理想とも言えるメニューを前に俺は囚人みたいだという昨日、思った事は撤回する事にした。犯罪者はこんなご飯を食べる事はできない。気がつけばもう一つの男子グループの何人かも会話が弾んでいるようであった。断片的に聞こえる内容から察するに何か共通の趣味でもあるようだ。そういえば一人は時間あれば携帯ゲーム機で遊んでいた人だ、それが糸口になったのかもしれない。磯村もゲームはやる方なのでもしかしたら話が合うかもしれない、やはりこういう場で何も話さないのは寂しいと感じていた。

 朝ご飯を食べて、9時にまたあの体育館に集まるように言われた。いよいよ今日から本題のスキー体験が始まる。その事前説明、準備が行われた。

「ねっ、あの顔が縦に長い多田野くんだっけ?あの子、帰っちゃったみたい。さっき先生から聞いた」

 岩藤が部屋に居る全員に向けて言った一言。それにはリアクションが大きい、小さいの差はあれど誰もが驚いている事には変わりなかった。

「えっ、なんで?」

 磯村が理由を聞く。

「詳しい事はわかんない。でも、どうやらあんまりこういう自宅以外で寝泊まりするのが苦手な子みたいとは言っていた」

「それで帰れるんだ」

「ねっ。体調崩したわけでもないのに」

 他にも「いいな〜俺も帰りて〜よ」などの声が聞こえてきたが何のためにここへ来たかと考えれば決して本気で言っているようには見えない。

「まぁ、でもこれで彼の卒業は無くなったんじゃない」

 この岩藤の言葉で、もうここまで来たのだから我慢しようと決意を新たにする一同。

「昨日はベッドの上で携帯見ながらニヤニヤしていたのに、いつ帰りたいって思ったんだろ」

「あぁ〜俺も見た」

 ワックスで無造作ヘアを決めている栗田、対照的に髪型には一切、拘らないのか、そろそろ切った方がよいと思うくらい小高い丘のように盛りがっている関が続けて言う。変なきっかけではあるがこのグループで初めてまともに会話をした気がした。

「エロ画像でも見てたんじゃないの?」

 最後に丸坊主、一歩手前の小川が言って笑いが起きる。もしかしたら少しは打ち解けたかもしれない。

 この館内にはスキー用具一式が置かれてるらしい。そこから自分のサイズに合ったものを選び、バスへ持ち運びスキー場へ、そういう流れであった。ファッションには多少、拘る磯村であったがさすがにデザインの良いウェアなどあるわけなかった。両親が大学生時代の頃からここにあったかもしれないと思わせるような古さを感じさせるものばかりで、しょうがないのでサイズが合うだけに重点を置いて選んだ。

 バスに乗る前にウェアに身を包み、スキー板などはバス側面の荷物入れにしまう。スキーのウェアは分厚く動きづらくて仕方がなかった。そういえばどこのスキー場へ向かうのだろう。言われても分からないし、知らなくても特に支障はないがいたって自然と出る疑問だ。

「(本当に何も知らないまま、ここまできているんだな)」

 磯村はここまでの小学校から含めた学生生活、学校の言われるがままに従ってきた事に疑問を抱いていた。なんで学校という場はこんなにも窮屈で面倒なのだろうと思っていたが、それは自らの意思で動いていないから抵抗していると考えた。その自分で考えて行動に移すという経験がない事にも危機感を抱く。いきなり、あなたの自由に、やりたい事をしてくださいと言われても誰もが困惑して、その場から動けないだろう。そのまま成人を迎えて、社会人になっても自立などできるわけがない。結局、誰からの指示がないと動けない、それを内心、嫌だ、面倒だと思いながらやる、そんな人生はもう送りたくなかった。それにピリオドを打つためにも一度、足を突っ込んでしまった高校を卒業する。鎖で両手首を繋がれた状態から一刻も早く脱する、その後はまたとりあえず進学ではなく、自分で考えて進むべき道を歩む、そう決めていた。

 1時間ほどバスに揺られ、駐車場に停まる。外へ出ると遠くから音楽が聞こえてくる。天気は快晴、この青空の下、雪原の大地を踏むというのは雪があまり降らない首都圏から来た者達にはなかなか経験できない事、僅かながらも心は動いていた。

 1組6人を3つのグループに分かれてインストラクターに指導してもらう。例によってあいうえお順であったがここでは男女混合で別れる事になる。磯村のグループでは温和なおじさんというのがぴったりの50代くらいの男性が担当する。

 今日は初めてという事で小さな子供がそりで遊ぶような場所で滑る練習を行うらしい。母の実家が東北ということで磯村は小学生の頃に何度かスキー場に連れて行ってもらいスキーの経験があった。父も大学生時代に経験があるらしくその時は滑り方を父に教えてもらった。その記憶がどんどんと蘇ってくる、今日も教えられている内容は同じだという事を確認して、滑った感触なんかも思い出してきた。

「(八の字で滑る、こんな感じかな……)」

 数百メートル先にはレストランも入っている建物が見えるくらいまでの所から順に言われた通りに滑る。スピードが出ると思わず怖くなりバランスを崩しそうになるが、その八の字を維持していれば大丈夫だと念じて滑る。

「(止まる時はハの字のように広げる……)」

 そろそろ止まる姿勢に入った方が良い所ではこう言い聞かせた。確かに減速して最後は止まった、それには妙に安心する。このまま止まらなかったら人と衝突してしまう危険もあるので緊張感もあった。

「よし、思い出してきた」

 小声でそう言う。もうだいぶ前の話でも滑った感覚というのは意外にも手足は覚えているもので、それが体中に湧き上がってきていると感じる。いつの間にか楽しくなってきた磯村はそそくさともう一度滑ろうと上へ行く。

 お昼は学校側から食券が配られて、それを使い隣接するレストランで食べる。ここには当然、多くの利用客がいて混雑している。ここまでいわば身内としかご飯を食べていなかったので急に身が引き締まるように背筋を伸ばして食事をした。

「お隣よろしいでしょうか?」

「あっ、はい、どうぞ」

 声をかけてきたのは別のグループの男子であった。部屋でも一緒ではないので話すのは今が初めてだ。その男子は喋らないと死んでしまうのかと思うくらいよく喋る。

「いや〜どうですか、スキー」

「まぁ、小さい頃やった事あったのでそれなりには」

「いいですね〜僕のグループの男子、普段、運動しない引きこもりばっかなので、てんで駄目で。これはズッコケる練習かってくらいみんな転びまくってますよ」

 その様子を想像すると笑わずにはいられない磯村。

「そういう時に限って教える人がスパルタで、怒号が飛びまくって『おい、何度言えばわかるんじゃー!』ってもう精神的にも追い込んでくるんですよね。それをはたから見て笑う女子。面目丸潰れですよ」

 そんな話を聞くとこっちの男子はもちろん、女子も言われた事をできている印象だ。能力別に分けたわけでもないのにここまで差が出ることがあるのは不思議であると思わずにはいられなかった。

 ここから3日間、スキー用具は施設内に預けてもらい明日からは手ぶらで来られる。その些細な嬉しさもさることながら磯村は充実していた。心地よい疲れが体に染み渡る。この後は夕食を食べて、風呂に入って、寝る。その行為が楽しみで仕方がなかった。

 2日目からいよいよリフトで上まで行き初心者コースとも言うべき場所を滑る事になる。リフトにはベルト等も無く、しかもタイミングを見計らって乗る事になるがこれには慣れていない者には多少の緊張がはらむ。どちらかと言えば遊園地の乗り物のように万が一に備えての命綱、セーフティーガードがあるというものが当たり前だと思っているので、その気になれば簡単にリフトから落ちる事ができる構造というのは信じ難いものがある。真下に視線をやると動物の足跡と思われるものがあった。何の動物か、鹿か、そんな想像を巡らせながら降りるタイミングがやってきた。ここでも親切に止めてはくれない、うかうかしているとそのまま下へ逆戻りになる。スキーというのはこういう時も気が抜けないスポーツだった。

 インストラクターを先頭に滑る。今日も昨日と同じ人ということは最終日まで教える人は変わらないかもしれない。そう思うと別の、昨日、お昼を共にした男子のグループを案ずる。果たして彼らはこの本格的なコースを無事に滑り切る事ができるのか。何よりスパルタで怖いと言わしめた人が付きっきりでよりプレッシャーがかかる。やはりこういうのは卒業単位を人質に無理やりやらせるものではない。

 幸いにも磯村は、机の上で補習をするよりかはずっと良いと今では思っていた。慣れない所で、集団生活というのはあるものの一つの経験として全然有りだと思うようになっていた。この心境の変化は何か、まだはっきりとは分からないが今の磯村には自然と対峙するように向き合い、その呼吸を肌で感じる心地よさを覚えていた。一歩間違えれば怪我、命を落とす危険もある、それさえも感覚が研ぎ澄まされ冴えている興奮と捉え楽しんでいた。


「あぁ〜もう本当に怖かったな〜。いきなりリフト乗れって言われても初めてで分からないじゃないですか?それで乗れたのに見逃した瞬間にあのおっさんが『なに、ボーっとしてんじゃ、はよ乗れー!』ってまた怒鳴ってきていい笑い者でしたよ」

 今日は新たにもう1人加わり昼食を共にした。それでも相変わらず中心になって喋るのは昨日と同じ男子だ。その話に二人は相槌を打ったり、共感するように感想を言い合う。

「あれさ、降りる時も怖くない。俺、とりあえず立たなきゃと思って立って、そのまま滑って雪の壁にドカンとぶつかっちゃったよ」

 磯村が心配していた事を二人はそのまま実行に移してくれていた。

「あっ、あそこの向かい側にいる女の子、可愛くありません?僕、ああいうのが好みだな〜」

 唐突に、話題を迅速に変えてきた。その男子の指差す方を見ると確かにツインテールの可愛い女性が座っていた。

「うちの高校の女子、みんな髪の色は派手だし、化粧濃くてケバい人がほとんどじゃないですか?やっぱりこういう田舎の方が清純な子が多いんですかね〜」

 別に似ているわけではなかったが無理やり閉めておいた記憶の扉が不意に開いてしまったかのように磯村はある女性の顔が浮かび上がる。雷を怖がる子供のように正座をして、頭を抱えて上半身を屈めながらッドの上で慟哭したあの夜。

 何もかも忘れて一心に滑る。今の磯村にはそれが必要であった。

 心身共に調子がよかったはずなのにちょっとした事がきっかけで顔色はどんよりと曇る。もしかしたらここに居る人達、誰もが純粋にスキーを楽しめるほど心にわだかまりがないわけではないかもしれない。気がつけば少しずつ全体に活気が出てきた2日目、一見すれば普通に夕食を楽しんでいるように見える。それでもふと、自分が今背負っている現実に目をやると急に発作が起きたように立ち止まり左胸をおさえる。そして俯きため息をこぼす。その現実をたとえ一瞬でも忘れさせてくれているのが実はこの空間なのかもしれない。きっとそれぞれが何か問題を抱えてる。それは聞かない、今はただこの瞬間を受け入れて自分なりに各々が楽しもうとしている気がしていた。

 暗闇になり静かになるとまた虫がわくように出てくる。その気持ちは沈んでも、体は相変わらず疲れている。この疲れを癒すため眠ればきっと忘れられる、そう信じて目を閉じる。過ぎ去った過去よりも今、連日のスキーで疲れている事実の方が勝るのは当然だ。

 ここではあの煩わしくも、憎めない放送で目が覚めるが今日は6時ちょうどに起きてしまう。随分と疲れているはずなのに、もしもここが自宅だったら昼まで寝ていてもおかしくない。それができないのもやはりこの環境のせいか。早く気が済むまでまた眠りたいと思いつつも、こんな生活こそ健康的な生活なのであろう。だがこれを自ら実践して続けられる自信はない。

「あっ、もしもし?」

 下の方から声が聞こえた。どうやら岩藤が誰かと電話を始めた。なんとなく分かった。きっと付き合っている彼女と電話をしているような口調だ。羽田空港での一場面を思い出す。そうか、あの肩を並べて歩いていたあの女性なのかもしれない。岩藤が消灯になるまで部屋に居ない理由も納得する。たわいのない会話だったが今日で最後だし頑張ろうと締めくくられた。ついでに岩藤はかなり無理をしているらしく膝を痛めていると知った。寝ているとはいえ他にも人がいる部屋の中で躊躇なく大きめの声で電話してしまうのも、何も考えず滑って膝を痛めてしまうのもなんだか岩藤らしいと思った。そういうやつは前の高校にもいたなと回想するがそんな事をしてしまうと、どうしてもまた傷口が広がってしまう。放送が響く、その傷を押し殺してなんとか起き上がり最後の日を迎える。

 最終日はテストみたいなものが行われた。インストラクターが指定した場所から滑り、可能であれば途中でスピードを緩めたりと緩急をつけて滑ってほしいと言われる。全員が2回ずつ滑り終わるとスキー検定4級に相当する腕前だと言われて後日、その証明書を送るとも言われた。これでこの合宿で予定された全ての行程が終わったと告げられる。

 最後はもう一度、リフトで上まで登り全員で滑る。その前に一人の女子がインストラクターと一緒に記念の写真を撮りたいという事で、磯村にその写真を撮る役目を任された。これでしばらくスキーなどする事はないだろう。もうどのようなコースか頭に入っている磯村は今までにないくらいのスピードを出して先にどんどん行ってしまう。あまり離しても少し申し訳ないので途中で他の人達が来るのを待ちながら。そういえば岩藤が膝を痛めているのを思い出す。それをインストラクターの人に打ち明けたらしく、あまり無理はしないようにということでいつもより全員が来るのが遅かった。

 インストラクターは岩藤のペースに合わせるという事で他の人達は先に行っても構わないと言われた。そこで。

「君、随分、飲み込み早かったね。スキーやっていたでしょ?」

 そうインストラクターから言われた。

「やっていたというほどではありませんけど、小学生の頃に何度かあります」

「あぁ、でもやっぱりそのくらい小さい時から経験しないと、なかなかこの短期間で上達は難しいからね。他のグループは相当、苦労しているって聞くから。僕はまだ楽な方だったんだね」

 笑いながら言う。その他のグループの様子はぼんやりと想像できる。


 いつもよりペンションへ帰って来るのが1時間ほど早かった。明日で帰れる、それが余程嬉しいのか館内の様子は初日と比べて、かつてないほどの解放感に包まれていた。トイレから戻ろうとしてあの体育館の出入り口前を通ると4人組のグループがバドミントンをしていた。道具は館内に備え付けられていたのだろう。その中にスキー場のレストランで話をした男子二人と、同じ部屋で寝ている小川、あともう一人は夕食の時にしか見た事がない背の低い、眼鏡をかけた女子だった。小川はいつの間に仲良くなったのか、或いはバドミントンをしている3人を見て中に入れてもらったか。少しの間、その様子を見てみるとあの4人の中で比較的、運動神経の良い小川が調子に乗って相手を叩きのめしているという図にしか見えない。磯村は部屋へ戻る。

 珍しく部屋には誰も居なかった。岩藤はいつもの事として関と栗田もいつの間にかどこへ行ったのか。所定のベッドで横になりいつものように音楽を聴く。もしかしたら関や栗田もどこか別のグループに混じって遊んだりしているのかと思うと、今自分が一人で部屋に居るという事実に孤独だと感じざるを得ない。

 そう、この短い期間でもとても打ち解けられそうにもないという当初の見込みを裏切りなんだかんだ楽しそうに今では騒いでいる。これは良い事のはずだが、その輪にいつも入れないのも磯村のここまでの人生だった。別に拒否しているわけではない、それでも話しかけづらいとは思われているかもしれない。だから自分にわざわざ話しかけているくる人はいつも少し変わっている。或いは一人にしたらかわいそうだと気を遣ってくれる世話好きな人がいつも誘ってくれる。

 もっと根本的に嫌われている人も見てきたのでまだ恵まれている方だと思いつつ、気がついたら取り残されているような状況になっているというのはこれからも変わらないような気がした。これが自分の人生なんだと。磯村はそれを受け入れようと決めた。だったら自ら声をかけて仲間に入れたもらえればいいじゃないかとも思うがそれができないのも分かっていた。

 自分なんていなくてもいい、その過剰な自己犠牲精神がそうさせている。

 己を知る。磯村恭一郎という人物はどういう人なのか、そんな事を考えた事もなかったが学校を転校して、一人になって、ここまでの人生も含め考える時間ができた。それを知るのもこれからの人生、どう歩むべきか決めるのに大切な気がしていたからだ。これが俺なんだ、別に無理に変える必要もないと思っているし、そう簡単に変わらないような気もしている。自然な状態を受け入れたらいい。


「もうなんか最後は開き直ったのか、片足で滑りだして『お前らにはこんな事できんやろ〜』って自慢してきてもう教えるのを放棄したって感じでめっちゃ腹立ちましたよ〜」

 最後の夕食。このトークもこれで聞くのが最後だ。

「あっ、そうだ。お前、決まったって言ったバイト続いている?」

「いや、残念ながら続かなかった。もう欲しい物が溜まっていくばかりだし時給500円でもいいから滅多にお客さんが来ない本屋でもあれば働けないかな〜。そういえばこの後、直ぐに大学の試験あるんだっけ?」

「うん、明後日。実は一度も説明会とか足を運ばずに受けるからちゃんと迷わず行けるのか、そこが心配かな」

 どうやらこの二人は前からある程度の仲だと分かった磯村。面白い二人だとは思っていたが同時に絶対に人生上手くいかないだろうなと確信した。今はまだいいかもしれないが、いずれは苦労することになるだろうと。だがこの性格にはどこか羨ましさもある。


 最後の朝ご飯を食べた後、各部屋を掃除した。ベッドのシーツなども畳む。磯村にとっては普段やらない事だったが他の人は綺麗に畳めているのが意外だった。

 ここまで朝と晩の食事を作ってくれたおばさん達が見送ってくれた。なにやら一部の女子と相当仲良くなったらしく最後は抱き合う人もいた。

 都会ではなかなか体験できない漆黒の闇の中、このペンションに連れて来られた。今は清々しい青空の下、ここを去る。それと同調するようにみなの気持ちは晴れていた。この4日間で何かが変わったのは間違いないだろう。

 新千歳空港で白い恋人を家族とバイト先にお土産で買う。スキーをしたとはいえ北海道らしい観光などは何もできなかったのが心残りであった。この白い恋人は唯一、北海道に行った証で一層、大事にしたくなった。

 夕方の4時頃に羽田空港に着く。荷物を受け取り出口を出ると目の前にあの出発時、見送ってくれた若林が居た。この瞬間、本当に帰って来れたと実感する。最後、輪を作りあの全日制の男性教師が話をして解散を告げる。日に日に仲が深まっていると目に見えて分かりそれが嬉しかったと言っていた。

「あのっ、よかったらお別れの前に最後、写真撮りません?」


……磯村と小川、そして食事中、よく喋っていた男子二人がそこには写っている。思えばこの二人の名前を聞いていなかったと家に帰ってから気がつく。こんなに笑顔で写真に写っているのに二人の名前を知らないなんておかしい話である。そもそも向こうも話しかけておいてそこを気にしなかったのか。やっぱり変わった人だった。そういえばあの黒いキャップ帽をペンションに置きっぱなしにしてしまい、後日わざわざ送ってもらった。それはなぜあれを購入したのかを考えれば存在を忘れて当然かもしれない。

 初日は空っぽだった胸の中にはいつの間にか多くのものが詰まっていたのは確かである。終わってみれば悪くない気分とも言えた。

 磯村はあの4日間で出会った人達の顔、出来事を忘れる事はない。今でもこうして記憶にも残っている。記憶に残るか否かそれは長さではないのだ。

 今もあの雪景色、滑る音に冷たい風、そして暖かいペンションの中が蘇ってくる。

 

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