見出し画像

正しいと正しいの争い

私が物心ついたころからユダヤ人国家のイスラエルとパレスチナ人は争っていた。カトリックの幼稚園に通っていた5歳の時、クリスマスプレゼントにサンタクロースが置いていった「旧約聖書物語」を何度も繰り返し読んでいた私は、エルサレムはユダヤ人の約束の地だと信じていた。だからユダヤ人の国を占領しているパレスチナ人は、バビロン人やローマ人のようにユダヤ人を彼らの土地から追い出す悪い人たちだと思い込んでいた。

イスラム教という宗教の存在を知ったのはたぶん10歳ぐらいの時だったと思う。カトリックの幼稚園で2年間宗教教育を受け育った私にとって、神様を信じるということは天にまします我らの父に祈るということであり、我らの父はユダヤ教の唯一神でありその息子がイエス・キリストである。そんな子供がアッラーという別の神様を信じてその神様に祈っている人たちがいるということを知り、最初はとても混乱した。

混乱して小さい頭で一生懸命考えて、出した結論が「人は信じるものが違えば違うものが見えるのだ」ということだった。そう思えたのは、正月には神社に初詣に行きばあちゃんの葬式には坊さんが来る普通の日本の家庭に育ったことで、自分にとってはユダヤ教もキリスト教も既に信仰の対象ではなく「そういう神様もいる」という相対化された存在になっていたからだろう。信仰の対象が違う人同士が命をかけて土地を争う戦争は、当事者同士が命をかけるの仕方がないにしても外野が口を出すようなものではないと思っていた。

そして不思議だったのが、アメリカはなぜ無条件にイスラエルに味方するのかということだった。その頃はアメリカのユダヤ人コミュニティの話なんて知らないので、純粋に「アメリカの人たちが遠いパレスチナで起こっている戦争に率先してかかわっていく」のが不思議だったのだ。

私には2つ年下のアメリカの教育を受けていた従姉妹がいた。父の妹が米軍関係者と結婚しており、一家は父親の任地である日本各地の米軍基地を転々としていたのだ。中学生になって多少は英語が話せるようになった私は彼女に「どうしてアメリカはパレスチナの戦争でイスラエルに味方してお金や武器を送っているの」と聞いてみた。

いまでも、質問の意味を理解した時の彼女の不思議そうな表情は印象に残っている。「弱い国を助けるのは当然でしょう?どうしてそんなことを聞くの?」と聞き返された。「え、だって、遠く離れた国だし、アメリカと関係なくない?それに、パレスチナ人の人たちだって同じ人間だよ?」と言うと、「そうかもしれないけど、世界中の国から迫害されて自分の国がなかったユダヤ人がようやく自分達の土地を得たんだから、それを守るのが正義で、正しいことをするのがアメリカの役割なんだよ」と、一点の疑いもなく彼女は言った。

「ふーん、そういうものなんだ」「そうなんだよ」で会話は終わってしまった。納得したわけではなかったが、「それが正義でアメリカの役割」と言われたら、それ以上何を言えばいいのかわからなかったからだ。「どうしてそれが正義なの」と聞き返したとしても「どうしてそんなことを聞くの」と言われておわりそうで、それに対して何か言えるほど英語も話せなかったし自分の意見も持っていなかった。

争っている一方を疑問なく「こちらが正しい」と言い切れるのは、きっと学校でもそうだと教えていたのだろうと思った。年齢を重ね、子どものころ教わった「正しい」を疑い自分の頭で考える大人の数はきっとそんなに多くない。「正しい」は世代を超えて引き継がれていくのいだろう。そして立場の違う人が持つ「正しい」と「正しい」の衝突で生まれる争いはなくならない。そう思って絶望した記憶は今も続いている。

それから40年、世界ではいくつもの「正しい」と「正しい」の争いがあり、多くの人が死んでいる。その間に飛び込んで争いをとめようとする人はすごいなと思いながら、私は「いのちだいじに」ってドラクエの呪文を唱えながら国境なき医師団に寄付をすることしかできない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?