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旬の時期やパワフルさ、と、いつでもどこでもを求めること。「生きる」てどういうことだろ。

ヘッダーの写真に使ったのは
あるお店でランチしたときに見つけた文章。

これを読んでてふと
野菜にとって「生きる」てどういうことだろ。
なんてことを考えました。
 
そもそも、野菜、という呼び方や
旬の時期、という考え方自体が
「食べる側」からのカテゴライズにすぎず
植物たちは、最初から食べられることを
想定して生きてるわけじゃないだろうなと
 
「たまたま」そこに生きていて
動物が、おなかがすいたときに
「たまたま」口にしたところ
その時期に体に必要な栄養素が
「たまたま」摂れるようになっていた
という、結果論にすぎないわけで
 
生態系というのは
不思議にして絶妙なものだなぁと
思わずにいられないわけですが。
 
そこで「これはおいしい」と
「いつでもどこでも食べたい」と
おもってしまった人間が
 
その土地、その時期に育ったものが
いちばんパワフルなのだというセオリーを
「不便だ」と意味づけた結果
たしかに、いつでもどこでも
食べられるようにはなったけれど
 
私も含めた人間たちの多くは
その植物の「本来の力」を
知ることなく接することになってる。
 
野菜と呼ばれる植物たちが
どう思ってるのかはわからないけど
 
もっともエネルギーに満ちるはずの
土地や季節から引き剥がされ
どこをとっても同じ姿形になるよう
「整えられた」彼らのエネルギーは
ほんとうにいま、旬だと言っても
満ちてるんだろうか?
なんて思わずにいられません。
 
これ、人にも言えるとおもってて
 
その人それぞれに
いちばんパワフルな場所や時間が
あるんだと思うんですよね。
もっともエネルギーに満ちる条件
みたいなものが。
 
それなのに
「いつでもどこでも発揮せよ」と
その場所や時間から引き剥がされ
どこをとっても同じスキルやらなんやらで
「整えられた」人たちのエネルギーは
ほんとういいま、社会の中に
満ちてるんだろうか?
 
そんな人たち(私含め)にとって
「生きる」てどういうことだろ。
 
もうそろそろ
やめられないものですかね。
そんな、整えられて作り込まれた
金太郎飴のような人たちを
「優秀」だなんて考えること
 
そのかわりに
本来、どこで咲く人たちなんだろ?て
どんなふうに育つ人たちなんだろ?て
そんなことを
考えていけないものですかね。
 
 
今日も今日とておもいつくまま
のびのびと想いを馳せられて
充実のランチタイムでした。
  
はい。(・∀・)

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