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「人間は、短期間だけ親切になることは容易である」

臨床心理学者で、元文化庁長官でもある、故・河合隼雄さんの言葉です。

「立ち上げる」ことももちろん大変なエネルギーを必要とするけれど、「継続する」ことにはまた違った質のエネルギーが要ります。長期間にわたる取り組みに必要なことはなんだろうか。と考えたとき、重要な要素として「無理がないこと」「自然な動きの中に組み込まれていること」があるんじゃないかと思います。

自分の話で恐縮ですが、近頃、何かの話をした流れで「前向きだ」とか「優しい」というコメントをもらうことが増えました。でもたいていの場合、自分には心当たりがありません。

申し訳ないんですが、「優しくしよう」とか「前向きであろう」なんて、あんまり思っちゃいません。ただ「フラットに物事を見ること」「良し悪しの判断をしないこと」を心掛けているだけ。それが、優しさや前向きさとして、他者の目には映るようなのです。(思えよ、というツッコミはこの際置いといて)

ありがたいなぁ、と思うんですね。だって「前向きであろう」とか「優しくしよう」と考えると、なんだか疲れそうだし継続はできない気がするのですが、「フラットに物事を見ること」「良し悪しの判断をしないこと」は、自然な、自分として生きる上での営みに組み込まれたことなので「継続する」という概念自体が必要ない。
だから、他者から見た「前向きさ」や「優しさ」がそこから生まれているのだとしたら、ラッキーだな、と。

誰かに何かをしてあげようと思うとき。或いは、何かの活動をやろうとするとき。何か新しい取り組みを起こすとき。
自分にとって、或いはそのコミュニティにとって、果たして自然な動きの中に組み込まれている営みだろうか?と問うてみて、もしその答えが「NO」であるならば、私は「やらない」という選択肢を選ぶほうがいい。と考えます。

短期間なら、問題ないんです。
ちょっとくらい無理してても、ちょっとくらい見栄張って活動しても、ちょっとくらい大風呂敷広げて取り組んでも、短期間なら続くし、ある一定の効果も出せます。

でも、続けていくと、じわじわと無理が生じてくる。でも辞めるに辞められなくて、どんどん辻褄があわなくなったり、しんどくなってしまう。そして「形骸化」と呼ばれるようになったり、一個人の人生なら精神的なダメージを引き起こしたり、ボランティアなんかだと「最初はいいんです。でも続けてくれるところは少ない」みたいな話になってしまう。

「やりたい」かもしれない。「やるべき 」かもしれない。だけど、無理があるなら「やらない」。そしてその分のエネルギーを、もっと自分にとって、その組織にとって、無理のない、自然な形(を探すこと)に使う。
そのほうが、結果的にいい活動になる可能性は高いです。

意識的に「親切」になろうとするのじゃなくて、結果的に「親切」と受け取ってもらえたら幸運だ、くらいの気持ちで、やり続けられることを見つけること。そういうひとつひとつを着実に積み重ねていくことが、他の誰も真似のできない取り組みや 、誰よりも遠いところまで行ける道なんじゃないのかな、と思っています。

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