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1. 再 生

純白の空間の中で

 気がつくと、目の前が真っ白だった。ワッ、一体何をボーッとしていたんだろう……。

 今にも、白い壁にぶつかりそうな気がしたので、あわてて後ろに下がろうとした。でもなぜか、足の感覚がない。足を見ようとしたが、首はおろか、目さえも動かない。どうしたんだろう……。

 私は、自分に何が起こり、どういう状態になっているのか思い出そうとしたが、記憶がまったくない。わかるのはただ、自分が物音ひとつしない、まばゆい純白の空間の中にいて、不思議なほどに心が平安だということだけ。産まれたばかりの赤ちゃんのように、「新しい世界に生きている!」という、わき上がるような喜びに満たされていた。もしかして、ここは天国?

  ずっと、そのままの状態でいたかったが、なぜ自分が天国にいるのか、記憶を引き出そうとしていると、ブラックホールのような闇の中に、とつぜん白い人が現れた。横たわったままのその人の肌は血の気がなく、死に飲み込まれてしまいそうに見える。私はその人を助けようと、あわてて前後左右、上下を見回し、出口を探した。はるか遠くに、針の穴ほどの光を見つけた私は、横たわった人の手をとり、ひたすらに光の方向を目指した。

 ブラックホールのようだった私たちの周りは、やがて星々がきらめく広大な宇宙に変わり、私たちは無事に光の中に入っていった。光の中に自分を見つけたことで私は、「想像を超えた大きな力に守られている」という安堵感をもち、「生きている」という確信をもった。

 いつのまにか私は、知らない部屋に寝ていたようだ。目を覚まして見上げた天井は私の部屋とは違っている。よほど疲れて深く眠っていたらしく、体も心もエネルギーではち切れそうに感じた。「でも、ここはどこだろう」起き上がって辺りを見回そうとしたが、やはり体はピクリとも動かない。というよりも、私の体があるのかないのかすらわからない感じで、魂だけがふわふわと浮いているようだ。私の心と体は繋がっていなかった。どうしてそうなってしまったのか、私はふたたび、記憶をとり戻す努力を始めければならなかった。

セーターを着た女性

 目の前に、見覚えのあるセーターを着た女性の顔があった。「ここはどこ? 私はどうしてここにいるの?」と聞こうとしたが、頭の中では声がしているのに、なぜか声が出ない。どうにかして自分の思いを伝えたいとあせるが、その女性は何も言ってくれない。やがて、その女性の姿もどこかへ消えてしまった。

 しばらくすると、「体を横に向けますよ」と声がした。動かされるままに見ていると、数台のベッド、ベッドの上のほうのカーテンレール、レールからぶらさがった点滴の容器、ベッドテーブルに置かれたテレビが視野に入り、私はようやく、自分が病院の大部屋のベッドに寝かされていることを知った。

 ベッドの周囲には、数人の看護婦と医師がいた。私はなぜ病院なんかにいるのだろう——。訳がわからずにいると、医師の一人がしゃがみこんで言った。

「この指を動かすから、見て」

 どうしてそうするのかわからなかったが、言われたとおりに医師の動かす指を目で追っていると、「目だけ動かして。首は動かさないで」と言う。私は目だけで追っているつもりなのに、どうしても首が動いてしまうらしい。そんなことを何度か繰り返したあと、医師は立ち上がり、「この患者は意識が戻った。

 私の言葉を理解しているようだ」という言葉を口にした。
私は、意識を失っていたのだ。どうして? いつから? 病気だとしたら、
私はどんな状態なのか、これからどんな治療を受けるのか知りたかったが、言葉にできない私の思いが医師たちに届くことはなかった。それは私の顔を見ていながら、彼らが何も言ってくれないことでわかった。

 あのまばゆい純白の空間は、意識がない時に見たものなのだ——。体を自由に動かせたころには想像もできなかったほどの歓喜を味わうことができたけれど、実際には、危篤状態だった。そしてもう動くこともできず、声を出すこともできないくなっていたのだ。

 人間の体がこんなにもろく、はかないものだったなんて——。愚かにも私は、知らなかった。そのうえ、自分が「生かされている存在」だとも知らず、自分の力で人生を切り開いていかなくては……と思っていた。でも、「いつか、体の不自由な人のためになってあげたい」と思っていたはずの私は、どうやら、そうすることができない存在になってしまったようだった。

 生まれた人間が、いつか必ず死ぬように、健康な体を持っている人も、いつかは必ず生活に不自由をきたすようになる。健康に生まれ育ち、体力にも結構自信のあった私にとって、身近だと思っていた「健康」より、縁遠く思っていた「体の不自由」さのほうが近くにあったのだ。そんなわかりきったことさえわからないまま、健康の貴重さを実感することもなく日々を送っていたけれど、このことこそ生きるうえで学ぶべきことだったのだ——。

 その日の夕方、両親が病院にやってきた。父に「亜沙子」と呼ばれて私は自分の名前を思い出し、昼間見たセーターを着た女性が母だったことを知った。その顔は別人のようにやつれていた。私はよほど重態だったようだ。何があったのかはわからなかったが、ただただ両親に申しわけなく思った。

言葉とのたたかい

 自分がなぜ病院にいるのか思い出そうとしていると、ベッドサイドに数人の女性がやってきた。
 「亜沙子ちゃん。私たちのこと覚えてる? 私たち、ICUの看護婦」
親しげに声をかけられたが、私には記憶がない。 わからない——と首を振ったが、彼女たちは「覚えているのかな?」などと言い合い、私が病院に来た朝のことを話し始めた。

 私はおぼろげに、中学の制服や中学一年生だった自分のことを思い出したが、今がいつで、記憶のなかにあることがどのくらい前のことだったのか見当もつかない。知らない間に年月が経ってしまったような、妙な気分だった。

 生まれてからの記憶をたどっていくうちに、私は、少し首を動かしたり、わずかではあるが声が出せるようになった。そばにいる親を呼んだり、「かゆいところに当たったら声を出して」などと言われて声を使うようになったが、声を出したいときにすぐに出るとは限らなかったし、思いもよらないときに声が出ることもあった。「どうしたの? どこか痛いの? かゆいの? 暑い? 寒い?」などと聞かれたとき、「何でもない」とわかってもらうまで、ずいぶん時間がかかったものである。それでも私の場合、知的障害も失語症もなく、付き添ってくれたのが十三年間ずっと一緒に暮らしてきた母だったので、比較的スムーズに最低限の意志疎通はできたようだ。

 そんな私に、父が、厚紙に書いた「五十一音表」を見せて言った。
「ここに書いてあるひらがなが読めるか? 『あかさたな』の順に指差すから、言いたい字のある行でうなずくんだ。そうしたら次に、その行の五文字を指す。言いたい字のところで亜沙子がうなずいて、それをつなげていけば、亜沙子の言いたい言葉になるだろ?」

 このようにして私は、両親に単語による簡単な意思伝達ができるようになったが、言いたいことが少し複雑になると、なるべく短く、同音異義語のない簡単なキーワードを言って、あとは聞く側に想像してもらうしかなかった。

 両親に、「今の亜沙子でも使えるものがあるかな」と聞かれた時、握りしめていた右手が、見た目は動いていないようでも、筋が意識してピクピク動かせるような気がしたので、私は、手で押す「スイッチ」と答えようとした。でも「五十一音表」には、小さな「つ」の字がない。困ったが、両親にはすぐわかるだろうと、「すいつち」と言うことにした。すると父は、「すいつち? それだけか? なんだそりゃ」と、額にしわを寄せて考え込んでしまった。そして、
「亜沙子、本当に『すいつち』なのか? 『すいつち』なんて単語は日本語にはない。よく考えてくれ」と言う。

 難しい言葉を使って話せる人でも、こんなことにも気がつかないんだと思いながら、イライラを抑えようとしている父の表情や口調に、しゃべれないもどかしさを感じていると、「亜沙子の頭の中で、言葉がこんがらがっているんじゃないのか?」と父が言った。 ショックだった。

 こんな状態になっても、思考力は以前とほとんど変わっていないから、リハビリをすれば話すことができるようになり、動けるようになり——と、将来に希望をもっていた私だったが、父にまでそのように言われてしまうということは、両親以外の人には思考力にも障害がある状態だと思われても仕方がない。まるで、社会から「おまえはもう、どうしようもなくなった」と言われたようでひどく悔しく、顔の筋肉は麻痺しているにもかかわらず、目からは涙が次から次へとあふれ出た。

 母に、「わからないから、違う言い方をして」と、やさしく言われて、私は「ボタン」と言い換えることにした。でも、表には濁点もなかったので「ほたん」となってしまい、両親はまた考え込んでしまった。こうして、清音だけの文字を使い、「おす」と表現することによって、ようやく通じたのだった。

 このことで両親は、清音、促音、濁点、半濁点、拗音、長音を使わなければ意思表示ができないことに気づき、小学一年生が使うような、ひらがな・カタカナの書いてある下敷きを文房具屋で買い入れ、それを使って、私とコミュニケーションがとれるようになった。

私の身に起こったこと

 よだれがだらだらと出たが、点滴が外れた私は、ベッドをギャッジアップさせて、首を据えさせる姿勢をとることが多くなった。

 私のいた病室は、病棟のはしっこの六人部屋だった。廊下をはさんだ向こう側にはナース・ステーションがある。私を除く五人のうち、私のベッドの隣とその向かいの二人は昏睡状態の人、もう一人はやたらとばたばた動き、声をあげる人、そしてあとの二人はほとんどしゃべらない人であった。

 母は、私の手足をとって動かしたり、ベッドに腰掛けさせたり、腹ばいにさせて肘を立てさせるといった、簡単な訓練を私にするようになった。けれども、両親はもちろん、医師も看護婦さんも、私の状態については何も言ってくれない。そのうえ、いくら待っても、誰もお見舞いに来てくれない。前にICUの看護婦さんが話していたことからすれば、私は朝、制服を着て病院に運ばれてきたのだから、おそらく登校中のことで、学校にも連絡がいっているはずなのに……。私は不安でたまらなくなり、母に「なぜ」と聞いた。

 母の話によると、私は今から五十日ほど前の一九八〇年十月八日の朝、登校途中に交通事故に遭ったらしい。この時車にはねられた四人の生徒の中で、私がいちばん出血が少なかったのだけれど、最後に救急車に乗せられた時には、すでに瞳孔が開き、あまりに重篤だったため近所の病院からこの救急病院に運ばれてきたという。

 処置室に入ったものの私の場合は、脳が頭蓋骨の中で変形していたうえ、挫傷部が脳幹部だったため開頭手術ができなかった。そのため、頭蓋骨に入ったひびの処置を行い、点滴を着けたたげでICUに運び込まれたようだ。それ以後、呼吸困難を繰り返しながら生死の境をさまよい、約五十日後にやっと意識をとり戻したのだそうだ。

 私は、意識がなかったのがたった五十日間だと知ってほっとしたが、母
はその間、心労のために倒れたこともあったという。また、その間に両親は自分たちが結婚式を挙げた教会に行き、牧師に私のことを話し、祈ってもらったということも、母は私に話してくれた。その後、私はときどき目を開けるようになり、簡単な質問に、首を振ることで答えるようにはなったらしいが、医師の診断によると、「一生、ベッドの上での生活になる」ということが両親に告げられたようであった。

 まったく記憶がなかったので、母の話はドラマのストーリーのように聞こえ、障害を持ったのは自分ではないような気がした。以前の母は、いつも私をハッスルさせるようなことばかり言っていたので、私が「重度障害になった」という話も、私を奮い立たせるために言ったことかと思ったが、「一時は、『意識が戻っても意思表示はできないかもしれない』と言われたけれど、心は以前の亜沙子と変わっていなくてよかった… 今は、気管切開をしているから話せないけれど……」母はそう言って泣き出した。が、こんな姿になってしまっても私の内面を理解してくれる人がいたことがうれしかった。

一つの啓示


 気管を閉じても、話せるようになるかどうかは、実際のところわからなかった。しかし、そのことよりも身体の不自由な人について、ほとんど知らなかった私は、自分がどうなっていくのか、見当さえつかなかった。でも、これだけの身体障害を抱えれば、もう普通教育を受けることはできないだろうし、進学、就職、恋愛、結婚といった、私の将来の夢も夢のまた夢。ただわかるのは、これからずっと、家族など周囲の人に負担をかけなければ何一つできない自分が残ってしまったことだけ——。医師の言葉を信じたくはなかったが、そう思うと泣かずにはいられなかった。夢も希望もあるうちに、あっけなく死んでしまえればよかった——とさえ思った。でも、今の私には、「死なせてほしい」と言うことも、自ら命を断つこともできない。

 母が顔を洗いにいった後も、私は泣き続けていた。すると病室の隅に、白く光る人が現れたのだ。私の驚きをよそに、光る人は言った。
 「恐れることはない。あなたは神に選ばれた。あなたはこれから、想像したこともない苦しみを味わうが、それよりも大きな幸福を得るだろう」。そして、消えていった。訳がわからなかった。

 その後数日間は、「きっと悪い夢を見ているんだ」と、平常心を保とうとしたが、寝ても覚めても状況は変わらない。現代の医学の力でも、家族の愛情でもどうしようもない事態を、何とか自分の理性で乗り越えたかったが、耳に入る声、目に映る人の姿——それがラジオやテレビからのものであっても、私には、ねたましく、うとましかった。いっそのこと、知的障害をもち、自分の状態が理解できなくなっていればよかったという、誤った考えさえ頭をよぎった。が、自分の状態が理解できようと、できまいと、家族はこれから私の世話をしていかなければならない。交通事故などの災難を起こすことはできても、それで傷ついた人間の体は元に戻すことはできない。人間の築いてきた技術力のもろさと、現在の社会の中で、学歴と経験をもってすてきに生きることを目的のように思っていた私自身の愚かさを、思い知らされた気がした。


 そこで私は、以前の私は交通事故で死に、新しく生まれ変わったんだと思おうとした。そしてふと、昔読んだ子ども用聖書のこと、十字架にかけられて死んだイエス・キリストのことを思い出した。そして神様が、死にかけていた私を救うための身代わりとして、彼を死なせたのだという気がした。日常生活では、いわゆるよい子でいようとしていた私だが、実際には、この世に惑わされて、ひたすら罪を重ねる子だった。でも神様は私を愛し、私の人生を十三年で終わらせないでくれたのだ。私は、言葉では言いつくせない神様の愛の一端に触れたとこと確信した。

 自分が思い描いていた人生の設計図は粉々に崩れてしまったけれど、これからの人生は神様がデザインしてくださるのだから、恐れることはない。そう思ってはみたものの、これからの自分が社会の中でどうなっていくのか、将来を想像するのも恐ろしかった。でも私には、共に歩んでくれる家族や将来出会う多くの人々に、あの時の不思議なほどの心の平安、わきあがる喜びを伝えていく使命がある——そう感じた私は、神様にすべてを委ねて生きていく決心をした。今はまだ、光る人の言葉を信じ、暗唱することしかできないけれど……。


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