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意思決定の価値を決めるもの

主体的な自己決定
独立した意思決定

意思決定においては、いかに自分で熟考し決断したかが大切だと言われて久しい。

しかし、この自分でというがまこと厄介だということは、あんまり知られていないように思う。

自分の意思の中には、純粋な自分の意思もあるのだけど、家族や友人の意思をはじめ、社会通念や空気感も含まれる。こういうものを包括した上での意思、ひいては自分なのだ。

それゆえ、意思決定というのは実体があるようで、ない。
蜃気楼の中にある絵画のような。

わたしが臨床でよく接する例は、家に帰りたいおじいさんと帰ってきてもらっては困る家族、というケース。

おじいさんの気持ち

家に帰りたいけれど、帰ってきてもらっては困るという家族の気持ちもよくわかる。だいたい、面倒をみてもらわないといけない身体だけど、家族に面倒をみてもらうのはプライドが許さない。でも、家ほど自由に過ごせる場所はないし、う〜ん…

家族の気持ち

家に帰ってきてほしいけれど、日中面倒をみる人が誰もいない。
それにおじいさんのおむつ交換だなんて、あっちもイヤだろうけれどこっちはもっとイヤ!
おじいちゃんが嫌いな訳じゃないけれど、お金がかかってもいいから、家以外の場所で過ごして欲しいというのが本音…

どちらかだけの気持ちを尊重するのは、簡単だ。

でも、それは現実的じゃない。
人は、人の中で生きている。
関係性のバランスがとれてはじめて有機的な繋がりになる。

ひとつの意思だけを掬い上げてしまったら
周りのバランスが大きく崩れることもある。


意思決定で肝心なのは、納得感だと思っている。
自分Aの決定にどれだけ自分Bの信頼を寄せることができるか。

イコールが望ましいけれど、それは限りなくできないに等しい。
自分Aの決定には、自分B以外の因子も起因する。

家族の意思を汲むにしろ
医療従事者のアドバイスを参考するにしろ
空気感を感じたにしろ
時代の流れを受けたにしろ

これらが自分Aの決定を満たす要素になっていること、そして、周りからの圧力ではなく自分Aが引き寄せた因子になっていることがポイントだと思う。

真の納得感というものは、数値化することも他者に証明することもできない。他人が見ることのできないものだ。

けれども、その人が醸し出すオーラになってゆるやかに人々に伝播し、誰かの人生の一部となって生き続ける、ずっと。

自分Aと自分Bが手を取り合う意思決定を重ねていって
結果、いいオーラを醸し出す人になりたいし

そういうオーラがダダ漏れな人の近くで
日々を過ごしていきたい。








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