「ない」ものを「ある」と認識することの難しさ
思ってるけど言わないことシリーズのお話
2022年、わたしの中でかなりのホットトピックだったので、お時間ある方はお付き合いいただけると。
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思ってるけど言わないという選択をする理由には、以下のようなことがあるように思う。
言っても誰もしあわせにならない
言っても変化がなさそう
言ったあとのやり取りや展開に消耗しそう
言うためのHP・MP的なものが今の自分には足りない
でも、そういうものに意義や価値があるとした場合、どうやって掬いあげたらいいんだろうね。
きっと正しいけど相手を傷つけそうなこと、とか
パートナーと別れた理由、とか
会社を辞めた理由、とか
コミュニティを離れた理由、とか
みんな、知りたいんじゃないの?
たとえば、サービスで不快な思いをした場合、サービスセンターに問い合わせやクレームをいれてもほとんど現状が変わらない、ということは多くの大人が経験していることだと思う。
わたしの場合、不快な思いをしてもそのクレームをいれるための時間や元気とサービスへの想いを天秤にかけて、諦めてしまうことがほとんど。
もしかしたら、離れてしまったユーザーを取り戻せるようないい(?)クレームかもしれないのに。
ITに強い看護師という自覚はあるけれど、愛してると言えるサービスなんて、正直ない。
IT界隈の外にいる人は、だいたいみんなそうじゃない?
そうなると、サービスを利用しなくなるだけ。
サービス側からみたら、ユーザーがひとり離れただけ。
離れた理由が異なったとしても、結果は他の人と一緒になる。
n=1の現象。
同じようなことが、人間関係にも言えると思う。
思ってるけど言わないことがたまっていき、それらをどう処理していいかわからなくなると、関係の終焉を考え始めてしまう。
そりゃ、思ってることを言える関係のほうが、健全で持続性があると思うから。
人の逝去に思いを馳せることだけじゃなく、自分の思考や感情を供養することだって、わたしには大切な内省のひとつだ。
けれども、そういう場や時間を設けられなくなってくると、とてもしんどい。関係性の名前なんて関係ない。関わってる時間よりも、供養の時間のほうが長くなってきたりすると、もう。
わたしの場合、看護というちょっと特殊な仕事をしていて、それは責任とプライドをもってまるごと人とぶつかることだから、どうしてもそういうふうに考えてしまうだけなのかもしれない。
世の中には、人の感情の機微に無頓着な人や共感の姿勢を示すことが苦手な人というのが一定数いるからね。そういう人には、きっと理解されにくいことなんだよね。
けれども
これ、何度も前から言ってるのに現状ずっと変わってないし、もう言わなくていいや
→相手への期待値がどんどん下がっていくな。いいのかな?
この人、たしか配慮のある言い方しないと不機嫌になるんだよな……わたし、いまそんな元気ないし言わなくていっか
→なんで仕事じゃないのに、ここまで相手に気を使わないといけないの?
あぁ…会話が盛り上がっていくとそういうこと言っちゃうのか…分かり合うことへのモチベーションが下がっちゃったし、もう言わなくていいや
→こういうことが今後も頻発するならミュートしちゃおうっと
やり取りが深くなっていくことを望んでいないけど、それを言うほうがめんどくさいのでスタンプでいっか……いや、もう既読スルーでいいや
→展開していかない会話を続ける意味って……ある???
こんな感じ。
個人的に、友達ほど楽しくて無責任な関係性はないと思う。
いつでも深められるし
いつでも離れられる。
お手続き完了のメールも来なけりゃ
退会手続きもないしね。
SNSやnoteを通じて発信しているせいか、テキストコミュニケーションが得意だと思われがちなんだけど、そんなことはない。
リアルな場でのコミュニケーションが一番好きだし、得意。
相手が「ない」としたものを、五感で掬い上げられるチャンスがこちら側に「ある」から。
テキストコミュニケーションの裏には、意識的に削ぎ落としてる思考や感情が無限にあって
その「ない」にはちゃんと理由があるってことを、残したくてこれを書いた。
もちろん、このnoteを書くにあたっても「ない」にしたことがたくさんある。
「ある」のそばには、それをはるかにこえる「ない」が「ある」ことを、忘れないで。
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