ネイティブに役割なんてあってたまるかよ

ちょくちょくnoteに投稿しているので、知っている人もいるかもしれないが、日本語クラスで先生として授業をしている。これを友達に言うと「えーすごいね」「いい経験だね」「留学充実してるね」などと声をかけてもらえることがある。

自分でも、ラッキーにラッキーが重なって今に至っているわけだし、1回1回がかけがえのない経験になっているのは事実だと思う。

だけど、その反面葛藤もある。日本語に詳しいわけでも、教免を持っているわけでも、経験値があるわけでも、なんでもない人が、日本人というだけで、日本語を教えてよいものか。これが本当に生徒のためになっているんだろうか。「生徒のため」「他の先生のため」という言葉に隠れて、ただの自己満足なんじゃないか。

教えていくうちに「ネイティブスピーカー」として、どうやって授業にかかわるべきか。そんな問いが浮かんできて、周りに聞いて回った時期があった。音読をしっかりしてあげたら?自分の体験を話したら?文字の書き方のコツを教えてあげたら?などいっぱいアドバイスがもらえた。

ただ、言語ってそんな甘いものじゃないんだ。生半可な気持ちで教えられるほど、確固たるものではなく、繊細なものなんだ。乱暴に扱ったらすぐに壊れてしまう。新たな言語を学び習得した人が、「物事に対して新しい見方ができるようになった」「もう一つ別の拠り所ができた気分」と話していたのを目にしたことがある。

そう、言語を学ぶって、新しい見方ができるくらい、もう一つの拠り所ができるくらいとてつもなく大きなものなんだ。教えるのは、そのお手伝いをさせてもらうこと。

はっきり言って僕には、その資格がない。ここで言う資格は、公的なものと技術的なものの両方の面だ。

じゃあ、どうして続けてるんだ?そんなに言うならやめればいい。

そんな声が聞こえてきそうだ。それが怖くて、自分で自分を否定してしまいそうになるのが怖くて、なかなかかけなかった。今もなお、悩みの真っ最中で、迷いながらもがいているイメージだ。当然、授業へのコミット具合にも影響がでている気がしている。

ただ今一つだけ、たしかなことは、言語学習において、ネイティブの役割なんてないってことだ。ネイティブだからこそできること、ネイティブだけが知っていること、ネイティブだけが正しいことなんて何一つとして存在しない。そればかりか、日本語として正しくないことを、使っていることにも大いに気づかされる。

だけど、みんなは、当然、ネイティブとして接してくる。ネイティブというのは存在だけがあって、役割がないもののことを言うのだろう。このことをこれ以降一瞬たりとも忘れてはならない。

この意識は自分の心に刻み付けたい。

この意識が今後自分の行動にどう影響を及ぼすか。まだまだもがき続けたいと思う。


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