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こころの傷とからだの傷

 人生いろんな辛いことがあります。勿論、痛いこともあります。心においても、そして体においても。

 体に感じる痛みとしては、自転車で転んでしまった、足の小指をぶつけてしまった、筋肉痛になってしまった。
 心の面では、友達と喧嘩をしてしまった、罪悪感残ることをしてしまった、失恋をした、などなど。

 「満身創痍」という言葉がありますが、人は沢山の傷を堪えて耐えて生きています。誹謗中傷や揶揄などたくさんの刃物が散らばっていて、いつ踏んでしまい、いつそれを突きつけられるかわからない時代です。

 「創痍」とはどちらの漢字も『傷』という意味です。「全身傷だらけでボロボロである状態」でもありますが、「精神的にもボロボロな状態」という意味も持ちます。

 痛みなどというものはいつまで経っても慣れることのないものです。いつまでも痛いものは痛く、苦しい時には苦しいです。そして傷ついた体や心は、長い時間をかけて瘡蓋を作り徐々に直していくしかありません。

 結局のところ、心の傷も体の傷もどちらもにも効く良薬は時間の経過なのか、と少し残念な気持ちを覚えます。

 あの時に言われたひどい言葉が今でも鮮明に心を抉るときがあります。それは現実かどうかを疑ってしまうほど信じることができなくて、聞き入れることができなかった言葉です。

 古傷が痛むように思い出してしまうその言葉は、いつ治るのか。多分、あの万能と言われる良薬でも治すのが難しいのかもしれません。

 私の右手にも、その言葉のようになかなか治らない傷があります。骨にヒビが入ったのですが、放置してやりたい放題していたら完治しなくなってしまった傷です。

 重いものを持とうとした時や、体重をかけたときに「ズキッ」と痛むこの傷も、私の失態ではありますが、効きそうな良薬はなさそうです。

誰かの痛み

 もし、自分が誰かの疵(きず)を代わりに負うことによって、誰かが報われるのなら。大切な人が救われるなら、その疵を庇う勇気はあるのか。そんな内容の小説を読みました。

 『特別な力を持っていた主人公は優しすぎるあまり、傷ついて痛み、悲しむ人を見ていられない子でした。なので「誰かの痛みを代わりに背負う」という力を使って、さまざまな人たちの古傷だったり、沢山の痛みや苦しみを自分の体へと移し、その人たちを笑顔にしていきます…。』

 肩代わりしたいほど大切な人がその疵で苦しんでいるとき、時折自分の非力さに呆れてしまいます。そんな非力に思う自分の気持ちも、誰かから見れば一つの『疵』なのかもしれませんが——。

 そんな自分自身の苦楽と向き合う他にも、人の苦楽についても考えられる人でありたいと同時に、それを気にしすぎるあまり受ける意味もない痛みに悩まされるのもどうなのかな、と感じてしまいます。

 できれば他人のことなど気にも留めない方が、綺麗なすっぴんの体のままで入れられるのかもしれません。ですがそんな二次的な優しさの痛みも、誰かを思う気持ちも、人として備わっている共存本能みたいなものなのかもしれませんね。

 どちらが素敵であるかは人それぞれですが、疵を分かち合えることは素敵だなと私は思いました。

参照「失はれる物語 (傷より) / 乙一

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